※この記事は『季刊ritokei』32号(2020年8月発行号)掲載記事です。フリーペーパー版は全国の設置ポイントにてご覧いただけます。
住む人の消えた家 生い茂る草花の隙間に
立ち昇る土地の記憶
家族は集い草を刈り ひとときを共有する
20年以上もの間、誰にも使われることのなかった島の納屋。その周囲に生い茂る草を刈るために、一家が集い、島に渡る。
芥川賞の受賞作品でもあるこの小説の舞台は、長崎県のとある島。島育ちの母に連れられた娘と、その伯父、伯母、従姉妹が船に乗り、島で一人暮らしをする祖母を訪ねる一日が細密に描かれる。
島で過ごす家族の1日は4つの章に分けられるが、現在を生きる彼らの時間に交錯するように、過去その島であった「誰か」の出来事が語られる。開拓を夢見、家を売って島を出た家族の話、戦後に密出国を試みた朝鮮人の海難事故、疫病の流行や鯨漁のこと、カヌーを残していった家出少年のいきさつ……。断片的にあらわれる過去の描写は、時代は異なるが、どれも現在につながっている。かつてこの島で生きた人たちの姿がひととき蘇ったかのように、読み手の心に鮮やかな印象を残す。
ページをめくり、時空を超えた島の過去現在を行き来するうちに、イメージのレイヤーが重なり合い、島に漂う土地の記憶が浮かび上がってくるようだ。例えるなら、訪れた旅先で、無人となって久しい古びた家屋や、旅館や商店の跡、かつて栄えていたが今は廃れきってしまったらしき港などに身を置き、そこで生きた人々の気配をうっすらと感じ取るような感覚。見えない時の流れに、そっと触れるような感触に近い。
季節がめぐり、繰り返される循環の摂理の中で、一人ひとりの生は束の間のできごとだ。島の大地の上で生まれては消える、瞬間の命の瞬き。そこに根を張る背高泡立草は、いくつもの瞬きをただ見つめ続けてきたのだろう。
祖母の暮らす土地としてのみ島を知る若い孫娘は、手入れに入った空き家の二階に寝そべり、階下に居る母の独り言や、鳥の声、木の葉のざわめきが流れる永遠のようにも感じる時を味わい、ふとそれが終わってしまうのが惜しいと感じる。そして、時が流れ、いつか誰も来るものがなくなり草の中に埋もれた納屋の姿を思う。
魚腥草、芝、虎杖、蓚、蝦蔓、背高泡立草…。島に来ようとしない夫を置いて納屋の草刈りに娘たちを誘う母は、雑草として刈り取るさまざまな植物の名前を、愛おしげに呼ぶ。
草は引いても再び生えてくる。戸を締め切った家にも至るところに黴がつく。そして繰り返し島を訪れ、草を引き、家を手入れする母に伯父、伯母、しぶしぶと働く娘たち。まるで無駄なように思える作業を繰り返しながら、生きるということ、島に息づく自分たちの歴史を慈しむ眼差しを、家族は共有するのだろう。
(文・石原みどり)
東京在住、2014年より『ritokei』編集・記事執筆。離島の酒とおいしいもの巡りがライフワーク。鹿児島県酒造組合 奄美支部が認定する「奄美黒糖焼酎語り部」第7号。著書に奄美群島の黒糖焼酎の本『あまみの甘み 奄美の香り』(共著・鯨本あつこ、西日本出版社)。ここ数年、徳之島で出会った巨石の線刻画と沖縄・奄美にかつてあった刺青「ハジチ」の文化が気になっている。