つくろう、島の未来

2024年11月23日 土曜日

つくろう、島の未来

「国境離島」と呼ばれる島々に暮らしている人の想いを紹介。2017年4月、「有人国境離島法」が施行され、29市町村71島が特定有人国境離島地域として指定されました。「国境離島に生きる」では、内閣府総合海洋政策推進事務局による「日本の国境に行こう!!」プロジェクトの一環として実施された、71島の国境離島に生きる人々へのインタビューを、ウェブマガジン『another life.』とのタイアップにて公開します。

奪った命を無駄にしたくない。
トビウオに恵まれた屋久島で見つけた暮らし。


田中啓介|魚の燻製の加工・販売。鹿児島県屋久島町にある、魚を燻製に加工して販売する「けい水産」の代表を務める。

鹿児島県の屋久島(やくしま)にて、トビウオなどの魚を燻製にして販売する田中さん。やりたいことが見つからず、世界、日本を放浪した結果、なぜ屋久島に根を下ろすことになったのでしょうか。お話を伺いました。

自分を変えるために海外に

大阪で生まれ、6歳の時に高知に引っ越しました。自然に囲まれた地域で過ごし、釣りをしたり、外で遊ぶのが好きになりました。

釣りというよりも、魚が好きでしたね。熊本に住んでいる祖父が小さい船を持っていて、遊びに行くと釣りに連れ出してくれました。釣った魚は煮付けなどになって出てくるんですけど、僕は魚の食べ方が上手だと褒められたんですよ。小骨をしっかり出して、綺麗に食べてるなって。褒められるのが嬉しくて、魚は綺麗に食べようという意識が生まれました。

中学1年生の時に北海道に引っ越し、大学に進学して大阪に戻りました。高校卒業の頃は、将来何をしたいか分からなくて、考えるのを先伸ばしにしようと思って大学に行きました。大学に行けば、何かしら興味が湧くことが見つかると思っていたんです。

ところが、大学を卒業する時になっても、やりたいことは見つかりませんでした。それで、就職せずにフリータになることにしました。大学時代からアルバイトで結構稼いでいたので、フリーターでも食っていけると思ったんです。

1年ほどアルバイト生活を続けたのですが、不安は常に感じていましたね。周りのみんなは、好きな仕事が分からなくてもとりあえず就職して、社会経験を積んでいます。そんな中、自分は何がしたいか分からないという気持ちだけで、就職もせずいる。遅れをとっていってるんじゃないかと、不安がありました。

何か目標がほしい。そんな思いから、ワーキングホリデーを使ってオーストラリアに行ってみることにしました。僕にとって、外国に1年も行くなんて、すごい大きなことに見えたんです。1年もいたら、英語はペラペラに話せるようになるだろうし、外国人の彼女までできちゃうんじゃないか。そんなことを考えていましたね。

オーストラリアでの生活は楽しかったですね。同じ宿に泊まっているみんなで一緒にご飯を作って、喋って。出ていく人もいれば、新しく入ってくる人もいる。一つの大きな家みたいなところで、いろんな人と時間を共にできるのが面白かったんです。

日本に目が向く

海外にすっかりはまり、その後も色々な国に行きました。旅のいいところは、多様な人と話せること。年齢も、性別も、生まれ育った環境も、国も違う、多種多様な人と話せます。日本でできる知り合いは似た境遇というか、年が近くて、大学を出て、都会に住んでいてと、共通項がいっぱいあるんですね。そういうのが全然ない外国で、いろんな人の話を聞くのが本当に好きでした。

話を聞きながら、自分の人生をもっとこうしたいな、ああしたいなという思いを広げていました。その中で、自給自足というか、自分でものを作る暮らしに憧れを持ち始めました。家を修繕したり、農業をやったり。そういう生活をしたいと思ったんです。

ただ、先のことはあまり考えていませんでした。常に、次に何をしたいか、次にどこに行こうか、目の前のことを一つひとつ決めるのに夢中でしたね。シンガポール、インドネシア、タイ、マレーシア、ベトナム、ラオス、カンボジアと、アジアの国々を回りました。

外国を回っていると、次第に日本にも目が向き始めました。どの国でも、日本はどんな国なのか質問されるわけです。自分の知識から答えるんですが、話しながら「俺、日本のことそんなに知らないな」って感じました。そんな自分を感じ、もっと日本のことを知りたいと思ったんです。

また、海外では英語で会話をしていましたが、同じことでも、英語と日本語では自分の中で理解できるレベルに差がありました。日本語ほどニュアンスやフィーリングが掴めなくて。僕の母国語は日本語だから、日本で暮らすことに目が向いたんです。

それから、北海道を目指して、北日本を中心に旅をしました。北海道でしばらく過ごした後、今度は南日本へ。鹿児島と、鹿児島の離島の屋久島に知り合いがいたので、その人たちを訪ねに九州を南下しました。

屋久島で知人の家に居候していると、空き家があって住むことも出来ると聞きました。程よい大きさの一軒家が、月1万円で借りられると言うんです。それまで安宿に泊まりながら旅をしていたので、家賃1万円で一軒家に住めるのはいいなと思って、しばらく住んでみることにしました。

ちょうど、人の話を聞くだけではなくて、そろそろ実践したいと思っていたタイミングでした。屋久島なら憧れていた自給自足ができそうだったので、挑戦するにはちょうどよかったんです。それで、野菜を育てたり、魚釣りをする生活が始まりました。27歳でした。

トビウオ漁は天職

島での就職は考えていなかったんですが、現金収入は必要なので、日雇いの仕事で農家の手伝いなどもしていました。仕事を探す中で、屋久島では昔からトビウオ漁が盛んで、今も行われていると知りました。2隻の船を使い5人組で漁をするんです。船長ではない「乗組員」という関わり方があることに、興味を持ちました。船がなくても、体ひとつで漁師の仲間入りができるなら、やってみたいなって。乗組員の募集が出たタイミングで、船に乗ってみることにしました。

屋久島のトビウオ漁は、日の出の1時間前くらいに港を出て、船で沖に向かいます。薄明るくなってきたら網を入れて、1時間ほどかけて網を引き上げます。青空と大海原の中、遠くに小さく見える屋久島も美しいです。

魚が足元を埋め尽くす程の大漁のときもあれば、すっからかんのときもあります。港に戻り、魚を箱詰めして、出荷して一日が終わります。その生活自体も好きでしたし、人が生きるために必要な食料を取っている感覚が気持ちよかったですね。他の仕事はそれまで長く続けたいと思ったことがなかったのですが、トビウオ漁は何年も続けることができました。

ただ、給料の面では厳しさもありました。配当制なんですよね。年功序列でも月給制でもなく、1ヶ月の取れ高を乗組員全員で割ります。たくさん稼げる月とそうではない月があります。年収にすると、男ひとりで暮らすのがやっとという感じです。家族を持つことなども考えると、どうにかしないといけないと思っていました。

また、大量に取って資源が枯渇しないか不安もありました。自然のことや地球の未来を考えたら、乱獲してはいけないんじゃないかっと思ったんです。もし、自分たちの行動が生物を絶滅に追いやるようなものだったら、嫌だなと。

ただ、トビウオ研究者の調査で、屋久島の漁でトビウオが絶滅する心配はないと分かりました。屋久島のトビウオ漁が持続可能なものだと知って安心しましたね。

頂いた命を無駄にしたくない

トビウオ漁に対して、給料と乱獲の不安以外に、もう一つだけ不満がありました。嬉しいことなんですけど、出荷できない傷物や、出荷する上で半端になってしまった分は「今晩のおかず」として、貰えるんですね。新鮮な魚なので、自分たちで食べたり、近所に配ったりします。

大体は配ると喜んでもらえるのですが、時には断られることもあるんですよね。「ああ、トビウオか」って言われるんです。トビウオは小骨が多いからいらないとか、魚がさばけないからいらないと、そんな風に断られることが、ぼちぼちありました。

でも、自分の家にもおかずはたくさんあります。とりあえず冷蔵庫に入れておくんですが、次の日にはまた新鮮なおかずがくるので、古いものは使いません。

結局、1週間くらい経つともう食べられないということで、冷蔵庫のおかずは穴を掘って埋められることになるんです。穴を掘っている時、有効利用できなかったことへの後悔があります。魚からすると、無駄に殺されてしまったわけで、うかばれません。

自分たちの都合で魚の命を奪って、売れないし食べなかったから埋めちゃおうっていうのは、ひどい話だし、もったいないですよね。そういう無駄が結構あったので、なんとかしたいと考えていました。

それで、ただ配るんじゃなくて、燻製にしてから配るようになったんです。すると、それまでトビウオを断っていた人ももらうようになり、しかもすごく感謝されるようになりました。「美味しかったよ」と言われることが増えて、僕もすごく気持ちが良かったです。

また、そんなに喜んでもらえるなら、おかずを燻製にして小遣い稼ぎをすれば、収入が安定するんじゃないかと考えました。それで、ちゃんとビジネスにしようと考えていた矢先、膝を骨折して、1年は船に乗れない状況になりました。

これからどうやって食べていこう。膝はちゃんと治るだろうか。不安が次々と押し寄せてきました。

それでも、他の仕事をしたいとは思いませんでした。元々は定住する気ではなかったけど、気づけば屋久島に来て6年経っていました。怪我をして改めて「これからどうしたいんだっけ?」と考えた時、怪我をする前の状態、元通りの生活を復活させたいって思ったんです。それで、漁師に戻るために1年間食いつなごうと思って、お小遣い稼ぎでやっていたトビウオの燻製を、ちゃんと保健所の許可を取ってやることにしたんです。

始めてみると1年なんてあっという間に経ったのですが、全然形になりませんでした。このまま中途半端には終わらせたくない。一方で、漁にも戻りたい気持ちはある。

それからどうしていくか悩んだんですが、トビウオを獲るのは最も大事ですが、獲ったトビウオの食べ方を広めることも大事だと感じ始めていました。なので、今後はトビウオを多くの人に広めて、トビウオを食べる人を増やしたいというのが、素直な気持ちでした。それで、親方に相談して、6年続けたトビウオ漁師を降りて、トビウオの燻製を製造販売すること一本でやっていくことにしました。

自分だけじゃない、他の人のために

現在は、屋久島の魚を燻製にして販売する「けい水産」の代表として、トビウオ・シイラ・メダイ・ダツなどの新鮮な魚を燻製にしています。立ち上げて9年になりました。

最初の1、2年は、知名度もないので、友達や親戚に電話して買ってもらったり、出かけた先でも売り歩いたりしていました。3年目くらいに屋久島のガイドブックに、「島獲れの、海の幸の燻製をおみやげに!」と紹介していただけたことで、観光のお客様が来てくれるようになりました。その後も、買いにきてくれるお客様が増えていき、3年前には一大決心で、燻製製造直売所を建てました。そして現在まで、販路と生産量を徐々に増やしていっています。

将来は、屋久島に来島する方みんなに、地元で獲れたトビウオの、この燻製を食べてもらいたいですね。屋久島でこの先も人間が暮らしていくうえで、トビウオは、未来の屋久島っ子たちの時代にも来遊してくれる大切な自然の恵み、貴重な食料資源です。その貴重な命を大事に使わせて頂きながら、持続可能な産業としてのトビウオ燻製になっていけると僕は信じています。

そしてこの島は、僕にとっては、ここで暮らしを行うことが、趣味と言っていいのかわかりませんが、遊びであり、楽しみなのです。やることがいっぱいあるんですよ、この島での暮らしには。家の修繕をしたり、庭の木を切ったり、切った木はキノコ作りのホダ木になるか、薪にするか、それとも柱や板や材として使うか。家の前で野菜を育てたり、そのために鹿よけの柵が必要だったり。やることがつきなくて面白いんです。

魚の燻製を作る中でも、使わない部分は自分たちの食料にしたり、頂いた果物でジュースを作ったり。田舎暮らしには、生活の糧になるものが尽きることなくあって、やりたいことがどんどん湧いてくる。僕は、ここの暮らしそのものが好きなんです。

やりたいことを見つけられなかった自分が起業するなんて、昔は夢にも思いませんでした。けれど起業したからには、絶対失敗したくありませんでした。親にお金も借りましたしね。魚の燻製屋として食っていけると証明したかったんです。そうなったら、ひょっとしたら他の誰かも魚の燻製を商売としてやり始めるかもしれない。けど、それでもいいと思ってやっています。もしそうなればよりトビウオが多くの方に消費してもらえますからね。それは私のはじめの目標でもありますからね。

そして今は、人に仕事を作ることにやりがいを感じ始めました。これからは、自分達家族が食べていくのはもちろんのこと、雇用を生んで地域に貢献したいという気持ちが強いですね。

20代の頃は、自分の人生をどうやって生きていくか模索していましたが、今はこの島で燻製を作り、販売して生活していくところまで決まっているので、あとは、どれだけの方の幸せに貢献できる生き方が僕に出来るかですね。

燻製づくりをベースに、島のみんなと力を合わせて、島の暮らしをもっと良くしていければと思います。

     

離島経済新聞 目次

【国境離島に生きる】国境離島71島に暮らす人へのインタビュー

いわゆる「国境離島」と呼ばれる島々にはどんな人が暮らしているのか? 2017年4月に「有人国境離島法」が施行され、29市町村71島が特定有人国境離島地域として指定されました。「国境離島に生きる」では、内閣府総合海洋政策推進事務局による「日本の国境に行こう!!」プロジェクトの一環として実施された、71島の国境離島に生きる人々へのインタビューを、ウェブマガジン『another life.』とのタイアップにて公開します。

関連する記事

ritokei特集