つくろう、島の未来

2024年11月21日 木曜日

つくろう、島の未来

島旅作家として日本の海に浮かぶ全ての有人島を踏破、現在も毎年数十島を巡るという斎藤潤さんによる寄稿エッセイ「在りし日の島影」。
第33回は、沖縄本島北部、本部半島の沖に浮かぶ小島、水納島(みんなしま|沖縄県本部町)へ。偶然乗り合わせた代船で船長と言葉を交わし、観光地化が進む島の歩みを振り返ります。

現在石畳になっている港から集落へ続く道(1992年10月撮影)

小船に揺られ、船長と言葉を交わしながら島へ

「今日は代船で小さいから、揺れますよ。大丈夫ですか」
 渡久地港に最近できた水納島行ターミナルで、乗船券を買う時に確認された。
「それは、楽しそうじゃないですか」
小さいといっても昔の高速船くらいかと思いつつ、これまた新設された浮桟橋へ行き、釣り人の瀬渡し船ほどの小ささに驚いた。

代船「はまかぜ」の船長によれば、定員17で約5トン。夏のシーズンは、173名定員(86トン)の定期船「ニューウィングみんなII」がピストン輸送するそうだが、まだ海が荒れ気味の早春、渡久地港13時発の船に乗り込んだのは、自分も含めシュノーケルを抱えた若い女性と見るからに仕事目的の3名だけ。

水納港に停泊中の「高速船みんな」(1992年10月撮影)

1992年10月に水納島へ渡った時は、96名定員(40トン)の「高速船みんな」だった。あれから30年、船がどれだけ変化したか体感したかったのだが、あいにくドック入りとぶつかり、思いがけない小船での渡島となった。

沖縄復帰直後のブルー・ガイドブックス『沖縄』(48年版)には、多良間村の水納島(みんなしま|沖縄県)は「かつては民俗学の宝庫とされたが、現在は無人島」と紹介されている。しかし、沖縄本島から目と鼻の先にある水納島(みんなしま|沖縄県本部町)は、まったく出てこない。それだけ、存在感が薄く渡島も困難だったのだろう。
サンゴ礁の浅瀬に水路がつけられ突堤が完成し、なんとか港の体をなしたのが、復帰6年目の1978年2月だった。

すぐ目と鼻の先の本部半島で、未来型海洋都市のモデル人工島アクアポリスや新交通システムを目玉とし、「海‐その望ましい未来」を統一テーマに沖縄国際海洋博覧会が開催されたのが、1975年。「未来」の傍らで、水納島は交通苦や離島苦に呻吟していたのだ。
水納島で電話が使えるようになったのが、1979年。海底送水開始が、1980年。送電開始は、1981年。そして、「高速船みんな」就航が、平成を迎える前年の1988年だった。

水納小中学校(当時在校生10)1980年完成の体育館(正面)、1985年完成の教室や職員室(1992年10月撮影)

30年前はまだ新しかった校舎を思い出しながら、船長に学校の現状を聞いた。
「休校になって、3年になります」
小学生が1人と未就学児童1人がいながら、休校に至るいきさつを聞いて、それもありだよな、と反省した。

小島の場合、唯一の公共機関であり、文化センターでもある上に、数少ないサラリーマン(教員)雇用の場でもある学校は、何としてでも守らねばならない聖域だ。そのため、島の長老たちは自分の孫や親戚の子どもなどを無理やり島の学校へ転校させ、聖域の維持に努めてきた。その努力と熱意たるや尋常ではないと、いつも感心し賞賛していた。
今も彼らの思いを否定するつもりは全くないが、島の聖域よりも大切な子ども本人の思いは、どうだったのか。島の存続のために、子どもの気持ちがないがしろにされることはなかったのか。

左:休校になって3年の水納島小中学校/右:教室の上に津波の避難場所ができていた(2023年3月撮影)

「中学生が1人卒業して、小学生1人だけになった子が、寂しいから転校したいと、親を説得したんです」
両親や島人たちがどういう反応を示したのかは分からないが、最終的には子どもの願い通り、両親と未就学児童の弟と共に4人で対岸へ引っ越したという。ならば、なぜ廃校ではなくて休校なのか。

「この島に大きめのリゾートができた時、子どものいる従業員も受け入れられる学校が必要になるはずです。だから、残している」
確かに、本部半島周辺の他の島を見ていると、水納島にリゾートができてもおかしくない。
休校に伴い一家4人と教員8人が島を去ったので、人口は18になった。

思いの外小さかった代船「はまかぜ」。水納港にて(2023年3月撮影)

小船は予想通りかなり揺れ、前方の甲板に座っていたら、けっこう飛沫を浴びた。風はあるものの、荒天でなくともこれだ。港がなかった時代、どれほど大変だったことか。
水納港に降り立って(実際は、よじのぼり)、大きな建物が二つもできているのに、目を奪われた。真夏ならばおびただしい観光客に注意が行くのだろうが、我々3人以外は、午前中の船で遊びに来て戻る人が10人ばかり。ビーチはほとんど貸し切り状態だった。

島の規模にしては巨大な待合所と謎の施設(右奥)(2023年3月撮影)

向かって左の待合所の屋根には、「めんそーれ水納島」の文字が。右手の堅牢な石造建築の上からは、タンクのようなものが見えている。30年もたち、なおかつ有名観光地になったのだから、こんなものが建っても不思議はない。

港から集落へ続く道はトラバーチンの石畳になっていた(2023年3月撮影)

近寄ると、2つの建物の間にあるはずの集落へ続く白砂の道が、首里城に似合いそうな立派な石畳の道になっていて、もう一驚き。

待合所の内部はかなり広い(2023年3月撮影)

100人くらいは入れそうな待合所には、トイレと自販機、畳ではないが寝転がれるスペースもあり、周辺にはウッドデッキも備えていた。
石畳と同じ石材を使った謎の建物では、シーズン中、有料シャワーやコインロッカー、更衣室、売店、食堂などが利用できるようになるらしい。水納ビーチのビジターセンターといったところか。

浄水施設とビジターセンターが一体化したような不思議な施設(2023年3月撮影)

集落や休校中の学校、井戸、御嶽などをゆっくり巡り、待合所で一休みするうちに、最終便がやってきた。上陸した男性3人は、代船なので女性の代わりに買い物に出たようで、大きな荷物を運び上げ置いてあった軽トラに乗ると、集落の中に姿を消した。

出発まで数分あるので、また船長に話を聞いた。
トラバーチンを敷き詰めた立派な道は、30年ほど前視察に来た沖縄開発庁の次官に、陳情した成果だという。ということは、前回訪ねた直後にできたのか。

砂丘についた港から集落への道は、雨が降るたびに深い溝ができたり崩れたりで、集落総出での補修が大変だった。本部町に度々舗装して欲しいと陳情していたが、道の幅が法律適用外だとして、認めてもらえずにいた。そこで、藁にすがる思いで次官に直訴したところ、とんとん拍子に話が進んで美しい石畳の道が生まれたという。

「今でも、名前をよく覚えています。藤田さんという人でした」
沖縄開発庁のサイトによれば、藤田康夫という人物が1991年1月から翌年の7月まで事務次官の職にあったことが分かる。ほぼ、30年前で時期も一致する。水納の石畳の生みの親は、この人で間違いないようだ。

トラバーチンの石畳(右)と擬トラ道の合流点(2023年3月撮影)

トラバーチンが敷き詰められたのは、港と集落間、集落の主な道だけ。予算の関係で、あとはコンクリートと型枠と色粉を使って、擬木ならぬ擬トラバーチンで舗装した。
「工事には、島中の人が参加して、1か月ほどかかりました」
待合所もビジターセンターも、いろいろな補助金を使ってつくられたが、基本的な維持補修はすべて地元任せなので、資金と人手のやりくりに苦労しているという。

なお、勝手にビジターセンター呼ばわりしていた建物の半分は高度な浄水施設で、再生水はトイレの洗浄などに使われているという。
すっかり観光地化した小島を、シーズンオフに久々に再訪してみたのだが、代船だったおかげで船長といろいろ話すことができ、知られざる水納島に触れた小さな旅だった。


【水納島概要】
●所在地
沖縄県 国頭郡本部町
●人口
20人(2022年12月 住民基本台帳人口)
●行政区分
明治41年 沖縄県及島嶼町村制の施行により国頭郡本部村の一部となる
昭和15年 町村制施行に伴い国頭郡本部町となる
昭和21年 南西諸島の行政分離により米国施政権下に入る
昭和47年 本土復帰

     

離島経済新聞 目次

寄稿|斎藤 潤・島旅作家

斎藤 潤(さいとう・じゅん)
1954年岩手県盛岡市生まれ。大学卒業後、月刊誌『旅』などの編集に関わった後、独立してフリーランスライターに。テーマは、島、旅、食、民俗、農林水産業、産業遺産など。日本の全有人島を踏破。現在も、毎年数十島を巡っている。著書は、『日本《島旅》紀行』『東京の島』『沖縄・奄美《島旅》紀行』『吐噶喇列島』『瀬戸内海島旅入門』『シニアのための島旅入門』『島―瀬戸内海をあるく』(第1集~第3集)他、多数。共著に、『沖縄いろいろ事典』『諸国漬物の本』『好きになっちゃった小笠原』などがある。

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