つくろう、島の未来

2024年11月21日 木曜日

つくろう、島の未来

「国境離島」と呼ばれる島々に暮らしている人の想いを紹介。2017年4月、「有人国境離島法」が施行され、29市町村71島が特定有人国境離島地域として指定されました。「国境離島に生きる」では、内閣府総合海洋政策推進事務局による「日本の国境に行こう!!」プロジェクトの一環として実施された、71島の国境離島に生きる人々へのインタビューを、ウェブマガジン『another life.』とのタイアップにて公開します。

故郷の離島で感じる不便さと不平等。
豊かな素材が揃う島で若者の力を活かす。

岸良広大(きしら・こうだい)|対馬に若者の受け皿を作る 対馬エコサービスにてバイオディーゼル燃料事業を行いながら、NPO法人對馬次世代協議会(通称:対馬コノソレ)の運営に携わる。

長崎県の対馬(つしま)にて、父の会社で新規事業を立ち上げながら、対馬を盛り上げるためのNPO法人も運営する岸良さん。一度対馬を離れ、再び島に戻ってきた時、離島の不便さと不平等さに愕然。問題を打開するために始めたのは、若者の力を活かした島おこしでした。そんな岸良さんの半生を伺いました。

理系の授業が好きな、おとなしい少年

長崎県にある離島、対馬で生まれました。四人兄弟の長男です。小さい頃は、友達と外で遊ぶよりも、家の手伝いをしたり、絵を描いたりして過ごすことが多かったですね。おとなしい性格でした。

小学6年生の時に陸上を始めて運動も頑張ったんですけど、頑張り過ぎて中学2年生の時にドクターストップ。その後は美術部に入って、デッサンなどをしていました。将来はアーティストになろうと考えたこともあります。ただ、それでは食べていけないので、現実的な選択肢ではありませんでした。

学校では美術だけでなく勉強も好きでした。中学にいい先生がいたんです。数学の授業で三平方の定理ってあるじゃないですか。それを、学校で習う前に自分で解き方を思いついたら、先生がすごく褒めてくれたんです。それから、先生に褒めてもらうために、よく勉強するようになりましたね。

高校卒業後は、対馬の外に出たいという気持ちが強かったですね。対馬で就職しても、所得が高くないことは分かっていましたから。あとは、都会への憧れですね。たまに福岡に遊びに行った時に、都会との差を目のあたりにするわけです。福岡で初めて4階以上の建物にエレベーターで登りました。電車やバスの乗り方も分かりません。それでも、都会に出る時は、背伸びをしてシティボーイのように振る舞っていましたね。できれば福岡あたりで働きたいと思っていました。

ただ、僕は長男なので、家を守っていくために、いつかは対馬に帰ってこようと考えていました。兄弟がみんな対馬から出て行ったら両親を見る人がいなくなってしまいますし、弟たちを自由にさせてあげたいという気持ちもありました。どれくらい島外で働くかは分かりませんでしたが、いつかは戻ってくると常に意識していたんです。

力がつく仕事って何だろう?

高校卒業後は熊本の大学に進学しました。自分の力で生活したいという思いがあって、寝る間も惜しんでアルバイトばかりしていましたね。1年目の冬になると、貯金もある程度たまりましたし、さすがにアルバイトばかりでは大学に来た意味がないと思って、勉強もやることにしました。

教授にお願いして、2年生の頃から研究の手伝いをさせてもらえることになりました。研究分野は生命科学です。溶液の中に住む菌の遺伝子を解析する菌叢解析や、植物から液体燃料を作る研究をしました。実験は面白かったですね。自分なりの仮説を立て、実験結果が仮説通りなら達成感がありますし、仮説通りにならなかった時は、その原因を探っていく中で好奇心を満たすことができます。自分なりのアイディアやアクションで、結果を変えていけるのが面白かったです。

ただ、研究を仕事にしようとは思いませんでした。実験は好きだったんですけど、研究のための研究というのが、あまり好きじゃなかったんです。どちらかというと、研究成果を社会に還元して、ビジネスとしてちゃんと稼げる形にしたいと考えていました。それで、大学院には進学せずに、就職することにしました。

いずれは対馬に帰ると考えていたので、島に戻っても困らないようにビジネスマンとしての力をつけたい。ただ、大学に通っていただけでは、どんなところで働けば力がつくかはイメージできませんでした。そこで、とにかく仕事が厳しそうなところや、人が「やめた方がいい」という過酷な環境で働くことにしました。

その条件で選んだのは、個人宅に訪問販売を行う東証一部上場企業でした。上場しているなら、ただ厳しいだけでなく、力もつくと思いました。

厳しいところだとは分かっていましたが、やっぱり最初はきつかったですね。毎日その日のノルマを達成しないと、会社に帰れないんです。ただ、いくらノルマが達成していないからって、夜中に個人宅を訪ずれても、まともに話を聞いてもらえるわけありません。仕方なく住宅街をトボトボ歩いていると、家族団欒の温かい明かりが目に入ってきて、「将来はこんな家庭を築きたいなあ」なんて思っていました。(笑)

何度も辞めたいと思いましたが、せめて1年は働かないとカッコ悪いと思い踏ん張りました。きつい仕事をする中で、いずれは対馬に帰る、一生ここにいるわけではないということが心の支えになりました。

要領を掴めたのは、入社3ヶ月経った頃ですね。お客さんとやり取りをする中で、引っ込み思案で人と話すのが苦手だった昔からの性格が変わっていくのが分かりましたし、人前で話すのが苦ではなくなりました。

ここで生きるなら、もっとよくしたい

就職して1年ほど経った時、父から会社を手伝ってほしいと声をかけられました。父は、僕が大学生の時に起業していて、本格的に人手が必要になってきたと。自分の中で決めていた1年は達成できたので、そろそろタイミングだなと思い、対馬に戻ることに決めました。24歳でした。

対馬に帰ってからは、自分の理想とかけ離れたことばかりで愕然としました。父の会社の経営状況については、運送業をやっているということ以外何も聞いていなかったんですけど、事務所がなければ、社員もいない。経営戦略もまっさら。これから父と二人で食っていけるのか不安になりましたよ。いただいている仕事もそれまでに父が培ってきた技術と人脈の賜物ですから、果たして自分が同じように仕事を作れるのか心配でした。

また、都会を知ってしまったので、離島の不便さを実感しました。公共の移動手段がほとんどないので車が必須。夜は10時頃になるとどこのお店も閉まるので、夜中に小腹がすいても冷蔵庫にあるものを食べるしかない。お店の種類も少ないので、欲しいものが買えません。

正直、やっぱり対馬を出ようか悩みましたよ。でも、島を出てしまったら両親の面倒を見られません。悩んでも、僕には対馬に住み続けることしか選択肢がないんです。住み続ける覚悟が生まれました。

また、どうせ住み続けるんだったら、自分で対馬を変えて、暮らしを良くしようと決めました。特に、頑張っている人が損をしないような島にしたいと思ったんです。

対馬には、汗水たらして一生懸命働いても、あまり儲けられない人がたくさんいました。お客さんに良いサービスを提供しようと必死になり、利益がほとんど出ていない小さな事業者さんたち。ボロボロのつなぎを着て、工事現場で命を賭けて働いているおっちゃんたち。僕も、日中は解体現場での仕事をして、新規事業を考えて、夜中まで事務作業をするような状況でしたけど、ほとんどお金にはなりませんでした。

それに比べて、世の中には、パリッとしたスーツを着て、冷房のきいた部屋でタバコを吸っている時間も給料が支払われるような人もいるじゃないですか。そういう人を羨ましく思いましたし、不平等さも感じていたんです。タバコを吸っている時間の給料を僕にくれよと思いましたよ。(笑)

とにかく、一生懸命頑張る人を稼げるようにしたいというのが、働くモチベーションになりました。新しい事業の可能性も常に探りました。

若者の受け皿を作りたい

父の会社では、運送業や解体業の他にも、産業廃棄物の処理もやっていました。その関連で、飲食系の事業者さんが天ぷら油を廃棄するのに、年間50万円近く支払っていると知りました。

その話を聞いて、大学時代にバイオ燃料について学んでいた知識とひも付き、天ぷら油を燃料に変えたらいいのではないかと思いつきました。対馬は離島なので、本土より燃料が高いんですよね。ガソリンは30円近く価格差があります。その点も離島ならではの不平等を感じることで、変えたいと思っていたんです。

ちょうどその頃、メーカーさんから、燃料プラントを買わないかという連絡があったんです。それで、天ぷら油で再生燃料を作る事業にチャレンジしてみることにしました。不安はありましたけど、やるしかありません。背水の陣ですね。その後、プラントメーカーさんからの提案があって1ヶ月半、対馬に帰って3ヶ月経つ頃には、バイオディーゼル燃料の新規事業を立ち上げることができました。

自分で事業を作ってみて、やっぱり対馬の中で新しい事業を作るのは重要だと感じましたね。島の中のサービスは、質も種類も量も十分ではないので、選択肢が限られています。それを増やすことは、生活をする上ではとても大事なことです。

新しい仕事を立ち上げる人が増えるためには、挑戦する元気がある若者の受け皿になるような組織が必要です。ただ、対馬にはその受け皿があまりないんですよね。商工会はありますけど、基本的には商売をしている人が入るものなので、従業員として働く若者には縁遠い世界です。

若者が集まる場所が必要だと思って、まずは食事会を開いてみました。すると、みんなの口から対馬に対する不満や不安ばかり出てきました。物価が高い。給料が低い。商品やサービスが少ない。山の起伏が激しいから大規模な農地が作れない。その割に一つひとつの山は小さいから林業もしづらい。仕事も大学もないから優秀な人が外に出てしまう。など、本当にたくさんの愚痴と文句が出てきたんです。

だったら自分たちで島を変えていこう。愚痴で終わらせずに、行動に移そう。そういうことで、若者たちで任意団体を作ったんです。何をするかの具体的な目標はありませんでしたが、とにかく自分たちができることから何か始めることにしました。

最初にやったのは、対馬の特産品が描かれたポロシャツ作りです。東京から移住してきたメンバーが中心になって、まずは対馬の人が地元に愛着を持てるようにしようと考えたんです。2000枚売り切り、その資金を元手に商品開発などに乗り出しました。

島の素材を活かす

現在は、父の会社「対馬エコサービス」で、バイオディーゼル燃料事業をやりながら、若者が集まるNPO法人「對馬次世代協議会(通称:対馬コノソレ)」の運営に関わっています。

天ぷら油から作った燃料は、軽油の代替燃料として使ってもらっています。日々、品質を高めるための研究開発を行っていて、長崎県のバイオディーゼル燃料事業者の中でトップの品質と評価されたこともあります。今後は、大学との共同研究も進めて、島の燃料問題を解決できればと考えています。

NPOでは、地域の特産品を活用したお土産商品づくりなどをしています。対馬では、しいたけや穴子が有名です。あとは、はちみつもすごく美味しいですね。対馬には1500年近い養蜂の歴史があって、作り方も独特なんです。

日本で行われている養蜂は西洋ミツバチが主流なんですけど、対馬は日本で唯一日本ミツバチが自然に根付いている地域と言われています。また、大陸と日本の中間にあるので植生が独特で、1300種類もの植物があるそうです。その多様な植物の蜜が集まるので、味わい深くて香り深い、本当に美味しいはちみつができるんです。

ただ、専門の養蜂業者がいるわけではないんです。林業に関わる人やしいたけ農家さんが、蜂洞と呼ばれる蜂の巣箱を持っていて、それを自分が所有する山の中に置きくとハチが勝手に住み着き、時期が来たらはちみつを取るんです。一軒毎に違う製法で、みんな手作りなんですよね。

だから、生産量は限られています。おまけに、みなさんできたはちみつを知り合いにタダであげてしまうので、販売に回されるのは生産された2割程度。販売する分はお得意さんに買ってもらうので、一般にはほとんど流通していないんです。僕たちは、生産者さんからはちみつを買い取って、生産量を増やしたり販売ルートを増やすようなお手伝いをしています。

その他にも、食や自然、人の繋がりなど、対馬にはたくさんの魅力があります。自分で新しく何かを始めたい人にとって、対馬はすごくやりやすいんじゃないかと思います。人口も多いので、島内での需要もそれなりにありますし。

対馬が盛り上がるためには、外からの知識や技術、人材が集まってくること重要です。僕たちは、政治ではない民間の力で、何かをやりたいと思っている若者の受け皿を作っていきたいと思います。それで、対馬の中でもしっかりと人材育成を行い、育った人が新しいことを始めるという、良い循環を作っていきたいです。

     

離島経済新聞 目次

【国境離島に生きる】国境離島71島に暮らす人へのインタビュー

いわゆる「国境離島」と呼ばれる島々にはどんな人が暮らしているのか? 2017年4月に「有人国境離島法」が施行され、29市町村71島が特定有人国境離島地域として指定されました。「国境離島に生きる」では、内閣府総合海洋政策推進事務局による「日本の国境に行こう!!」プロジェクトの一環として実施された、71島の国境離島に生きる人々へのインタビューを、ウェブマガジン『another life.』とのタイアップにて公開します。

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