つくろう、島の未来

2024年11月23日 土曜日

つくろう、島の未来

島旅作家として日本の海に浮かぶ全ての有人島を踏破。現在も毎年数十島を巡るという、斎藤 潤さんによる寄稿エッセイ「在りし日の島影」。
第12回は、三島由紀夫の小説『潮騒』(1954年)の舞台となった神島(かみしま|三重県)へ。小説の面影を求めてゆかりの地を歩き、島へ三島が取材に訪れた1953年当時を知る島人に話を聞きました。

寺田宗一さんに三島から贈られたハドソンのライター付きシガレットケース(2007年4月撮影)

生粋の島娘が見た作家の横顔

全国的な知名度の全くなかった神島が、自分の小説によって日本中に知れ渡ると予言した青年がいた。自信と誠意に満ちていたが、傲慢な物言いではなかったという。その男こそ、『潮騒』の作者三島由紀夫だった。

2007年、『潮騒』の面影を求めて神島を歩いた時、集落の上の方でメカブを干しているオバちゃんに声をかけたら、なんと三島由紀夫の語り部である寺田こまつさんだった。

三島が神島へ取材にきた1953年、宿を提供したのが漁協の組合長だった寺田宗一さんで、こまつさんは同家へ嫁いで一ヶ月足らずの若嫁さんだったという。
当時、島には3軒の旅館があったが、「ぼくは民間の家の方がいいんですけど」という三島の要望に応えて、宗一さんが一肌脱いだのだ。

「最初の2、3日は、先生の部屋へ食事を運びましたが、ぼくはお客じゃないから、下で一緒に食事をしたいということで、そうなりました」

三島は、季刊『しま』(日本離島センター)に「神島の思い出」として、こまつさんのことを「長男の嫁さんは、おとなしい、愛くるしい、しかし体力のすぐれた女性でした」と記している。

なぜ、こまつさんが語り部なのか。

『潮騒』とともに神島が有名になると、作家の島での行動や小説のモデルについて、島の内外でさまざまな憶測が語られるようになった。

こまつさんの義弟(ご主人の弟)は、ある新聞のインタビューに対して、義姉のこまつさんこそが、当時の事情をよく知る島の語り部だと答えている。

そして、そのインタビュー記事と共に義弟からこまつさんへ送られてきた手紙に、語り部として「真実を知る人は姉上だけだから、訪ねる人があれば語ってあげてください」と書かれていた。この手紙をキッカケに、語り部の自覚が生まれたという。

左から、神島取材時の三島由紀夫、寺田宗一さん、灯台守の田中さん(2007年4月撮影)

三島は、生粋の島娘からみたら、どんな人物だったのだろうか。

「本当に気さくな方でしたね~、家族みたいなもので。夕食の時、今日はこんなことがあったなんて、話していた。先生は気むずかしかったでしょう、としつこく聞く人がいる。でも、ほんとーに、気さくな方でした!」
こまつさんは、三島は気むずかしく偏屈に違いないと偏見を抱いている人間に、心底怒りを覚えているようだった。

「ぼくが今書いている作品ができあがったら、神島は日本国中に知れ渡りますよ。なんて書いている途中で自信をもって言えるとは、ただ者じゃないと思いましたよ。私は、ちょっと首をかしげましたが」
といって、こまつさんは懐かしげな笑顔をみせた。

こまつさんによれば、主人公初江の父である宮田の照爺は、義父の寺田宗一さんがモデルであり、主人公の新治が沖縄で台風の海に飛び込む場面は、こまつさんのご主人和弥さんの実体験に基づいているという。

宗一さんと和弥さんが三島の家を訪ねた時、危うく門前払いされそうになったので、「島のオヤジがきたって言ってくれ」そう伝えると、寝ていた三島が飛び起きてきたことなど、あまたのエピソードを聞き終えると数時間が流れ、とっぷりと日が暮れていた。去り際に、こまつさんが口にした。

「自分が話したいことを全部話したのは、今日が初めてです。みんな自分が聞きたいことだけ聞いて、さっさと帰っていくから……」

監的哨内部から伊良湖岬(中央)を見通す(2019年4月撮影)

翌日、作品ゆかりの地を歩いた。眺めの最も美しい場所として『潮騒』に描かれた八代神社は、今も大切に守られていて、4月には25年ぶりの結婚式も行なわれたばかり。島育ちの娘さんが、以前ここで式を挙げた母親に憧れ、強く希望したのだという。

燈台は、変わらず沖行く船を見守っていたが、もはや燈台守はいない。
若い2人が裸で抱き合う『潮騒』を象徴する場所として、戦争遺産の廃墟でありながら神島随一の観光ポイントになっているのが、監的哨(かんてきしょう)だ。1929年、旧日本陸軍によってつくられ、コンクリート製2階建てで屋上にも上ることもできる。伊良湖試験場から発射された試射弾の着弾地点を観測するための施設だったので、見晴らしは抜群だ。

耐震補強前の監的哨。2階の窓の縁は今にも崩れそう(2007年4月撮影)

「きれいな砂浜に囲まれていたのに、港が大きくなりテトラポッドが増えてから、浜がすっかり痩せてしまってますんやわ」
と島の海女さんが語るように、一番大きく変化したのはコンクリートで埋め尽くされた海岸線だろう。

ベストセラーとなった『潮騒』が、1954年最初に映画化された時の思い出として、こまつさんも在りし日の浜の光景を語ってくれた。

「映画の撮影がはじまると、船を雇って鳥羽の方から生徒や一般人が見学に来ました。港は砂浜だったから、ウィンチで巻き上げ人手で引き上げる方が速かった。今のように、いい港はなかったので」

島人は働くのに忙しく、あまり関心もなく、ロケを見学に行く人はほとんどいなかったという。

耐震補強した監的哨(右)と東屋(奥)。崩れかけていた窓の縁もきれいに(2019年4月撮影)

2019年久しぶりに神島を訪れると、監的哨の周辺には東屋や展望台ができ、遊歩道の手すりもきれいにつくり直されていた。

2007年当時は普通に見学できた監的哨だが、その後老朽化に伴い立入禁止にするという話も浮上した。しかし、2013年耐震補強と周辺の整備が行われ、引き続き立入可能になったのだ。間接的にだが、三島のおかげで末永く保存されることになった戦争遺産といえるだろう。

この時、こまつさんは島外のお子さんのもとへ身を寄せていて、残念ながらお会いすることはできなかった。


【神島概要】
●所在地
三重県 鳥羽市
●人口
310人(2021年3月 住民基本台帳住基人口)
●行政区分
明治22年 町村制施行に伴い、1島単独で答志郡神島村発足
明治29年 郡制施行に向けて、所属郡が答志郡から志摩郡に変更
昭和29年 鳥羽町・加茂村・長岡村・鏡浦村・桃取村・答志村・菅島村・神島村の合併により、鳥羽市に編入

     

離島経済新聞 目次

寄稿|斎藤 潤・島旅作家

斎藤 潤(さいとう・じゅん)
1954年岩手県盛岡市生まれ。大学卒業後、月刊誌『旅』などの編集に関わった後、独立してフリーランスライターに。テーマは、島、旅、食、民俗、農林水産業、産業遺産など。日本の全有人島を踏破。現在も、毎年数十島を巡っている。著書は、『日本《島旅》紀行』『東京の島』『沖縄・奄美《島旅》紀行』『吐噶喇列島』『瀬戸内海島旅入門』『シニアのための島旅入門』『島―瀬戸内海をあるく』(第1集~第3集)他、多数。共著に、『沖縄いろいろ事典』『諸国漬物の本』『好きになっちゃった小笠原』などがある。

関連する記事

ritokei特集