「国境離島」と呼ばれる島々に暮らしている人の想いを紹介。2017年4月、「有人国境離島法」が施行され、29市町村71島が特定有人国境離島地域として指定されました。「国境離島に生きる」では、内閣府総合海洋政策推進事務局による「日本の国境に行こう!!」プロジェクトの一環として実施された、71島の国境離島に生きる人々へのインタビューを、ウェブマガジン『another life.』とのタイアップにて公開します。
種子島から世界のトップを目指す。
手術や挫折という荒波を乗り越えて。

須田大輔(すだ・だいすけ)|潜水士・サーフィンコーチ。サーフコーチや潜水の仕事をしながら、サーファー専門宿「Surf Villa narai (サーフヴィラナライ)」を運営する。
鹿児島県の種子島(たねがしま)で、サーフィンのコーチや民宿の経営をしながら、潜水や漁業の仕事も行う須田さん。中学生の頃に始めたサーフィンが、海と寄り添う人生を決定づけました。けがでプロの道を断たれながらも、3度の手術や海外移住の挫折という荒波を乗り越え、サーフィンのコーチとして島から世界を目指す須田さんにお話を伺いました。
野球少年、海と出会う
静岡県西伊豆町で育ちました。家から歩いてすぐに海がある環境でした。実家がスポーツ店、父は少年団の監督をしていたので、ずっと野球をやっていました。ピッチャーで4番。将来はプロ野球選手になりたいと思っていました。
野球選手になりたいという夢は、13歳の時に変わりました。サーフィンを始め、プロサーファーを目指し始めたんです。きっかけは、近所の知り合いのお兄さんにサーフィンをやらせてもらったことです。やってみると、すごく面白かったんです。1日目で立って滑れたので、最初から楽しかったですね。
『ビッグ・ウェンズデー』という映画を見てからさらにのめり込みましたね。カリフォルニアに住んでいるサーファーたちが、戦争を乗り越えてサーフィンの大会を目指すという映画なんですけど、その映画を見て大会に出てたいと思い始めました。それで、伊豆半島の下田で、プロサーファーの人たちの話を聞くようになり、ドンドンはまっていった感じですね。
中学卒業後は、家からも海からもすぐ近くにある高校に進学しました。放課後は、いい波があればサーフィン、なければスケートボードをやっていました。長い休みには、新島まで泊まりがけで波乗りに行きました。
そんな風にサーフィンに明け暮れていた高校2年生の時、交通事故に遭いました。車に乗っていた時にトラックに追突されたんです。足がしびれて病院にいったら、椎間板ヘルニアと診断されました。そのまま大学病院に入院。痛みが激しくて、4日間くらい一睡もできませんでした。太いブロック注射を脊髄に打っても効かなくて、メスを入れて手術しました。
医者には、プロスポーツ選手になるのは絶対に無理だと言われました。無理に続けたら、体に障害が残るかもしれないと脅されました。
その時に、プロサーファーになる夢は諦めました。それでも、楽しむサーフィンは続けようと思いましたね。プロへの未練もありましたけど、サーフィン自体が楽しい。職業にしなくてもサーフィンを続けられるだけでもいいかなって。
ただ、ちょっとでも腰が痛くなったらサーフィンはしないと決めました。いつでも爆弾を抱えてるような感覚です。サーフィンやってる途中に「痛くならないかな」という不安は常にありましたね。
海外でサーフィンをしながら生きたい
高校卒業後は、海外で仕事をしたいと思うようになりました。いい波がたくさんあるところに住んでサーフィンをしながら暮らしたいなと。そう考えていると話すと、サーフィンをやっている先輩から、ダイビングインストラクターの仕事を勧められました。業界の中でもいちばん有名な資格を取れば、世界中どこでもダイビングインストラクターの仕事ができるんんです。しかも、海が時化てダイビングに出られない時は、サーフィンをやれます。
それで、その先輩のダイビングショップで働きました。平日は神奈川で水泳のインストラクターをしながら、土日に伊豆に戻ってダイビングの修行。3年かけて資格を取りました。
資格を取った頃に、2回目の手術をしました。仕事で腰を酷使してしまったんです。夏場は寝る暇がないくらいに忙しいんですよね。夜はお客さんと飲み、朝から仕事の準備をして、昼間はずっとガイドやインストラクションをするので、休みがありませんでした。
手術の時に、「2回も同じ場所をやっているので軟骨がすり減っている。30歳を過ぎたら運動はできないと思った方がいい」と言われました。
それでも、サーフィンも、ダイビングの仕事もやめませんでした。これ以上やるのはキツいかなという気持ちはありましたね、常に。でも、ダイビングの仕事なら自分が潜らなくても、経営者としてダイビングショップを運営するとか、ガイドをせずにインストラクションだけをするとか、体力を使わない方法もあるので、不安はなかったです。
サーフィンはできなくなるまではやって、万が一痛くなったらしょうがない。できなくなったらやめようと思いました。
その後、3年ほど先輩のショップで働き結婚。そろそろ世界に出ようと思い、妻と籍を入れた1月に、世界地図をどーんと広げて「さあどこで生活するか」って話をしました。
基本はサーフィンができるかどうかを考えました。アメリカのカリフォルニアはいい波があってダイビングの仕事もありますが、水温が低い。それは腰に良くないだろう。そんな風に選択肢を削っていたら、最終的にはオーストラリアになりました。
南半球には、昔から興味がありました。小さい頃祖父に「北半球は戦争ばかりだから南半球がいいぞ。大自然が残ってる」って言われていましたし、オーストラリアなら子育てをするにも治安がいいので。グレートバリアリーフ近くのダイビングショップに就職することが決まりました。
種子島にサーフィン移住
住む家も仕事も決まり、オーストラリア行きまでもう少しというタイミングで、父の具合が悪くなってしまいました。そのまま移住するのか。すごく悩みましたね。もし父の具合が悪くなっても、オーストラリアからじゃすぐには戻れません。
悩んだ末、オーストラリアに行くのは中止することにしました。やっぱり、親の死に目に会えないかもしれないは、嫌だったんです。ただ、伊豆を出たいとは考えていました。生まれたところから出て、違う場所で挑戦したかったんです。
国内でいい場所がないかと思っていたら、鹿児島の離島、種子島での仕事を紹介されました。南の島で温かいし、サーフィンもできそうでいいところだなと思っていた時でした。
下見に行くと、サーフィンをする環境の良さを感じましたね。すごくいい波があるんですけど、サーファー人口が少なくて。例え先客がいても、スポットがたくさんるのでちょっと移動すれば貸切状態で楽しめるんです。
また、養殖や定置網漁を手伝う作業潜水の仕事も見つかりました。下見に来た時、種子島で作業潜水をやっている人が誘ってくれたんです。
それで、26歳の時に家族で種子島に移住しました。仕事は、ダイビングから作業潜水にシフトしていきました。ダイビングは人の命を預かっている仕事なので、リスクを考えたらすごい恐い。作業潜水だったら、危険なのは自分の命だけ。自己責任だけしかないので、そういう仕事をしていきたいと思ったんです。
種子島に来てすぐ、3回目の手術をしました。3回目ともなると、さすがにメスは入れられないと言われました。それで、藁にもすがる思いで、レーザー手術をしました。治る確率は半々くらい。どうなるかと思いましたが、運良く痛みが消えました。
手術してからは、ヨガを始めて体調もよくなったので、サーフィンの全日本選手権に出たりもするようになりました。
コーチとしての楽しみ
島に来て数年経った頃から、地元の高校でサーフィンのコーチを始めました。子どもたちが同好会を立上げたんですけど、危険だからって先生に反対されて。ダイビングや救命の資格を持っていた僕のところに依頼がきたんです。
最初は安全管理から初めて、指導もするようになりました。ダイビングの仕事で学んだコーチング技術が生きました。
ボランティアでしたが、やりがいがありましたね。子どもたちがサーフィンをする意味は、サーフィンの上達だけではありません。海を通じて自然の大切さだったりとか、人との付き合い方とかを知り、精神的な面を鍛えてもらえるのが楽しいんです。父兄の方から、自分の子どもがサーフィン部に入ったら毎日すごく生き生きするようになったという声も頂きました。
潜水士とサーフィンコーチをしながら、宿も始めました。僕は腰に爆弾を抱えているので、いつ潜りの仕事ができなくなるか分かりません。もし潜れなくなってもできる仕事として、接客業をやろうと思いましたが、僕には飲食店の経験はありません。島にサーファー専門の宿はなかったので、それならできるかなと思いました。潜水の仕事は明け方に出ることが多かったので、宿なら時間の融通も効きますしね。
宿をやりたいという考え自体はずっとあったんですが、実現するきっかけは、知人からいい土地があると紹介されたことです。竹が生い茂っていて、何も見えないような場所だったんですが、切り拓くと海がばーんって見えて。ここで宿をやったら素敵だなって思ったんです。
宿を作る時、サーフショップもやらないかというお誘いがありました。僕にサーフボードなどをスポンサーしてくれる会社があって、その店のサーフボードを置かないかって。ただ、すごく好きなものを仕事にするのは、ちょっと嫌だと思ったんですよね。
僕にとって、サーフィンはあくまで息抜き。楽しいものとして取って置きたかったんです。宿に来るお客さんにおすすめポイントを教えたりするのはいいんですけど、物販とかはやりすぎかなと。サーフィンにしがらみは持ち込みたくなかったんですね。
日本から世界を目指す
現在は、作業潜水の仕事をしながら、サーファーのための宿「Surf Villa narai (サーフヴィラナライ)」を運営しています。「ナライ」というのは、伊豆の漁師言葉で、「東からの風」という意味です。東風が吹くと、海が時化て波が上がりますし、東側からお客さんがたくさんきてくれるようにと思って名付けました。
種子島に来る人は、自然を感じに来ている方が多いので、自然とサーフィンを存分に楽しんで帰ってもらいたいですね。種子島は砂浜も多いですし、岩場もたくさんあって、サーフィンをするスポットはたくさんあります。貸切状態で楽しめる場所がたくさんあるので、都会ではできない楽しみ方をしてもらえたらと思います。
潜水の仕事では、海に潜って網の修理や点検をします。深いところでは、60〜70メートルくらいまで潜ります。冬場は漁には出ないので、陸で網を修理したりしています。
あと、自分の娘と息子にサーフィンのコーチをしています。娘はプロサーファーです。大会に同行して、海外に行くこともしょっちゅうです。
娘が自分のなれなかったプロになったのは、嬉しいですね。嬉しいですけど、娘のコーチとして同行してみて、僕はプロの選手にならなくてよかったと思いましたね。職業にしちゃうと、やっぱりサーフィンが楽しくない時もたくさんあるんですよね。いままさに娘がそうだから。大変だろうなと思います。
今後は、できるならサーフィンコーチを職業にしたいと考えています。日本ではサーフィンのコーチという職業は成り立っていないですが、アメリカやオーストラリアでは、何年も前からあるんですよね。日本では、コーチという仕組みができたのもここ数年。僕は12年ほどコーチをしていますが、ほとんど独学です。
娘が中学生でサーフィンを始めたいと行った時に、オーストラリアの知り合いに誘われて、オーストラリアで少しだけコーチの勉強をしました。その時に初めてサーフィンコーチの仕事を知りました。その時は高校でボランティアとしてやっていましたけど、これを職業にできたら、サーフィンは楽しめるし、世界中いろんなところにいけて最高だなって思いましたね。
サーフィンがオリンピック競技にも決まった今、だいぶ流れは良くて、日本人のサーフコーチも増えました。いま、それだけで食べられているかわからないですけど、ゆくゆくはコーチという職業が一般的になればいいなと思います。
無名の僕がプロのコーチになる一番近道は、娘が世界一になること。頑張って欲しいですね。
日本のサーファーを世界のトップまで引き上げるようなコーチになりたいので、基盤は種子島に置き続けるつもりです。この腰もいつまでもつのかも分からないし、人生は一度きり。コーチとして海外を回りながら、地球の隅々まで見れたら最高ですね。
離島経済新聞 目次
【国境離島に生きる】国境離島71島に暮らす人へのインタビュー
いわゆる「国境離島」と呼ばれる島々にはどんな人が暮らしているのか? 2017年4月に「有人国境離島法」が施行され、29市町村71島が特定有人国境離島地域として指定されました。「国境離島に生きる」では、内閣府総合海洋政策推進事務局による「日本の国境に行こう!!」プロジェクトの一環として実施された、71島の国境離島に生きる人々へのインタビューを、ウェブマガジン『another life.』とのタイアップにて公開します。
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- 【国境離島に生きる】手術や挫折という荒波を乗り越えて。|種子島 須田大輔さん
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