つくろう、島の未来

2024年04月30日 火曜日

つくろう、島の未来

島旅作家として日本の海に浮かぶ全ての有人島を踏破。現在も毎年数十島を巡るという、斎藤 潤さんによる寄稿エッセイ「在りし日の島影」。
第18回は、日本列島のほぼ南端に12の島が連なる八重山諸島(やえやましょとう|沖縄県)の一つ、鳩間島(はとまじま|沖縄県)へ。芝からアスファルト舗装に変わった道の移ろいから、島の営みに想いを馳せます。

最近アスファルト舗装された、まるだいの前の道(2021年10月撮影)

世界一寝ころび心地のいい道

八重山行きを決めていたこの10月上旬、西表島(いりおもてじま|沖縄県)を訪ねる前に鳩間島にも立ち寄ることにした。集落内に少しだけ残っていた昔ながらの道が、ついにアスファルト舗装されるという。島の友人がSNSにそう投稿していて、気になったのだ。

想像はつくけれど、それでも移ろい行く道の表情を見てみたかった。また新たに刻まれる島の時を、体感したかったといってもいい。

初めて訪れた頃の鳩間島。集落内の存在感漂う道(1975年10月)

初めて訪れた1975年、記憶に深く刻み込まれた鳩間島の道といえば、芝の褥(しとね)。それが、自分にとって鳩間島の原風景となった。

道の真ん中には白い砂地もみえていたが、道端は深い芝生に埋め尽くされていた。深々とした芝の絨毯は、ちょっとここに寝ころんでごらんよ、と誘っているよう。チクチクするので必ずしも寝心地がいいとはいえないけれど、それでもふかふかとして全身を包み込んでくれるような優しい懐は、半世紀近く経ても忘れられない。

中森という小さな丘があるだけで、元々ハスの葉のように平らな島なので、芝の褥に身を任せると、サンゴ礁に漂うハスの葉の中に抱かれているような安らぎがあった。世界一寝ころび心地のいい道ではないか。

最後のアスファルト舗装の噂に接して、ささやかな幸せを感じながら過ごした数日が、急に生き生きと蘇ってきた。あれは、かけがえのない日々だったのかもしれない。

村の道だけではなく、小学校の校庭も一面芝生に埋め尽くされ、運動会の時は目の前に広がる浜から白砂を持ってきて、ラインを引いていたのが印象深かった。

港もまだ未整備で、桟橋がサンゴ礁の浅海に突き出しているだけ。もちろん、吃水(※)の浅い50トン程度の小さな定期船さえ入ってこれず、沖掛かりして小さく不安定な艀(はしけ)で本船と島を行き来するしかなかった。しかし、それは与論島(よろんじま|鹿児島県)のような大観光地でも目にした風景(艀は巨大だったが)で、特別な感慨を抱くこともなかった。

※きっすい。水面上にある船舶の船体が沈む深さ

昔の姿を残すカミノミチ(2021年10月撮影)

今回、鳩間島に降り立って定宿のまるだいまで行くと、宿の前の道が黒々と舗装されていた。なんだか異物が侵入したきたような違和感があったが、道が新しくなればどこでもこんなものだろう。砂やほこりや風雨にさらされ、やがて風景に溶け込んでいく。

これで集落内の主な道は、海から友利御嶽(ともりうたき)へ続くカミノミチを除いて、すべてアスファルトに覆われたことになる。

民宿まるだい脇の海へ続く道は84年春に舗装されたとか(1985年2月撮影)

また時は遡るが、1985年2月の雨に閉ざされ北西風が吹きすさぶ季節、10年ぶりに鳩間島を訪れた。

島に自動車が導入されたばかりで、港へ下る民宿まるだいの脇の道がアスファルト舗装になっていたのに驚かされた。

「去年の春、舗装されたさ」と、宿の良子オバア。去年(1984年)というのは、一度廃校になった中学校が奇跡の復活を遂げた年でもあった。

あれが、アスファルト化の走りだった。それから30数年経て、集落内の主だった道がアスファルト化されたとは、なんと遅々とした歩みだろう。その緩やかさが、鳩間島の魅力でもある。

自動車による轍ができていた集落内の道(1985年2月撮影)

芝の褥のアスファルト化は、古きよきものが消えていくようで残念だが、時代の流れの中では必然に違いない。複雑な想いが綯い交ぜになった感傷が、心をよぎる。

この半世紀で大きく変化したのは、鳩間島ばかりではない。自分が住む東京郊外の新興住宅地こそ、どれだけ激変したか分からない。それに比べると、芝の褥がアスファルト化された程度の鳩間島は、ほとんど変わっていないともいえるかもしれない。

振り返ってみれば、最初に訪れた1975年は人口が33人まで減り、中学校は廃校になり、小学校も児童1名のみと、鳩間島が最も衰亡の危機に瀕していた時代だった。

当時の道に芝の褥を見出す一方、人口30人ほどの小島の道にしては、ずいぶん存在感があると感じたものだった。しっかりとした踏み跡の道は、かつて多くの人口があったことを窺わせる。

1955年の国勢調査を調べると、人口は567を数えていた。鰹節製造などの水産業で、大いに栄えていたのだ。多い時は、実人口が千に迫った時代もあるという人もいるほど。

人に踏み固められた道は、そう簡単に消えることはない。今になって考えてみれば、厚い芝に縁どられながらも、十分な存在感を漂わせていた鳩間の道は、かつて栄えた歴史を忘れないで欲しいと主張していたのかもしれない。


【鳩間島概要】
●所在地
沖縄県八重山郡竹富町
●人口
62人(2021年9月 住民基本台帳住基人口)
●行政区分
明治41年 沖縄県及島嶼町村制の施行により八重山郡八重山村の一部となる
大正3年 八重山村が4村(石垣・大浜・竹富・与那国)に分村され、竹富村として分立
昭和21年 南西諸島の行政分離により米国施政権下に入る
昭和23年 南部琉球(米軍)郡政府の許可により竹富村から竹富町に昇格
昭和47年 日本復帰

離島経済新聞 目次

寄稿|斎藤 潤・島旅作家

斎藤 潤(さいとう・じゅん)
1954年岩手県盛岡市生まれ。大学卒業後、月刊誌『旅』などの編集に関わった後、独立してフリーランスライターに。テーマは、島、旅、食、民俗、農林水産業、産業遺産など。日本の全有人島を踏破。現在も、毎年数十島を巡っている。著書は、『日本《島旅》紀行』『東京の島』『沖縄・奄美《島旅》紀行』『吐噶喇列島』『瀬戸内海島旅入門』『シニアのための島旅入門』『島―瀬戸内海をあるく』(第1集~第3集)他、多数。共著に、『沖縄いろいろ事典』『諸国漬物の本』『好きになっちゃった小笠原』などがある。

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