「国境離島」と呼ばれる島々に暮らしている人の想いを紹介。2017年4月、「有人国境離島法」が施行され、29市町村71島が特定有人国境離島地域として指定されました。「国境離島に生きる」では、内閣府総合海洋政策推進事務局による「日本の国境に行こう!!」プロジェクトの一環として実施された、71島の国境離島に生きる人々へのインタビューを、ウェブマガジン『another life.』とのタイアップにて公開します。
島で食べたものが一番美味しい。
全国の人にも島の人にも利尻の良さを伝えたい。

北海道の利尻島(りしりとう)で、飲食店の経営や、特産品の開発を行う尾形さん。昔から強かった島への愛情は、島を出ることで、さらに強くなったそうです。一流レストランでの修行を経て島に戻り、島の食材の可能性を発信し続ける尾形さんにお話を伺いました。
好きだからこそ外の世界へ
北海道札幌市で生まれました。3人兄弟の長男で、実家は洗濯屋です。保育園から北海道の離島、利尻島に引っ越して、海や山の大自然で遊んでいました。小さい頃はやんちゃでしたね。親がよく小学校に呼ばれて怒られていました。スポーツが得意で、小学校からサッカー、スキー、空手を習っていました。
中学では、サッカー部がなかったので野球部に入部。スカウトを受けるほど活躍しました。高校では、一番センスがないバレーボールに挑戦し、部活三昧の日々でした。
卒業後は、商業系の専門学校に進学したいと思っていました。しかし、親に進学したいことを告げると、「家計の事情で進学費用は出せない」と言われました。それまで迷惑をかけてきたから、親の言うことを聞こう。将来は実家を継ごうと思い、洗濯屋に就職しました。
ところが、3ヶ月でクビになりました。洗濯工場の工場長と揉めてしまったんです。向いてなかったなと感じると同時に、本当にやりたいことは何だろうと思い始めました。
再就職先は島外がいいと考えていました。島が大好きで、島で暮らしていきたい思いはありましたが、外の世界を一度見てみようと思いました。
その頃、すすきのの飲み屋に出入りしていたんです。いつも通り飲んで、仕事をクビになった話をしたら「明日から来い」と言われて。翌日からすすきのの飲食店でバーテンダーとして働くことになりました。
やっぱり島が一番いい
バーテンダーで雇われましたが、気がついたら料理も担当していました。未経験でしたが、丁寧に教えてもらいました。肉が専門のお店で、初めは炭火で焼き鳥を焼いて、できたら板場に回してもらって、板場もできるようになったら次は洋食と、どんどんできることが増えていきました。
料理のスキルがあがる楽しさを実感し、一通り勉強しました。
その頃から、自分の店を持つことへの憧れがありました。DJをしていたので、料理も出るDJバーを作りたいと考えていました。
お金が貯まった26歳の時、独立して念願のお店をオープンしました。不安はなく、やれると思っていましたね。お客さん自体はいましたし、DJとしてイベントにも呼ばれて、そこそこ食っていけていたんです。
でも、そんなに甘くはありませんでした。ギリギリで回っている状態で、体力があるから何とか持っていたけど、体への負担がすごく大きかったですね。
独立から2年くらいして、体を壊しました。お酒が飲めなくなるほどでした。お店をやめざるをえなくなって、島に戻って数ヶ月休養しました。
すごく久々に戻ってきたのに、利尻のみんなは優しかったんですよね。やっぱりここが一番いい。休息できる場所だなと心に染みましたね。
しかし、そのまま暮らそうとは思いませんでした。今島にいても実力がなくて何も生み出せない。もっと修行が必要なんじゃないかなと思いました。
体力が回復した頃、知人から、すすきので飲食店の店長をやらないかと誘われました。経営者という立場を味わって、雇われには戻れないと思いましたが、店長だったらいいなと思い引き受けました。
店長をやって約2年、29歳の頃、すすきのが衰退しつつあることを強く感じました。すすきのを離れよう、せっかくなら北海道を飛び出してチャレンジしようという想いがふつふつと浮かんでいた時、横須賀でジンギスカン屋をやりたいから店長をやってくれないかと話をもらって横須賀に行くことにしました。
島で食べたものが一番美味しい
横須賀でジンギスカン屋の店長としての生活が始まりました。お店自体はジンギスカンブームに乗って繁盛はしていましたが、この盛り上がりも数年で終わるだろうと予想していました。
同時に、横須賀に出たことで北海道の偉大さに気づいてしまったんです。北海道にいた頃は関東には色んなお店があるんだと思い込んでいましたが、実際は違いました。すすきのの方がお店の数も多いし、規模も大きい。すすきのが偉大だったことを知りました。
2年で店を辞め、川崎でも働きましたが、感触は横須賀と同じでしたね。だったら日本の一等地で働き、トップの技術を習得しようと決心。いつかイタリアンのお店をやりたい想いがあったので、赤坂のイタリアンレストランで修行しました。
赤坂は次元が違いましたね。すすきのと比べても全然違った。何が違うってお客さんの質です。赤坂には本物の大金持ちで、食への探究心が強い人達がたくさんいました。
そして、関東で働いてわかったことが、もう一つありました。それは、島で食べたものが一番美味しいということでした。こんなに素晴らしい島の魅力を、発信しない手はないと思いました。
この頃から利尻島への思いがどんどん強くなっていきました。やっぱり俺のやりたい事って、島に帰って、これまで習って来たものを島に残すとか、島の人のためになることをやるとか、島の発展のために頑張るとか、そういうことだと考えるようになっていきました。
赤坂で1年働いた後は、友達に誘われるがまま、すすきので働きました。さらに1年して、今度は利尻島で焼肉屋を開かないか誘われたんです。
利尻島でお店を開くのはいいと思いつつも、僕が本当にやりたいのはイタリアンでした。でも、親に相談したら、「イタリアンなんて誰も食わないから無理だ」と言われました。そもそも、人が減っている利尻で店を始めることに反対だったんです。
確かにお客さんが少なく、東京で学んだものを活かしきれないだろうと、イタリアンの店は断念。しかし、利尻で店を開くことに関しては親と意見が異なりました。むしろ衰退しているからこそやりたかった。それで、肉と地酒を楽しめる居酒屋をオープンすることにしました。
島にないものへの挑戦
居酒屋では、島にはない新しいことをやっていこうと思いました。最初にやったのは、飲み放題です。すすきのや関東には当たり前にありましたが、島でやっている店はひとつもありませんでした。他店の人に「そういうのをやられると困るんだけど」と言われましたが、島外のやり方を島の人にも知ってもらいたかったので、耳を貸しませんでした。
お店のメニューは、島の人にいい食べ物とは何か知ってほしいという思いで考えました。島の人がいい食べ物を理解していれば、島の食を評価できて、人が来て話題になる。それを発信することで、外からの注目も浴び、島の食の魅力が伝わっていく。そう思い、値段は張るけど、上質なメニューを考案しました。
しかし、それは島の人たちに求められていませんでした。一皿1000円以上するメニューは売れないんですよね。島の人向けのお店としては、方向転換を迫られました。
その頃、フェリー乗り場にある物件で店をやりたい人を募集して、声がかかったので見に行きました。その物件の景色を見た時、そこで店をやることを即決しました。ガラス張りで目の前には海と港があって、フェリーが佇んでいて。この景色のためにここでやるしかないと思ったし、お店をやるイメージがはっきり浮かび、そこでイタリアンカフェを始めました。
居酒屋とカフェの2店舗を経営することになり、それぞれのコンセプトを明確に分けました。居酒屋は地元の人が来やすいお店、カフェはいい食べ物で島の良さを発信する場所です。店内の家具もオシャレなものにしました。
しかし、イメージ通りにはいきませんでしたね。フェリー乗り場にはお年寄りの団体客が多く、想定していた客層とかけ離れていました。それでも撤退は考えませんでした。発信するためにはベースとなる場所が必要だと考えたからです。
島外の人に利尻の良さを知ってもらうため、島の食材を使った新作料理や、店からの風景をSNSで発信し続けました。努力の結果、雑誌やメディアに取り上げてもらえるようになり、次第にお客さんが増え、カフェのために利尻に来る方も出てくるようになりました。
また、カフェが軌道に乗り始めた頃、北海道庁の企画で商品開発をすることになりました。道内の生産者や飲食店の方が、商品開発を通じて、マーケティング戦略やネットワークの活用方法を身につけるためのプロジェクトでした。
そこには、すでに商品を作って地域の良さを発信している人がたくさんいました。彼らを見ていると自分がやってきた発信はまだまだ弱いもので、もっとやらなくちゃと、さらに熱意が湧きました。
それに料理の知識もスキルもあるんだから商品開発もできるのではないかと、考え始めたら、アイデアがぽんぽん浮かんできました。やっとこれまでの経験を活かせるんだと嬉しかったですね。
プロジェクトでは利尻昆布を使った梅酒を開発しました。試作で1800本作ったら大好評でその後8000本作ることになりました。
どこ行ってもすげえからまず来いよ
現在は居酒屋とカフェの経営、それから商品開発で、利尻の良さを発信しています。カフェのメニューは、海の幸の新しい可能性を見出せるものにしています。
例えば、ウニはウニ丼ではなくパスタソースにしたり、利尻の家庭では当たり前のタコが入ったカレーを出しています。利尻には一年中美味しいものがあるので、食べても美味しい、見ても美味しいものを発信していけたらと思っています。
ありがたいことにカフェのために利尻を訪れてくれる人は、年間100人近くになりました。個人の発信でもお客さんを増やすことができるんです。お客さんを増やしたければ、まずは目に触れて知ってもらうこと。そして足を運んでその良さを体験してもらうことだと思います。
これからは、食を絡めた子ども向けの体験コンテンツを作りたいと思っています。すすきので働いてる時に、ちっちゃい時に利尻島に来たことがある人に出会いました。その人が「利尻島で見た星より綺麗なものなくて、一生忘れない」って言ってくれたんです。子どもの頃にいい体験をすると、大人になってもう一度行きたいって思うじゃないですか。観光や利尻の発展のためにはそれが必要で、コンテンツ作りは自分の使命だと思っています。
利尻の良さは海と山など自然の雄大さと水のうまさ、海産物の質ですね。ここまで条件が揃っているところはなかなかありません。どこ行ってもすげえから、まずは来いよと言いたいです。
商品開発も観光と同じで、まずは存在を知ってもらうこと。利尻産の商品が誕生して広まることで、利尻との接点を増やしていきたいと思っています。商品開発の依頼も受けていて、食材は北海道全体を視野に入れています。
北海道のいいもので、自分たちも知らないものがまだまだあるし、他の地域にも尽くして信用をつけていきたい。
北海道全体が盛り上がって潤うことで利尻の知名度もあがったらいいなと思います。北海道の商品開発で活躍することによって、話題になった時、その発端は利尻だと、常に利尻の名前が挙がるようになったらいいですね。
離島経済新聞 目次
【国境離島に生きる】国境離島71島に暮らす人へのインタビュー
いわゆる「国境離島」と呼ばれる島々にはどんな人が暮らしているのか? 2017年4月に「有人国境離島法」が施行され、29市町村71島が特定有人国境離島地域として指定されました。「国境離島に生きる」では、内閣府総合海洋政策推進事務局による「日本の国境に行こう!!」プロジェクトの一環として実施された、71島の国境離島に生きる人々へのインタビューを、ウェブマガジン『another life.』とのタイアップにて公開します。
- 【国境離島に生きる】トビウオに恵まれた屋久島で見つけた暮らし。|屋久島 田中啓介さん
- 【国境離島に生きる】「ただいま」と言って入れる居酒屋を。|奥尻島 佐藤恵子さん
- 【国境離島に生きる】島で食べたものが一番美味しい。|利尻島 尾形宗威さん
- 【国境離島に生きる】子どもたちの世代に利尻の漁業を残すために。|利尻島 蝦名隆史さん
- 【国境離島に生きる】両親への恩返しと第三の人生を、江島で。|江島 福田智美さん
- 【国境離島に生きる】夢だった新聞記者をやめた、次の挑戦。| 中通島 竹内紗苗さん
- 【国境離島に生きる】唯一無二の味を守るべく、漁師の新たなる挑戦。| 平島 中邑清敬さん
- 【国境離島に生きる】五島唯一の女性鍼灸マッサージ師が目指すもの。| 福江島 才津香澄さん
- 【国境離島に生きる】農作物をちゃんと売れる場所を作りたい。| 福江島 佐藤義貴さん
- 【国境離島に生きる】いろんな人がくつろげる場所を、ここでつくる。|隠岐の島 中 晴美さん
- 【国境離島に生きる】くすぶる人たちへ、新しい一歩を。|隠岐の島 岩井明人さん
- 【国境離島に生きる】島の伝統文化を守るための牛飼い。|隠岐の島 野津賢三郎さん
- 【国境離島に生きる】大っ嫌いだった地元で見つけた自分の居場所。|青ヶ島 山田アリサさん
- 【国境離島に生きる】まずは「知ってもらう」一歩から。|宝島 竹内 功さん
- 【国境離島に生きる】職人として、究極のカレーを目指して。|八丈島 堀内礼一さん
- 【国境離島に生きる】島にないものは、自分で手に入れる|八丈島 松本きょうこさん
- 【国境離島に生きる】世界中の人に開かれた宿を、小値賀島で。|小値賀島 岩永太陽さん
- 【国境離島に生きる】「島に戻りたい」と思える活気ある島にしたい!|小値賀島 小島早絵さん
- 【国境離島に生きる】必要なのは時代を生き抜く力。|小値賀島 橋本武士さん
- 【国境離島に生きる】島の牛飼いを絶やさないためのシステムを作る。|宇久島 西尾光隆さん
- 【国境離島に生きる】夢があるから生きていける。|宇久島 藤由 剛己さん
- 【国境離島に生きる】私が目指す「人と情報と縁をつなぐ」場所。|佐渡島 熊野礼美さん
- 【国境離島に生きる】夢を与えることぐらいなら、俺にもできる。|壱岐島 大久保 卓哉さん
- 【国境離島に生きる】手術や挫折という荒波を乗り越えて。|種子島 須田大輔さん
- 【国境離島に生きる】旅の延長線上を生きる。|種子島 米澤江理子さん
- 【国境離島に生きる】故郷に捧げる、元警察官のセカンドライフ。|種子島 深田和幸さん
- 【国境離島に生きる】飾らず、気取らず、それでも計画的に生きる。|対馬 阿比留恭二さん
- 【国境離島に生きる】15年越しで叶えた海の側でパン屋を開く夢。|種子島 五月女一敏さん
- 【国境離島に生きる】豊かな素材が揃う島で若者の力を活かす。|対馬 岸良広大さん
- 【国境離島に生きる】漁と加工、どちらもやるから見えること。|奥尻島 松前幸廣さん
- 【国境離島に生きる】旅する私がたどり着いた島、礼文島。|鹿川明美さん
- 【国境離島に生きる】命をかけて飯を食う漁師の生き様。|本島将光さん
- 【国境離島に生きる】商店街からエネルギーを生み出す。|高橋哲也さん
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