つくろう、島の未来

2024年04月24日 水曜日

つくろう、島の未来

「国境離島」と呼ばれる島々に暮らしている人の想いを紹介。2017年4月、「有人国境離島法」が施行され、29市町村71島が特定有人国境離島地域として指定されました。「国境離島に生きる」では、内閣府総合海洋政策推進事務局による「日本の国境に行こう!!」プロジェクトの一環として実施された、71島の国境離島に生きる人々へのインタビューを、ウェブマガジン『another life.』とのタイアップにて公開します。

島の伝統文化を守るための牛飼い。
生まれた島で暮らし続ける選択。


野津賢三郎|牛飼い。隠岐の島の観光協会の牛を育てながら、自分の家で畜産業も行う。

島根県の隠岐諸島にある隠岐の島(島後|どうご)で、牛飼いとして暮らす野津さん。水道工事、土木の仕事を経て牛飼いを始めるには、どのようなきっかけがあったのでしょうか。伝統文化「牛突き」のための牛を育てる野津さんにお話を伺いました。

地元から出ずに就職

島根県の離島、隠岐の島で生まれました。隠岐諸島の中で最大の島で、昔から島流しにされた貴族を受け入れてきた島です。僕は三人兄弟の末っ子で、おとなしい性格でした。外で遊ぶのが好きで、夏はよく海に行ってましたね。

隠岐の島には様々な伝統が残っていて、一番盛り上がるのは「古典相撲」です。昔から神事として相撲が神社仏閣で行われていたのですが、その伝統は一時期途絶えていました。それが昭和47年に復活してから、祝い事がある度に古典相撲大会が開かれました。

地元が好きで、小学校、中学校、高校と、地元で進学しました。僕が通ったのは水産高校です。商業よりも水産を学ぶことに興味がありました。ただ、船に乗る仕事につく人が多いわけでもなく、僕自身も船は苦手で、乗ろうとは思っていませんでした。

高校卒業後は、地元で水道工事をする仕事を始めました。100人ほどいた同級生は、進学よりも就職する人が多い環境で、進学は一切考えませんでした。地元が好きだったので、島外に出ようとも思いませんでしたね。

島にある仕事の選択肢はそこまで多くありませんが、あちらこちらで下水道工事が増えていた時期だったので、水道屋なら仕事に困らないだろうと考えました。

社会人になってから、親戚の家に養子に出ることになりました。その親戚の家には子どもがいなかったので、家を守る後継者が必要だったんです。僕は三男で自分の家を継ぐわけでもなかったの、養子に出されました。養子といっても、実家との縁が切れるわけでもないので、名字が変わった程度の感覚でした。

牛を飼い始める

しばらく働くと、島中ほとんどのところで下水道工事がひと段落し、仕事が徐々に減っていきました。4年ほど働いた後、土木の仕事に移りました。現場仕事は嫌いではなかったので、仕事を変えるなら体を使いたいと思っていました。

土木の仕事を始めてから、友人たちと共同で牛を飼い始めました。隠岐の島には、「牛突き」という伝統があります。闘牛の一種ですが、牛に縄を付けたままで戦わせます。牛突きの起源は、隠岐の島に島流しで来た後鳥羽上皇をお慰めするために始まったと言われています。縄をつけたままやるのも、牛が暴れて後鳥羽上皇などの貴族を怪我させないためだったと言われています。

牛が逃げたり、ひっくり返ったりしたら負け。もしくは、縄を持っている人が負けだと判断したら降参します。普通は30分位で勝負がつきますが、長くなると1時間30分以上戦います。

大きな牛が激しく付き合う姿は、大迫力です。祭りのときには、地域で一番の牛を決めたり、地域ごとに戦わせたりもします。牛突き用の牛は個人で飼っている人が多くて、みんな大会を楽しみにしています。僕の住む島全体では30人位が突き牛を飼っていました。

友人の一人も先代から突き牛を飼っていて、みんなで一緒に牛を飼わないかと誘われたんです。最初は、牛を育てることに興味はありませんでした。誘われたからやってみただけです。

仔牛を買い、戦える牛になるまで育て始めました。牛舎に来れる人で世話をしようという話でしたが、誰が来れるか分からないので、結局みんな毎日牛舎まで来ていました。毎日触れ合っていると、体がどんどん大きくなるのを間近で感じられます。喧嘩もするようになりますし、だんだん愛着が湧いてきました。

牛飼いを本業にする

僕たちが飼っていた牛は、4年ほど育てた時、牛突きの地区大会で横綱になりました。なかなか上には上がれませんし、負けた牛は食べられてしまうことが多いので、嬉しかったですね。逃げずに戦い抜いて誇らしかったです。

勝ち残ると、島に戦える牛がいなくなってしまうので、闘牛のレベルが高い別の場所に送られます。僕たちの牛は、四国の宇和島に行ってその後も活躍しました。それから、本格的に牛を育てるのにはまりましたね。

友人は、畜産業をやり、30頭位の牛を育てていました。僕は土木の仕事を続けていたのですが、公共工事の量は減っていて、この先も安定して仕事があるか分からない状況でした。場合によっては、職を失う可能性もあります。

だったら、僕も畜産業をやってみようかなと思いました。牛の値段は年々高騰していたので、牛の繁殖をやる方が、安定すると考えたんです。それで、土木の会社はやめることにしました。畜産業を生活の中心に置き、土木の仕事はできる時間で手伝うことにしたんです。

その後、島で観光客向けに牛突きを見せている「モーモードーム」から、牛飼いをやらないかと話がありました。観光の牛突きをするために11頭の牛が飼われていたのですが、牛飼いがいなくなってしまったんです。

牛飼いは後継者不足が深刻でした。特に、突き牛は大きいので、育てるのが大変なんです。戦わせる牛なので、それぞれの牛の特徴を分かっていないと危険もあります。牛飼いがいなくなると、観光用の牛突きも、神事の牛突きもできなくなってしまいます。

地元の人にとって身近なこの文化をなくすのはまずい。僕は牛自体も牛突きも好きだったので、モーモードームでの牛飼いも引き受けることにしました。その時から土木の仕事はやめて、牛を育てることに専念しました。

隠岐の島の魅力

現在は、モーモードームで牛突き用の牛を育てながら、自分の家では繁殖牛と仔牛を育てています。根本には、牛が好きという気持ちがあります。大きくなったり、いい格好になってくると面白いですね。牛突きの練習をさせて、いい感じになっているのを見て酒を飲んだりするのも最高です。

繁殖牛は、今は10頭位の規模でやっています。毎年1頭仔牛が生まれて、順調に行けば9頭は出荷できます。年に3回の競りに合わせて出荷するので、大体生後150日から250日位で出します。

この規模だと、一人で食べていくのがやっとです。今後人を雇うような可能性も考えると、繁殖用の牛は増やしたいですね。ただ、モーモードームの仕事もあるので、なかなか手が回りません。そっちを誰かがやってくれるのであれば、自分の畜産業に集中したい気持ちもあります。

僕はこれまで隠岐から出ずに暮らしていますが、これからも隠岐に住み続けたいと考えています。簡単に島外に遊びに行けない不便さはありますが、生まれた場所ですし、好きなんです。祭りとか行事の時に、島の人みんなで集まってワイワイやるのが楽しいですね。

旅行で来る人には、ぜひ牛と触れ合ってほしいなと思います。大きな牛と触れ合える機会ってあまりないと思うので、楽しんでもらいたいですね。

食べ物でいえば、個人的には「爆弾握り」がおすすめです。ご飯を岩海苔で包んだ、大きな丸いおにぎりです。あとは隠岐そば。つなぎを使わず100%そば粉だけで作っています。だし汁はあごか鯖を使っていて、絶品です。

このまま人口が減ることには、危機感もあります。牛を飼う人も減るわけですから、移住したいという人がいるのであれば、「ようこそ」と言う気持ちで迎えたいですね。仕事がないと言われますけど、選ばなければ意外とあります。農業は専業でやるのが難しいかもしれませんが、漁業はできるんじゃないかなと思います。

畜産業も、牛の値段が上がっているのでチャンスはあります。ただ、大変な仕事なので、畜産をやるなら、真面目な人じゃないとダメだと思いますね。生き物が相手なので、怠けたらいけません。毎日田んぼを耕したり、わらを集めて餌を作るのは大変な作業。コツコツできる人が向いていると思います。

僕自身は、自分が好きな牛を育てながら生きられるこの暮らしが好きですね。

離島経済新聞 目次

【国境離島に生きる】国境離島71島に暮らす人へのインタビュー

いわゆる「国境離島」と呼ばれる島々にはどんな人が暮らしているのか? 2017年4月に「有人国境離島法」が施行され、29市町村71島が特定有人国境離島地域として指定されました。「国境離島に生きる」では、内閣府総合海洋政策推進事務局による「日本の国境に行こう!!」プロジェクトの一環として実施された、71島の国境離島に生きる人々へのインタビューを、ウェブマガジン『another life.』とのタイアップにて公開します。

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