つくろう、島の未来

2018年11月18日 日曜日

「国境離島」と呼ばれる島々に暮らしている人の想いを紹介。2017年4月、「有人国境離島法」が施行され、29市町村71島が特定有人国境離島地域として指定されました。「国境離島に生きる」では、内閣府総合海洋政策推進事務局による「日本の国境に行こう!!」プロジェクトの一環として実施された、71島の国境離島に生きる人々へのインタビューを、ウェブマガジン『another life.』とのタイアップにて公開します。

ずっと憧れていた飲食店開業へ。 競馬しか知らない日々を変えたもの。

長崎県の新上五島町で日本料理店を経営している菊地さん。長く勤めた馬の調教師の仕事を辞め、漠然と憧れていた飲食店経営に踏み切ったきっかけとは。お話を伺いました。(編集:another life.編集部)

菊地保雄|日本料理店経営。長崎県五島列島の新上五島町にある日本料理店「和処 よかよ」経営者。

家を出たいから、騎手を目指す

京都府で生まれ、滋賀県で育ちました。自覚はありませんが、小さい頃からやんちゃと言われていました。

中学の頃、マイケル・ジャクソンのスリラーを見て、ダンスにハマりました。ちょうどブレイクダンスが流行っていて、京都のチームに入って踊りました。ダンサーになりたかったわけではなく、楽しけりゃいいかという感じでした。

親が競走馬の世話をする仕事をしていたので、家は馬のトレーニングセンターの中にありました。僕自身はお世話の手伝いはしませんでしたが、当たり前に馬がいる生活でした。

馬具屋の社長がよく家に来ていて、中学の頃、騎手にならないかと誘われました。家が厳しく、父親もよく怒っていたので、家を出たいと考えていた時でした。騎手の学校が全寮制と聞いて、「行きます!」と即答でした。親も反対しなかったので、兵庫県にある2年制の騎手の学校を受験することにしました。

筆記と身体能力を測るような試験がありますが、特にトレーニングもせず、中学卒業前に受験したときは落ちました。4月入学ができず、厩舎作業をしながら、10月入学の試験を待ちました。そこで、無事合格しました。

入学する前、競馬場での試験で、初めてゲートが開いて馬が走るのを間近に見ました。その時初めて騎手の仕事をかっこいいと思いましたね。

馬に乗るのではなく、育てる仕事

入学してからは、調教師の家に住み込みで暮らしました。家より居心地は良かったですよ。

騎手は体重制限があります。48kgが超えちゃいけないライン。僕は入学時から体重ギリギリだったので、食事制限が必要でした。栄養士さんがちゃんとカロリー計算をした食事をとっていたんですが、食べ盛りなので、すごくストレスでしたね。

体重はずっと維持していましたが、2年目に競馬場実習で学校から出た時、つい食べてしまいました。学校では管理されていましたが、外に出ると食べ物がいっぱいあるので、誘惑に勝てなかったんです。

それまでの食事制限はとてもつらかったので、自由に食べられた時はすごく嬉しかったですね。しかし、食べてしまったら最後。すぐに体重はオーバーしました。

成長期で身長もぐっと伸びていたこともあり、学校側から「これ以上体重は落ちないと思うから、やめたほうがいいよ」と言われました。やっぱりかと思いましたね。

騎手になることしか頭になかったので、挫折感がありました。やめて違うところに行こうか。それとも家に帰ろうか。悩んでいると、先輩に「別に帰らんでもいいやん、ここでやっていけば」と言われました。

そこまで家に帰りたいと思っていたわけでもありませんし、そのまま働けるならそれもいいなと思い、競馬場に残ることにしました。馬も乗れるし、調教もできるので。騎手の学校はやめましたが、調教師として競馬場に残ることにしたんです。

僕が勤めたのは、兵庫県の競馬場です。調教師1人につき3~4頭の馬を担当して、月に2回ほど出るレースに調子を合わせます。基本的には、夜中1時頃から調教開始して、午後に開催する競馬の時間までにトレーニングを終わらせるのが日課でした。

毎日世話をして、いつもの走りと違うなぁとか、飼い葉の食べ方が違うなぁとか、それを感じて判断するんです。調教した馬がレースに勝つことがやりがいでしたね。一番上のレースを目指す、という目標がありました。

自分でコントロールできる仕事を

15年ほど働き、32歳の頃、競馬場の役員になりました。役員だとダイレクトに競馬場の経営の数字がわかるんですよね。その頃、全国の競馬場が潰れている時期でした。勤めていた競馬場は、もともと売上が他の競馬場よりも良かった分、落ち込みが一番激しかったんです。バブルで一番良かった時期と比べると、売上が3分の1くらいまで、一気に落ちましたね。

何とかしたいと思っても、競馬場は競馬の主催者の方針に従うことしかできないので、為す術はありません。各大会の主催者が開催をやめると決めたら、そこで終わりなんですよね。自分でコントロールできないことに危機感を覚えて、転職を考えました。

しかし、長く勤めていた分、なかなか踏ん切りがつきませんでした。競馬しか知らず、他の仕事をしたこともないですしね。やめることはずっと頭の中にありましたが、動き出せずにいました。

それでも、いつか飲食店をしたいという思いはありました。食べるのが好きで、自分でもやってみたいなと憧れていたんです。彼女のお兄さんが料理人だったので、彼女とお兄さんと三人でお店を開くのもいいんじゃないかと話していましたね。

彼女は長崎県の五島列島にある新上五島出身で、いずれ帰りたいという話も聞いていました。僕が40歳の時、初めて彼女の地元を訪れました。彼女のお父さんが危篤で、会いに帰ろうということになったんです。その時は1週間ほど滞在しました。

新上五島は、思っていたほど島という感じがしませんでした。イメージしていた島は、テレビで見るような自然ばかりで何もないところでしたが、新上五島にはスーパーもホームセンターもあるし、生活する分には何も困らない様子でした。病院も大きいし、道路も綺麗に舗装されている。大きなパチンコ屋もあるのには驚きましたね。

競馬場の経営はだいぶ傾いてきており、潰れる前に動きたいという気持ちは、一層強まっていました。新上五島なら、自分の仕事さえ見つかれば、暮らせそう。そう思えたので、彼女に新上五島に行こうと伝えました。

不安はありました。でも、求人情報はたくさん出ていたので、なんとかなるだろうと思っていましたね。

絶対にやったると決めた飲食店

新上五島での仕事が先に決まったのは彼女でした。来る直前に働く場所が決まり、住む家も紹介してもらいました。島で住むなら車が必須だと思い、僕は車の免許を取ってから島に行くことにして、彼女が先に新上五島で暮らし始めました。

すると、彼女の職場のつてで、僕の仕事も紹介してもらえることになりました。電気関係の仕事です。僕は何もせず、免許合宿に行ってる間に仕事が決まったんです。

家も仕事もすぐに見つかり、非常に恵まれていたと思います。ただ、雇われの身だと会社が傾いたら影響を受けるという危機感は常にあったので、飲食店での独立も考え続けました。

彼女のお兄さんは、大阪北新地の割烹で寿司職人として35年働いている人でした。いつかはお兄さんを料理長にして、一緒にお店をやりたいねって話していたんです。

新上五島に来て4年ほど経った頃、居抜きの物件があるから店をしないかと誘われました。家賃もすごく安いというので、彼女のお兄さんを料理長として口説きました。かなり説得して、やっと首を縦に振ってもらえました。

しかし、次に仲介人と話した時、家賃の値段を二倍で提示されました。加えて、下水道の切り替え工事費も半分出してほしいと言われて、それはちょっと難しいと話しました。すると「じゃあ、宝くじでも当ててからやれば」って言われたんです。

カチンときましたね。そんな嫌味なことを言うなら、最初から話を持ってこないでほしかった。でも、そんなこと言われて黙っていられません。絶対にやったるで。そう思いました。

それで、銀行に融資のお願いに行きました。リスクはありましたが、料理長の腕前なら絶対に勝負できるという確信があったんです。

銀行から融資OKの話をもらった時、ちょうどいい物件も見つかりました。それで、念願の飲食店をオープンすることができました。

最初の頃は、物珍しさで来てくれる人は多かったですし、ちょうど忘年会シーズンだったので、すごく忙しかったです。味の裏付けがあるので、お客さんはその後もリピートしてくれるようになりました。

島の子どもに料理人という選択肢を

現在は、新上五島町で「和処よかよ」を経営しています。出で立ちは料理人っぽいとよく言われますが、営業や接客、皿洗いなど、料理以外のことを担当しています。

もともとは、新上五島の美味しい魚を提供したいと思っていました。新上五島では、新鮮な魚を食べられるお店が少なくて、ずっと違和感がありました。

観光で来た人に、美味しい魚や地元の料理を食べてもらいたいんです。地元の方には、全国から仕入れた美味しいものを食べてもらいたいですね。みんなが店に来てくれて、「良かったよ」って言って笑顔になってくれるのが嬉しいですね。

島での暮らしも気に入ってます。五島はやっぱり自然が良いですよね。都会にはない刺激があって、今まで経験したことがないことが毎日起こっています。海はすごく良いし、虹もしょっちゅう出ます。星もすごく綺麗だし、満月の時はライトも要らないくらい明るくて、スーパームーンの時は鳥肌モノですよね。

島の不便さは、何かしたいと思った時に、船に乗って渡らないといけないことですね。すぐに行動に移せないんです。でも、そう思うのは1年に1回くらいですよ。不便と感じたことはないです。新上五島は便利だから言えるのかもしれませんが、島から出たいと思ったこともないです。

今後のことはわかりませんが、しばらくは新上五島にいたいと思います。まずは、この店を大きくしていきたいですね。今は来てくれる人を待っている状態ですが、今後は自分たちから情報発信を強めて、多くの人に知ってもらいたいと考えています。お土産物を作って全国発送するとか、うちの料理を全国に発信していきたいです。

最近注目しているのは、「ゆうこう」という柑橘類です。「ゆうこう」は長崎市の外海地区と土井首地区でしか栽培されてなかったんですが、最近、新上五島で発見されて話題になったんですよ。味は柚子をちょっとまろやかにした感じです。それでポン酢を作ったりして、特産品として売り出していきたいと思っています。

それから、島の中で料理人の育成もしていきたいです。今は、料理を勉強したいと思ったら、島の外で修行して、そのまま島外で開業する人がほとんどなんです。それだと、島に産業が残らず、雇用も生まれません。

だったら、うちの料理長のもとで修行して、暖簾分けみたいなかたちで、地元で開業してほしいですね。子どもたちがわざわざ島の外に出なくても、島内で技術をちゃんと学んだ料理人に会って、1人でも2人でも島に残って開業してくれたら良いなと思うんです。

島を盛り上げたいとまでは言えませんが、島から人が減ってほしくないですからね。1人でも2人でも島に留まって、新しい店を作って、飲食店が元気になってくれたら良いなと思います。飲食店が元気がないと、町も元気がなくなるので。

あとは、以前やっていた仕事と繋げて、馬を五島に連れてきたいと考えています。競馬の世界では、年間8000頭近い馬が生まれていますが、競走馬になれるのはごくわずか。途中で負けたりした9割近くの馬は、処分されて他の動物の餌になります。現役を引退した馬も同様です。馬の殺処分をどうにかしたいという気持ちがあります。

調教された馬なので、どこに連れて行ってもすぐに人を乗せられる賢い馬なんです。その馬を新上五島に連れてきたいと思っています。そうすれば、お客さんが見に来てくれ観光の目玉にもできるんじゃないかと思いますし、馬の殺処分も減らせます。

そうやって、今まで他の人がやっていないことで、みんなが喜んでくれるものをやっていきたいですね。

離島経済新聞 目次

【国境離島に生きる】国境離島71島に暮らす人へのインタビュー

いわゆる「国境離島」と呼ばれる島々にはどんな人が暮らしているのか? 2017年4月に「有人国境離島法」が施行され、29市町村71島が特定有人国境離島地域として指定されました。「国境離島に生きる」では、内閣府総合海洋政策推進事務局による「日本の国境に行こう!!」プロジェクトの一環として実施された、71島の国境離島に生きる人々へのインタビューを、ウェブマガジン『another life.』とのタイアップにて公開します。

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