つくろう、島の未来

2024年04月24日 水曜日

つくろう、島の未来

鹿児島県大隅半島の南に浮かぶ屋久島(やくしま)。周囲約130kmの円い島の、山と川と海が接するわずかな平地に、ひしめき合って暮らしています。Uターンして、自らもコーヒーショップを営む島記者が、島ならではの小さな商いの話と季節のたよりを届けます。

#10 先島丸に乗って

5月29日朝、屋久島の北西に浮かぶ口永良部島の新岳が噴火しました。
屋内にも響く大きな鈍い音の後、親族からの噴火を知らせる電話で外に出てみると、青い空に厚く盛り上がる鈍色の雲。鹿児島市内から望む桜島にかかるあの色です。風向きと地形の関係で島の北、私が暮らす一湊に降灰はありませんでしたが、南部の集落に短時間降灰したそうです。

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口永良部島は、人口130人ほどの火山島。
屋久島と同じ自治体に属し、毎日町営のフェリーが1往復していましたが、今は噴火の影響で休業中です。海に沈む夕日が見られそうな日は、西に車を走らせます。島の西部、吉田の展望台や永田の砂浜からは、大きな口永良部島と海に沈む夕日。心に浮かぶ日没の景色は、いつも口永良部島とともにあります。

湯治や釣りに最適の地で、初夏には自生のマルバツツジが山肌を桃色に染め、それはそれは夢のような美しさとのこと。海の向こうの佳きところ、それが屋久島にとっての口永良部島なのです。噴火の日は、幸い波も穏やかで、その日のうちに全員、屋久島への避難が叶いました。

海は私たちに多くの恵みをもたらしてくれますが、ひとたび時化ると出口なし。台風や前線の通過で欠航が続くたび、私たちは運命共同体なのだという思いを新たにするのです。

祖母を送る

5月は大切な家族の船出もありました。
幼い頃から同居していた父方の祖母が、この世を去ったのです。
島に火葬場ができる40年前まで、新しい墓の上には「先島(さきしま)丸」の文字とともに舟を描いた霊屋(たまや)が置かれていたそうです。死者の魂は先島丸に乗ってあの世へ行くのです。集落によっては、今もお盆に先島丸と書かれた舟を精霊流しに使っていると聞きます。

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琉球の「ニライカナイ」や、ヤマトの「常世国」と通じる考え方でしょうか。海の向こうの異界に、死者の還る場所があるのかもしれません。ひと粒の雨が川となり海に流れ出て、雲となって再び戻ってくる。毎日海を眺めていると、そんな観念がすんなりと了解されます。高齢化が進む島の暮らしは、否が応でも死を意識する日々。満ち潮で生まれ、引き潮で去っていく、命の巡りはいつも隣りにあります。

近ごろは、過疎化に伴い、空き家ならぬ空き墓も増えてきましたが、華やかな生花を欠かさない一湊の共同墓地は、観光バスが一時停止するほどに華やか。5月にはピンクのグラデーションの美しいツツジの植え込みが、白いテッポウユリの供花が、8月のお盆には色とりどりの提灯が初盆の墓を彩ります。墓参も熱心で、盛夏には暑い日中を避け、日の出前の同じ時間帯に皆が集うので、社交の場にもなっているのです。

知らせを受けたご近所の方々の手によって、家具を移動させ、祭壇を整え、弔いの準備は粛々と進められていきます。花も仕出しも菓子もお酒も徒歩圏のお店から。人口700人を切ったものの、かろうじて集落内で賄うことができています。

葬儀のやり方は集落によって異なり、一湊では通夜から初七日まで、夜伽(よとぎ)といって、亡き人の思い出などを語りに毎夜遅くまで人々が集います。かつては、ひと束の薪や米が香典

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コンクリート製の測候所のためか、港湾のためか、戦時中、一湊への空襲は激しく、その名残で、祖母は打ち上げ花火が苦手でした。さつまいもたっぷりの蒸しまんじゅうや、「べったい飯」といわれるさつまいもをたっぷり炊き込んだごはんは、田んぼの少ない島で、家族を食べさせるための工夫を忍ばせます。前掛けからも手のひらからも、いつも魚の匂いがしていました。

享年90過ぎの祖母の夜伽は、あちこちで笑い声が起こるにぎやかなもの。「順番通りでよかったねぇ」とかけられた言葉。それがどんなに困難なことか、いくつかの別れを経た今だからこそ、身に染みます。

受け入れ、混ざり合い、変わりゆく島の暮らし

70数年前、祖母は船に乗って島に嫁いできました。
祖父母のふるさとは、四国の南予。背後まで険しい山が迫り、山を越えるよりは目の前の海に漕ぎ出す方がいくらか楽という、一湊によく似た地形です。海に向かって開かれた島では、黒潮や対馬海流にのって、先史より交易が盛んに行われてきたと聞きます。

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祖父の一家は、一時的なつもりで商売に適したこの地に居を構え、はるばる同郷の娘を娶ったようですが、戦後の混乱からか、居心地が良かったからか、いくつかの巡り合わせののち、島に定住することとなりました。

閉鎖的と連想される島暮らしかもしれませんが、海は街道、少しさかのぼれば、島外にルーツを求められる人も多く暮らしています。地元民同士は方言で語りますが、相手によって標準語を器用に使い分けるのも出入りの多い島ならでは。70代以下の住民は、都市で暮らした経験のある人がほとんどで、様々な習俗が混ざり合い、独特の雑多な文化を生み出しています。

かつては漁業や林業関係者が、海の向こうから大勢やってきて、その中の一部の方々が定住の路を選びました。近年、島で暮らしはじめた観光業者の中にも、この島をふるさとと定め、新しい文化を築いていく方々がでてくるのでしょう。

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口永良部島住民の避難は長期化しそうな見込みで、公営住宅への入居がはじまり、仮設住宅の建設も進んでいます。わたしが営む小さなコーヒーショップではあまり感じませんが、噴火の影響によるものと思われる宿のキャンセルが相次いでいるとも聞きます。

口永良部島は、海を挟んで10km以上離れています。屋久島への影響は、一部地域にごく短時間、降灰したのみ。噴石も届いてはいません。人口1万3,000人の屋久島に口永良部島から避難されているのは100人足らず。屋久島には、充分なキャパシティがあり、生活にも観光にも、支障はありません。

今、屋久島に行ったら迷惑かなぁ、
なんて、迷っている方がいらしたら、そんなことはないのです。

もうすぐ、梅雨が明けます。

(つづく)

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