つくろう、島の未来

2024年03月28日 木曜日

つくろう、島の未来

「国境離島」と呼ばれる島々に暮らしている人の想いを紹介。2017年4月、「有人国境離島法」が施行され、29市町村71島が特定有人国境離島地域として指定されました。「国境離島に生きる」では、内閣府総合海洋政策推進事務局による「日本の国境に行こう!!」プロジェクトの一環として実施された、71島の国境離島に生きる人々へのインタビューを、ウェブマガジン『another life.』とのタイアップにて公開します。

夢があるから生きていける。
大切なものを失った後悔と、日々を楽しむ覚悟。

藤由剛己|宇久島にて絵描きとして暮らす。

長崎の宇久島(うくじま)にて、絵描きとして暮らす藤由さん。父の会社を辞めて田舎暮らしを始めた背景には、どんな想いがあったのでしょうか。お話を伺いました。

夢がたくさんある少年

東京都大田区で生まれました。四人兄弟の末っ子です。小学生の時、父の会社の都合で引っ越してからは、神奈川で育ちました。

小さい頃から、いろんなことに興味を持つ子どもでした。母には、注意散漫な子どもだと言われていましたね。

自然が好きで、中学時代は良く崖から海に飛び込んでいました。あまり泳げなかったので、飛び込んでは慌てて岸に戻ってまた飛び込む、というのを繰り返していまいた。

末っ子だったので、兄の影響を受けやすかったですね。絵を始めたのも、兄の影響でした。銅版の下絵を描くのが好きで、美術部で古典について学びました。

中学では美術部の他に、バレーボール部と合唱部を掛け持ちしました。バレーボールは県の代表に選抜されるほどの腕前で、夢中で練習しました。

高校生の頃、僕にはいくつかの夢がありました。一つは、レーサーになること、父が車の部品を作る会社を経営していた影響で、車が好きだったんです。もう一つは、プロボウラーになること。ボウリングクラブでの影響を受けていました。

あとは、自分の手で丸太小屋を作ることでした。ドキュメンタリー番組で見た、カナダ人が丸太小屋を作っている姿が目に焼き付いていたんです。

カナダ人のお父さんが、おそらく300キロや400キロある大きな木を手で切って、馬とかで運んでいました。その映像が流れているところで、「彼は狼や熊から家族を守るために丸太小屋を作っている」というナレーションが入るのに、とにかく感動したんです。

丸太小屋を30歳までに作る。それが一番大きな夢でした。

高校卒業後、免許を取ってサーキットを走っていると、レーシングチームからスカウトされました。ただ、父にレーサーになるためのお金は出さないと言われて、すぐに諦めました。

それで、プロボウラーになる夢を追うために、ボウリング上の機械を作っている会社に入りました。プロのやっている練習場の機械を見れば、プロボウラーに近づけると思ったんです。

その会社も半年で辞めて、父の会社に入りました。父の会社は3つの工場をやっていて、各工場に息子を置きたがっていました。兄から「お前が来ないと親父が困る」って言われたんですよね。僕は父や家族のことが大好きだったので、それだったらしょうがないと思って、実家に帰ることにしました。

他人ではなく自分に負けたくない

僕は工場の生産性を上げるような仕事を担当しました。オートメーション化を進めたり、人がいかに無駄なく作業できるか導線設計を勉強をしました。

がむしゃらに働き、休みはほとんどありませんでした。ご飯を食べてる途中や、お風呂に入りながら寝ちゃっていましたし、子どもとの会話も全くありませんでした。そんな姿を見て、妻からは身体を壊すから働き方を変えてほしいと言われました。

僕にとって大事だったのは、体のことよりも、夢だった丸太小屋を建てるための勉強が全くできなかったことです。このままでは丸太小屋を作れないと思って、27歳の時に会社をやめて、丸太小屋を建てることにしました。

妻には、丸太小屋のことは話しませんでした。言ったら怒られると思っていたんですね。で、家で丸太小屋の勉強を始めた時に、「何やってるの?」と聞かれて、そろそろ大丈夫かなと思って話したら、反発されました。

やるなら一人でやってください。そう言われてしまったんです。

僕は、離婚することにしました。家族でなく、自分の夢を選ぶことにしたんです。

二人の子どもは、僕が引き取りました。自分の夢のために子どもを悲しませてしまったのだから、丸太小屋を絶対に作りきろうと決めました。夢で終わらせるんじゃなくて、絶対に作るって決めたんです。

それで、山梨の八ヶ岳で丸太小屋の建設を始めました。東京に住んでいた大学生の知人が作業を手伝ってくれ、二人で作業を進めました。

初めは、子どもたちへの後悔の念で頑張ろうと思いましたが、実際に作り始めると、そんな生半可な気持ちでやれるものではありませんでした。冬の山梨は、想像を絶する厳しさでした。

15年ぶりの大雪。毎日1メートルくらい積もる雪を掻き出さないと、丸太は積み上げられません。雪を掻き出したあとに、丸太を切って運んできます。

ものすごい寒さですが、革の手袋は木にくっついてしまうので身につけられません。軍手をしますが、すぐに凍ります。痛くてたまらないから、真っ黒な軍手を片方ずつ口の中に入れて温めました。

毎日、夜中の2時位まで作業を続けました。その寒さが、過去の妻との十年来の生活を忘れさせてくれるんです。夢ではなく、家族を選ぶべきだった。後悔しても、時すでに遅し。かけがえのないものを失ってしまったことに気づきました。

夜はコンテナの中で寝泊まりしました。手は皮がむけちゃっているので、お湯で温めて血を剥がしました。毎日、めそめそ泣いて、みっともない人生だと思いましたよ。

それでも、全部自分で決めたこと。自分にだけは負けたくなかった。こんちくしょうって思いながら、「負けへん」って声に出しながら耐えました。大変な時、僕は必ず「負けへん」って言います。人に負けるなんて全然悔しくない。自分が描いた夢に到達しないこと、自分に負けるほど悔しいものはないから、「負けへん」って言うんです。

宇久島への移住を決める

建設を始めて365日目、丸太小屋が完成しました。その年の元旦、一緒に丸太小屋を立ててくれた知人と二人で、八ヶ岳の頂上でご来光を見ました。

ウイスキーを飲みながら、マイナス20度の世界でご来光見た瞬間、思わず涙が流れました。達成感もありましたけど、失ったものの大きさや、小屋作りをしている自分がいかに情けなかったかを思い出すと、泣けてきたんです。

家族を選ばなかったことを後悔しましたよ。僕はある意味、人生の破綻者。だからこそ、今を楽しもうと思いました。破綻したことに対する、懺悔として今を楽しむしかないんです。

自分で丸太小屋を建てる人はあまりいなかったので、テレビや雑誌で取材を受けることがありました。テレビで僕を見たといって訪ねてくれる人もいました。

その中に、長崎県の離島、宇久島から来てくれた人がいました。仕事で全国を回っている時に、うちにも寄ってくれたんです。

お茶をしながら色々話していると、「宇久島に移住しなよ」と誘われました。僕みたいな変な人が来たら、島がもっと面白くなるからって。海で美味しいものが釣り放題だよって口説かれました。

その時、将来子育てが終わったら、宇久島に移住しようと決めました。山梨は寒いし、薪を拾ったりチェーンソーで木を切るのは年を取ったら難しくなるので、温かい島に住むっていいなと思ったんです。

宇久島のことは、長崎にあるという程度のことしか分かりませんでしたが、とにかくこの人の島に住もうって決めっちゃったんです。

とはいえ、それは老後の話。しばらくは子育てに集中しようと思っていました。

山梨に来て4年ほど経った時、丸太小屋を手放すことにしました。家の前に別荘を建てた人から、クレームが来るようになったんですよね。ベランダでパンツいっちょでビールを飲むのをやめてくれって。人に邪魔されない、もっとのんびりしたところで暮らしたいと思ったんです。

長野の土地を買い、今度は丸太小屋ではなくて、ドイツ建築で建てることにしました。ドイツ建築家のところで1年間修行してやり方を学び、2年6ヶ月かけて76坪の家を作りました。

絵描きとして生きる

長野に来てからはホテルで働きました。サービスマンとして日本一を目指しながら、子育てに必死でしたね。

趣味で描いていた絵で個展も始めるようになりました。喫茶店で絵を描いていたら、お金払って買いたいと言う人が出始めたんです。僕は商売のつもりではなかったので、驚きましたね。

でも、僕は何をやるにもただの趣味では終わらせたくないんです。何に対してもプロにならないと嫌なの。せっかくやるんだから、独学で勉強して、どんどん上手くなろうとするんです。絵も上達していき、長野や神奈川、夢だった原宿でも個展を開きました。

ホテルで働きながら絵を描く生活を続け、二人の子どもが自立した頃、宇久島への移住を本格的に検討し始めました。以前宇久に誘ってくれた人とは一度会いました。僕は島に行くことに決めていましたが、本当に行っていいか確認したかったんです。そしたら、「俺たちが世話するから」と言ってもらえて、行くことは問題ないと分かりました。

最初は、長野に拠点を置きながら、何ヶ月か毎に宇久島に来るようになりました。57歳の時です。

古民家を改修して、カフェレストランを始めました。夏の時期だけ限定オープンして、自家製のケーキや地元の食材を使ったコース料理を提供。多くのお客さんに来てもらいました。

ところが、借りていた古民家を出ていかなくてはならなくなり、店は閉じることになりました。そのまま宇久島を出ていこうかと思ったんですが、たまたま別の古民家を借りられることになりました。

そこは、元々一番借りたかった家だったので、願ったり叶ったりです。その古民家を改修して、宇久島に定住することにしました。

飲食店はやめて、絵を中心に過ごそうと思いました。残り少ない残高を食いつなぎながら、生活をコンパクトにしようと。

自分のスタイルを貫いて生きる

僕の今の夢は、ニューヨークで個展を開くことです。原宿で開くのが夢だったので、おまけみたいなものですが、せっかくだったら行ってみたいですね。

絵を描くということには、夢がありますよね。一枚の画用紙に宇宙を描ける。たった5円の画用紙に、無限の世界を描ける。本当に素晴らしいことだと思います。

ひょっとしたら、今後は絵を描くためにニューヨークで暮らすかもしれません。だけど、今、宇久島に行き着いた以上、島のためになることをするのは、とても大事だと思っています。

おそらく、僕はこんな性格なので、宇久でなくてもよかったんだと思う。こんな言い方したら失礼だけど、宇久よりも、もっと素晴らしいところも、もっと悪いところもたくさんあると思う。だけど、今の自分がたどり着いたのは宇久で、そこには何かしらの意味がある。だから、ちゃんと恩返しをしたいんです。

僕にできるのは、この島の次世代の若者たちに、僕が今まで学んできたことを少しでも伝えることくらいです。この島の感覚を持ちながら、県外からきた人たちを迎え入れるキャパシティを持ってもらうことだと考えています。宇久島は、外の人を気持ちよく受け入れる風土はあまり感じないので、まずは挨拶することからですね。

あとは、宇久の人に「何もない魅力」に気づいてもらいたいですね。宇久島は厳密には五島列島に入っていないのに「五島列島最北端」って言おうとすることに、僕は違和感があります。「最北端」なんて使わないで「宇久島」っていう、個別の島でいいじゃないかって。宇久島でいいじゃん。何もない島、宇久島で。

宇久島は何もないけど、だからこそ頭をからっぽにできる。何もないけど、溢れ出す自然は豊か。それをどう考えるか。

満ち溢れた世界、いろいろなものが乱立したところに住み慣れていた僕のような人にとっては、ものにすごく喜びを感じる反面、頭の中で混乱を引き起こすこともあります。ものがないと選択肢がないから、その中で楽しむことを自分で選び始めるしかないんです。

あと、移住する人にぜひ考えて欲しいのは、自分らしいスタイルを確立しながら、それをどの範囲で地元民と共有して、共存できるかってこと。自分のスタイルは失くさないでほしい。メディアで移住スタイルが紹介されますけど、それはあなたのスタイルではありません。画像で見たらかっこよくみえるけど、あなたのスタイルはどこにあるんだろうなって思います。

自分のスタイルを持ちながら、島の人たちとの共栄・共存を願う気持ち。譲りあうべきところは譲るけど、譲っちゃいけないとこは譲らない。移住してきた人間には、大事なところは譲らないという姿勢を忘れないでほしい。その人の人生は、媚を売るために生きているわけじゃないから。

でも、共存共栄は必要。共栄共存も含めて、自分のスタイルを作り上げていくべきだと思います。

これまで、色々なことがありました。「波乱万丈の人生、本に書け」とか友人に言われるけど、そんなにかっこいいものではないんです。めっちゃかっこ悪い。端から見てる人は、好きなことやっていいなって言うけど、実際そこを経過する過程においては、かっこ悪いことばかりだし、自分でも本当に情けないと思うことを繰り返してきました。

それでも、僕がここまでこれたのは、夢があったらからかな。常に夢を追い続けてきたのは、ヘミングウェイの影響が大きいと思いますね。『老人と海』が好きで、ヘミングウェイ自身にも興味を持って調べると、結構悩みが深かった人だと知りました。

彼の悩んでいる傾向っていうのは、恐らく僕と似てたんじゃないかって思う。端から見ると、理想的な男性の肖像みたいな世界だけど、内面を見ると本当に苦しんでいる。喜びと苦しみと悲しみを持っていて。決して彼の生き方を真似しようなんて思いませんでしたが、彼に感銘をうけたことは確かですので、必然的に似た傾向が生まれたんだと思います。

今の夢は島に暮らす。釣りをする。絵を描く。おまけでニューヨークで個展をやりたい。ただそれだけです。

離島経済新聞 目次

【国境離島に生きる】国境離島71島に暮らす人へのインタビュー

いわゆる「国境離島」と呼ばれる島々にはどんな人が暮らしているのか? 2017年4月に「有人国境離島法」が施行され、29市町村71島が特定有人国境離島地域として指定されました。「国境離島に生きる」では、内閣府総合海洋政策推進事務局による「日本の国境に行こう!!」プロジェクトの一環として実施された、71島の国境離島に生きる人々へのインタビューを、ウェブマガジン『another life.』とのタイアップにて公開します。

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