つくろう、島の未来

2024年11月24日 日曜日

つくろう、島の未来

島旅作家として日本の海に浮かぶ全ての有人島を踏破。現在も毎年数十島を巡るという、斎藤 潤さんによる寄稿エッセイ「在りし日の島影」。
第8回は、冬に集めた雪や雨水を農業用水として利用する伝統農法「ふゆみず農法」が行われてきた東北の島・寒風沢島(さぶさわじま|宮城県)へ。父娘で訪ねた島で出会った温かなもてなしの思い出や、2011年の東日本大震災から再生を果たした島の米づくりについてお届けします。

寒風沢島・元屋敷浜の水田。背景には奥松島の小島が(2004年10月撮影)

印象的な「寒風沢」という文字面にひかれ、初めて島を訪れたのは30年以上前の早春のこと。翌月小学校入学を控えた、6歳になったばかりの長女との2人旅だった。

南東北ミニ周遊券(※)を1枚握りしめ、行き当たりばったりの父娘旅。1泊目、2泊目は、深い雪に閉ざされた新潟と山形の、いずれも小国(おぐに)という同じ名を持つ町の商人宿に転がり込んだので、3泊目くらいは明るい海のある場所へと、松島湾の島へ繰り出したのだ。

※かつての日本国有鉄道(国鉄)およびJR各社が、1955〜1998年まで発売していた特別企画乗車券

とはいうものの、夕暮れ間近になって島へ着いたのに、宿の予約はなし。それもうっすら雪が残る早春の松島湾の小島だから、飛び込み宿泊は断られても仕方ない。ましてや、怪しげな父娘連れ。いわくありげには見えなかったと思いたいが、島人たちの目にどう映ったのかは分からない。

2軒で断られ、3軒目の民宿外川屋が、大した食事は提供できないがそれでもよければと、泊めてくれることになった。父親はともかく、連日宿の綱渡りにおびえていただろう娘にとって、地獄で仏だったに違いない。

何もないという約束だったのに、まずドカンとだされた鍋いっぱいの蒸しガキに圧倒された。気がつくと、たっぷりの酢ガキも登場し、さらにカキフライまで。もちろんカキだけではなく、刺身から煮魚やカニなど、予約していてもこれだけ出てくるかなという、嬉しい海産物がずらりと並んだ。

心細そうだった娘は、ちょうど同じ年頃の宿の娘さん2人とすっかり打ち解け、女将の英子さんにカレーまで出してもらい、すっかりご機嫌。いい加減な父親でも、明るい娘の笑顔に少し安心して、宿の主人晴信さんと大いに飲み、話も弾んだ。

魚介類ももちろん美味しかったけれど、ご飯も手前味噌を使った味噌汁も、付け合わせの野菜も雑味のない本物の沢庵漬けもすべて寒風沢産で、どれもこれも味わい深かった。広大な田んぼもあるので、米も島外へ大量に移出しているとか。

「その気になれば、自給自足が可能な島じゃないですか」。晴信さんにそういうと、「んでがす(そうです)」と即答。外交だけを日本国に任せれば、独立できるんじゃないかと、夢物語でさらに盛り上がった。

今では奥松島の寒村のたたずまいだが、江戸時代は伊達藩の海上交易の要衝として大いに栄えた島だった。外川という苗字は、ご先祖様が銚子の外川から移住してきたことにちなむという。広く世界に開かれた土地だったのだ。
また、仙台藩が日本で最初の鋼鉄製の西洋型軍艦「開成丸」を建造したのも寒風沢島で、港の前にはその偉業を伝える造艦碑が建立されている。

翌朝、島が誇る穀倉地帯を見に行った。集落裏手の坂を登り、小さな峠を越えると、見渡す限りの水田が広がった。これなら自慢するのも当然だろうと思われる、予想以上の規模。前浜と元屋敷浜という美しい白砂の浜に挟まれている地形も、印象深かった。

それから3年後の夏休み、今度は家族4人で寒風沢島へ渡った。食卓の上でもまだトゲを動かしているウニに、子どもたちは大騒ぎ。昼は地元で人気の海水浴場前浜で水遊びをし、夜は水田で明滅するホタルの切ない光に見入り、花火に興じ、満天の星空を仰ぐ。枯草色の早春とは異なり、水田地帯は豊かな緑に覆いつくされていた。

その後、塩竈市内の水田は減り続け、残るは寒風沢島の田んぼだけになった。その島でも休耕田が増えつつある、と聞いたのはいつのことだったか。

一部に休耕田はあるが広い水田地帯が維持されていた(2004年10月撮影)

2011年3月11日、市内唯一の水田地帯にも津波は容赦なく襲いかかり、すべてを呑み込んだ。寒風沢島では大きな揺れの直後、全員が避難所へ逃げることができたが、忘れ物を家にとりに戻った3人が、津波に巻き込まれ帰らぬ人となった。それを知ったのも、現地を訪ねてからのこと。

震災直後から、都市部や原発事故の状況はつぶさに報道されたが、小さな島の情報はほとんど伝わってこなかった。3月下旬だっただろうか。被災後のグーグルマップを見ていて、外川屋らしき建物の屋根が写っているのに気づいた。少なくとも人は無事だったに違いない。確認しようにも、電話はまだ通じなかった。

現地も少し落ち着きはじめたゴールデンウィーク明け、直接外川屋を訪ねた。やはり、建物は残っていた。多くの家々を巻き込んだ津波は、奇跡的に外川屋の前で止まっていたが、1メートル以上浸水して1階は使えない状態だった。それでも無事を確認できて、ひとまず胸をなでおろす。広い水田地帯は、一部が海と化したままだった。

津波と地盤の沈降により海の一部と化した水田(2011年8月撮影)

翌年の夏に訪ねると、水田の大半が見事に復活していた。島では数少なくなった米農家の外川さんも、津波被害があったまま脱塩していない田んぼで米づくりに挑んでいた。
「イネは、意外に塩に強いな」というのが、外川さんの実感だった。震災の翌年に生き返った寒風沢米は、地元塩竈にある銘酒「浦霞」の醸造元、株式会社佐浦の手で醸造され、翌春地域限定の「純米吟醸 浦霞 寒風沢」として復活した。

2009年に寒風沢島の農地再生を目指す「浦戸アイランド倶楽部」と佐浦が協力して世に問うたのが「純米吟醸 浦霞 寒風沢」だった。それが、震災から2年後の春に再生したのだ。もちろん、外川さんのササニシキも使われている。

純米吟醸 浦霞 寒風沢

本原稿執筆時に電話で確認したところ、今年もササニシキを5反ほどつくったという。島の米農家は、外川さんも含めて今や2軒だけ。一時は後継者ができそうという話もあったが、どうなったのだろう。松島湾の奥に眠る豊かな田園風景が、これからも残り続けることを願わずにはいられない。

手前の水田は復活し、奥では復興事業が続く(2012年8月撮影)

【寒風沢島概要】
●所在地
宮城県塩竈市
●人口
95人(2020年9月 住民基本台帳住基人口)
●行政区分
明治22年 宮城郡寒風沢浜
明治22年 浦戸諸島4地区の合併で浦戸村となる
昭和25年 塩釜市に編入

     

離島経済新聞 目次

寄稿|斎藤 潤・島旅作家

斎藤 潤(さいとう・じゅん)
1954年岩手県盛岡市生まれ。大学卒業後、月刊誌『旅』などの編集に関わった後、独立してフリーランスライターに。テーマは、島、旅、食、民俗、農林水産業、産業遺産など。日本の全有人島を踏破。現在も、毎年数十島を巡っている。著書は、『日本《島旅》紀行』『東京の島』『沖縄・奄美《島旅》紀行』『吐噶喇列島』『瀬戸内海島旅入門』『シニアのための島旅入門』『島―瀬戸内海をあるく』(第1集~第3集)他、多数。共著に、『沖縄いろいろ事典』『諸国漬物の本』『好きになっちゃった小笠原』などがある。

関連する記事

ritokei特集