つくろう、島の未来

2021年05月15日 土曜日

島旅作家として日本の海に浮かぶ全ての有人島を踏破。現在も毎年数十島を巡るという、斎藤 潤さんによる寄稿エッセイ「在りし日の島影」。
第6回は、島内の家屋の7割が全半壊するほどの大震災から復興を遂げた、玄界島(げんかいじま|福岡県)の島づくりを紹介。細い路地と肩を寄せ合う家々が印象的だった、震災以前の姿も振り返ります。

海上から望む玄界島(1994年9月撮影)

震災復興を機に自らの意思で将来を選び取った島

二十数年前、1泊2日で福岡まで出かけた時、2日目の午後ぽっかりと時間ができた。どこかに出かけようと地図を広げたところ、目に飛び込んできたのが玄界島だった。

島影は見たことがあるが、まだ渡ったことはない。それならば、一度現地を歩いてみようと、博多港から船に乗った。博多湾内観光船でさえ200トン前後あるのに、玄界灘の荒波を越える船にしては120トンほどと意外に小さい。

それでも穏やかな天候に恵まれ、1時間弱(※)の航海は快適だった。最初は遠ざかっていく九州一の大都会福岡の風景に目を奪われていたが、玄界島が近づいてくると家々が積み重なるように密集した光景に目が釘付けになった。平地の少ない島ではよく目にする眺めだが、玄界島は特に密集度が高いように感じられた。

※現在の博多港と玄界島をつなぐ福岡市営渡船は片道約35分

滞在時間は、3時間ほどしかない。玄界島には、5キロほどの一周道路があったが、そちらまで足を伸ばさず、集落とその周辺だけを集中して巡った。

肩を寄せ合う家々の間を縫うがんぎ段(階段)は、ラビリンスのようでワクワクしてしまう。思いがけないところに、庭先を抜けないと通れない小路があったり、いつの間にかさっきいた場所に戻っていたり、オバァさんや猫がひょっこり顔を出すこともある。細く急な路地を当てもなくさ迷い歩き続けるだけで、不思議の世界を旅しているようで楽しかった。

玄界島の路地は、がんぎ段と急坂ばかり。老人には過酷だ(1994年9月撮影)

しかし、初めて踏み込んだがんぎ段や路地は新鮮味いっぱいだが、これが日常ではやりきれないだろう。

それでも、若いうちはまだいい。年をとって足腰が不自由になった時に、ここしか歩く道がなかったら、どれほど辛いことか。今は面白がってうろついている自分も、明日もう1日歩き回ってもいいぞと言われたら、歓迎はしないだろう。

目の前にある大都市福岡の暮らしを知ってしまった島人たちは、密集した家々とその隙間をどうにか分ける細いがんぎ段にがんじがらめにされた生活に、不満を抱いているのではないか。

しかし、ご破算に願いましては、とでもならない限り、この環境が整備されることはないだろう。そんなことを妄想しつつ、玄界島を後にした。

玄界島の全景(2014年5月撮影)

それから10年ほどたった2005年3月20日、玄界灘を震源とした福岡県西方沖地震が発生。それまで全国的には無名に近い存在だった玄界島が、一躍注目を浴びることとなってしまった。震源に最も近かった玄界島は、家屋の7割が全半壊するという甚大な被害に遭い、その惨状が広く報道されたのだ。

ひしめき合っていた家々が、どこがどの家だか区別がつかないまでに崩れた姿は痛々しかったが、奇跡的に亡くなった人がいなかったことに、救われた思いがしたものだった。

復興は順調に進んでいると聞きながらも、再び玄界島を訪れることができたのは、地震から10年近く経った2014年5月だった。島の沖に差しかかって、我が目を疑った。島人たちが一体となり主体的に取り組み、わずか3年ほどで復興を成し遂げたとは聞いていたが、ゴミゴミした漁村がここまで近代的で明るい集落に生まれ変わっていたとは。

瞼に焼き付いていたかつての漁村の面影は、一片のノスタルジーを感じる隙もないほど完全に拭い去られていた。大都市近郊に造成された最新の住宅地を、丸ごと切り取り海に浮かべたらこんな光景が現れるのではないか。論理的には想像できてしかるべき光景だったが、目の当たりにすると衝撃だった。

玄界島の人々は、震災のおかげでこんな暮らしやすそうな生活を手に入れたのか。地震が古い家並みを一掃しなければ、永遠に不可能だった集落景観に違いない。

船から降りて幻のように立ち現れた住宅街を歩くと、あまりの違いに愕然とした。すべての家はクルマで行けるようになり、屋外にもエレベーターが設置されていた。よくぞ3年で、ここまでの街をつくり上げたものだ。

かすかに残る昔の面影は、百合若伝説のある小鷹神社と大きく曲がりくねった車道と車道をショートカットする歩道として新たにつくられたがんぎ段(急坂の階段)くらいか。

公営の集合住宅。手前は新設のがんぎ段(2014年5月撮影)

震災直後の2005年7月から玄界島自治会長を務める上田永(うえだ・ながし)さんに、話を聞く機会があった。上田さんは、言葉を選びながらも、敢えて次のように語ってくれた。

「集落の上の方まで車道ができたのは、地震のおかげだった、とも思っています」

復興した晴れやかな集落景観を目の当たりにすると、災い転じて福となすという言葉が浮かんでくる。震災前は、狭い急坂を重い荷物を背負って上り下りするしかなく、島暮らしの大きな負担になっていた。そんな窮状が、はからずも地震という天災によってご破算となり、解決されることになったのだ。

前向きな島人たちは、震災後すぐに自分たちの将来を託せる委員(リーダー)を自主投票で13人選んだ。1人に3票を割り当て、この人ならという人を3人選んでもらい、得票数の多い方から13人を選ぶという、ユニークな方式だった。

その後、消防団、女性部、青年部など各種団体から各2人、計14人の協議委員も選出して、計27人が島人の意向を汲みながら計画をつくり、福岡市と協力して復興を推進した。

行政に頼る前に、自分たちの意思で自らの将来を決める道を選んだのだ。仮設住宅の半分は島につくることができたが、半分は本土につくるしかなかった。島に住めなくなっていたから、早く島へ戻らないと、という危機感も強かったという。

まるで新興住宅地。実際そうだが……(2014年5月撮影)

話を聞いてから、もう一度新しい街を散策した。旅人の勝手を承知で言えば、かつての生活臭に満ちた集落が懐かしくなるほど、無機質な感じがした。

家と家の距離がたっぷりとある分、人と人の距離も大きくなったのではないか。便利を喜びながら、どこかで寂しさを感じているお年寄りもいるかもしれない。

しかし、日常生活は比べようもなく楽になったはずだ。これなら島外から嫁いでくる女性も不安を感じないで済むに違いない。明日を担う若者たちは、全く別世界になった島でどんな未来を切り開いていくのか。また、10年後に訪れてみようと思った。


【玄界島 概要】
●所在地
福岡県福岡市西区
●人口
386人(2020年6月 住民基本台帳住基人口)
●行政区分
明治22年 町村制の施行により志摩郡小田村の一部となる
明治29年 郡制の施行により糸島郡が発足・小田村編入
     北崎村に改称
昭和36年 北崎村が福岡市に編入

離島経済新聞 目次

寄稿|斎藤 潤・島旅作家

斎藤 潤(さいとう・じゅん)
1954年岩手県盛岡市生まれ。大学卒業後、月刊誌『旅』などの編集に関わった後、独立してフリーランスライターに。テーマは、島、旅、食、民俗、農林水産業、産業遺産など。日本の全有人島を踏破。現在も、毎年数十島を巡っている。著書は、『日本《島旅》紀行』『東京の島』『沖縄・奄美《島旅》紀行』『吐噶喇列島』『瀬戸内海島旅入門』『シニアのための島旅入門』『島―瀬戸内海をあるく』(第1集~第3集)他、多数。共著に、『沖縄いろいろ事典』『諸国漬物の本』『好きになっちゃった小笠原』などがある。

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