つくろう、島の未来

2024年12月03日 火曜日

つくろう、島の未来

島旅作家として日本の海に浮かぶ全ての有人島を踏破、現在も毎年数十島を巡るという斎藤潤さんによる寄稿エッセイ「在りし日の島影」。
第38回は、高知県の西に浮かぶ沖の島(おきのしま|高知県)へ。45年ぶりに沖の島を訪れた斎藤さんが、かつて落花生やサツマイモが栽培され、いまでは森に覆われてしまった段々畑と島の営みに思いを巡らせます。

弘瀬集落の家々と裏山に続く段々畑(1978年12月撮影)

45年ぶりに見る島影に感じた違和感

全然、変わっていないなぁ。沖の島の弘瀬(ひろせ)集落が遠くに現れた時、そう思った。

絶妙に組み合わされ集落のフォルムをつくっている大小の石垣のたたずまいは、旅立つ前に探し出した45年前の写真と同じように思われた。

でも、港は一段と整備が進み、まるでちょっとした要塞のよう。これなら、海から押し寄せる波濤も風も、十分防げるのではないか。どんどん大きくなってくる懐かしい集落を凝視するうちに、違和感が膨れてくるのを禁じえなかった。

なにかが、違う。
全く違うように感じるのだが、分からない。

弘瀬集落の裏山は緑に覆われ、段々畑の名残はない(2023年7月撮影)

あっ、森だ。
突然、気づいた。まるで、アハ体験のよう。

石垣の砦のように見える集落は、かつては同じような石垣に支えられた急峻な段々畑に取り囲まれていた。しかし、今はそれが全く失せ、集落は緑濃い森に囲まれている。

45年前は暮れで、今回は夏という季節の違いを考慮しても、全く異なっていた。沖の島だけではなく、対岸の四国本土の急傾斜地でも、瀬戸内海の島々でも、この数十年間にいたるところで起きた変化だった。

耕して天に至っていた段々畑は急速に失われ、遠目にはすっかり森に戻ってしまった。という話は、どこへ行っても耳にするし、証拠となる写真を見せてもらうことも多い。

まさに耕して天に至る段々畑(1978年12月撮影)

手ぶらで登っても息が切れるようなデコボコ道の急坂を、当時の人たちは何十キロもの肥やしや農具、種芋などを担いで運び上げ、またそれ以上に重たい芋などの収穫物を背負って降りてきたのだ。

そう聞かされるたびに、選択肢のない日常の厳しさに心が打ちひしがれそうになる。実際それが当たり前の生活であった人にすれば、旅人の戯言(ざれごと)でしかないが。

西から望む弘瀬集落。周囲には段々畑が広がる(1978年12月撮影)
母島集落の北側斜面に広が゙る段々畑(1978年12月撮影)

歴史の陰に消えてしまった天に至る段々畑を、2回だけハッキリと見た記憶がある。‎一つは、国の定める重要文化的景観に選ばれている遊子水荷浦の段畑(ゆすみずがうらのだんばた)。沖の島のほぼ対岸、宇和島の半島部にあり、下手な離島より不便な場所にある。

そして、1978年の暮れに沖の島で目の当たりにした段々畑。段々畑の名残だけならば、20世紀後半まであちこちに残っていたが、瞼(まぶた)に焼きついているのはこの2カ所だけ。

弘瀬集落と奥に広がる段々畑(1978年12月撮影)

弘瀬に寄港してから船が向かった母島(もしま)集落も、状況は変わらなかった。

島集落の周辺にも段々畑の気配は皆無(2023年6月撮影)

朝の8時半過ぎにチェックインした母島の旅館おきのしまでご主人と話すうちに、少し時間があるから島を案内してあげようということになった。それは、ありがたい。久しぶりの訪島なので、45年間の移ろいを聞ければくらいに思っていたのだが、クルマで行ける主な観光ポイントを案内してもらえるとは。

45年ぶりだと伝えると、一言。
「ずいぶん変わったでしょう」
すぐに、話は消えた段々畑に及んだ。他と同じように、高齢化や過疎化、産業構造の変化などにより減少していき、森に帰ってしまったのだろう。そう確認すると、沖の島の場合は、少し事情が違っていた。

「40年ほど前に、イノシシが入って……」
それまでは、沖の島の農作物は美味しいと、対岸の四国本土でも評判だった。土が合うのか、特に落花生やサツマイモは、沖の島の特産品だった。人間が美味いと思うものはイノシシも同じで、サツマイモや落花生は大好物。徐々に、段々畑は機能不全に陥った。

母島集落の上部から集落と港を見下ろす。手前の竹製の棚に干してあるのはサツマイモか(1978年12月撮影)

この十数年、瀬戸内海の島々で顕著になっているイノシシの害(以下、猪害)が、ここでは昭和の終わり頃から猛威を振るいはじめていたのだ。高齢化や過疎化でいずれ段々畑は減少しただろうが、沖の島ではイノシシが引き金になった。

猪害は、単に農作物が失われるだけでなく、それを育てている生産者の意欲を完膚なきまでに奪い去る。ダメージは、農業者だけにとどまらない。自家菜園の手入れと収穫を一番の楽しみにしているお年寄りから、生き甲斐まで奪ってしまいかねない。

猪害に苦しむ人たちの話を聞いていると、各地域が場当たり的に対応するのではなく、国が先頭に立って戦略を立て、イノシシ肉などの有効利用も含めた対策を推進していくべきだろう。問題は、そこまで差し迫っている。

かくして、沖の島から段々畑は消えた。

右下の森の際に、わずかに残る段々畑の面影(2023年7月撮影)

「名残があるとしたら、あそこくらいかな」
島巡りの途中、小高い場所でクルマを停めてくれた。遠くの緑の中に、灰色の石垣らしきものがかすかに見える。

「あれだけですか……」
溜息しか出なかった。段々畑という巨大なレゴブロックのセットがあるとすれば、その1ピースのみが辛うじて残っているような感じ。

母島集落から港を望む。左の石段上部にはイノシシ除けの柵が。下の階段脇には手すりが続く(2023年7月撮影)

島をざっと案内してもらってから、母島集落の45年前とさほど変わらぬ迷路のような小径を、行きつ戻りつ彷徨い歩いた。階段や坂道には、どこもビニールやステンレスのパイプで手摺が設けられている。
 
70、80、90歳になって、この道をたどるのは大変だろうな。ほとんど変わらぬ年齢になった自分の脚を叱咤激励しながら、ゆっくり歩く。時々、鉄製の簡易柵に行く手を阻まれた。イノシシの侵入防止柵。夜になると集落の中さえ、我が物顔にのし歩くイノシシの姿が見えるようだった。

厳重に包囲されていた母島集落の落花生畑(手前右)(2023年7月撮影)

集落内を登り降りするうちに、意外なところで段々畑の残影に出会った。かつては宅地だったのではないかと思われる場所に、絶滅危惧植物を保護するように幾重にも囲い込まれた畑がつくられていた。秘密の菜園の中では、落花生やサツマイモ、その他の蔬菜(そさい)類が、葉を青々と繁らせている。

貴重な最後の砦は、いつまで持ちこたえることができるのだろうか。自家菜園が守り切れなくなった時は、集落の維持も難しくなるのではないか。自分の想像に胸騒ぎを覚えながら、濃い黄色が鮮やかな落花生の花に見入っていた。

母島集落の上の方の段々畑。畑はこんな風に区分されていた(1978年12月撮影)

【沖の島概要】
●所在地
高知県宿毛市
●人口
135人(2023年6月 住民基本台帳人口)
●行政区分
明治22年 町村制施行に伴い沖ノ島・鵜来島の2島をもって高知県幡多郡沖ノ島村となる
昭和29年 宿毛町・小筑紫町・橋上村・平田村・山奈村との町村合併で宿毛市となる

     

離島経済新聞 目次

寄稿|斎藤 潤・島旅作家

斎藤 潤(さいとう・じゅん)
1954年岩手県盛岡市生まれ。大学卒業後、月刊誌『旅』などの編集に関わった後、独立してフリーランスライターに。テーマは、島、旅、食、民俗、農林水産業、産業遺産など。日本の全有人島を踏破。現在も、毎年数十島を巡っている。著書は、『日本《島旅》紀行』『東京の島』『沖縄・奄美《島旅》紀行』『吐噶喇列島』『瀬戸内海島旅入門』『シニアのための島旅入門』『島―瀬戸内海をあるく』(第1集~第3集)他、多数。共著に、『沖縄いろいろ事典』『諸国漬物の本』『好きになっちゃった小笠原』などがある。

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