「国境離島」と呼ばれる島々に暮らしている人の想いを紹介。2017年4月、「有人国境離島法」が施行され、29市町村71島が特定有人国境離島地域として指定されました。「国境離島に生きる」では、内閣府総合海洋政策推進事務局による「日本の国境に行こう!!」プロジェクトの一環として実施された、71島の国境離島に生きる人々へのインタビューを、ウェブマガジン『another life.』とのタイアップにて公開します。
自分の裁量で自由に暮らしたい。
命をかけて飯を食う漁師の生き様。
北海道の利尻島にて、漁師として生きる本島さん。自衛隊に入って感じた違和感と未経験の漁師に飛び込むきっかけはどんなものだったのでしょうか。海で命を賭けて生きる本島さんにお話を伺いました。(編集:another life.編集部)
本島将光|漁師。利尻島にて漁師として暮らす。
父の勧めで自衛隊に入る
北海道千歳市で生まれました。小さい頃は活発な性格だったと思います。家の近くの公園に行ったり、球技をしたり、外遊びをすることが多かったですね、あとは、プラモデルも好きでした。
中学は地元で、高校は隣町の恵庭に進学しました。卒業後は大学進学を考えましたが、親と相談して最終的に就職を考えるようになりました。自衛隊を勧められたんです。父が自衛隊で働いていて、「自衛隊の仕事はいいぞ」と言われて。
父がどんな仕事をしているかは、興味がありました。月に数日は家にいない日があったので、何しているんだろうと気になっていました。
そういうのもあって自衛隊に入ることにしました。父が陸上自衛隊だったという、安易な考えではあるんですが、配属先を陸上自衛隊にしました。
陸上自衛隊に入隊し、訓練を繰り返す日々が始まりました。周りのみんなはきついと言ってましたが、僕はそこまで大変だとは思わなかったですね。
僕が配属されたのは、東千歳駐屯地でした。配属されたところでは防衛・災害派遣などが主な仕事で何かあった時に備えて毎日訓練を重ねました。
誰のための仕事なのか
自衛隊に入って3年程経つ頃、そのままの生活を続けていていいのか、モヤモヤを感じるようになりました。誰のために仕事をしているのか、分からなくなってくるんです。
毎日、朝から晩まで訓練して、就業時間後も体力づくりのためにトレーニングをします。また、演習では有事を想定して山ごもりなどもするんですが、それで給料を頂いていていいのかなと、疑問に感じました。
何も起こらないことが最善ですし、実際に外国から攻められることはありませんでした。だからこそ一層、自分のやっていることに対して「これでいいのかな?」という気持ちが湧いてくるんです。
モヤモヤを感じるようになってきていたので、他の仕事をしてみたいと思い6年目の契約更新の時、自衛隊をやめました。
転職活動では、ある程度の給料がもらえることと、何か資格を取れるところという条件で、飛行機に燃料を入れる仕事を選びました。新しい仕事を頑張って長く続けようと思いました。
ところが、入ってすぐに、組織で働くことの難しさを痛感しました。自衛隊にいた頃は、組織系統も自分がすべきことも明確でしたが、会社の仕事ではそもそも何をすればいいのかわからないんですよね。自分で色々考えながらやる必要がありますが、未経験のことなので、なかなか追いつかないんです。周りに置いていかれる感覚がありました。
また、同い年の先輩に指導してもらっていたんですが、人に使われるのが苦手というか、会社組織とは合わないと感じましたね。
組織に縛られない自由な働き方
燃料の会社に入ってから、高校時代の友人とよく遊ぶようになりました。海に行ったり、魚を釣ったりしながら色々話しました。
その中で、漁師っていいよね、という話が話題にあがりました。組織に縛られないで自由に働けることや、自分の頑張り次第で稼ぎをコントロールできることに魅力を感じたんです。いつになるかは分からないけど、いつか漁師になりたい。そんなことを二人で話しました。
すると、友人は本格的に漁師になる方法を調べ始めました。その中で、北海道の離島、利尻島で新規の漁師を募集する「漁師道」という制度を見つけ、移住することを決めていました。それを聞いて、羨ましいと思いましたし、自分もすぐに行こうと決めました。
友人が引っ越す時に手伝いをして、初めて利尻島を訪れました。挨拶回りをしながら島中を回った時の印象は「何もないな」ということでした。でも、それが暮らしやすそうだと感じたんですよね。ものがないならないでいいし、その方が住みやすいだろうと。
友人が利尻で漁師になってから、僕も受け入れ先を探し始め、1年後の26歳の時に利尻島に移住しました。不安はまったくなかったです。早く自分の力で頑張りたいと思いました。
僕も漁師道の制度を使っていたので、家探しなどはサポートしてもらえました。最初は受け入れてくれる漁師の元に弟子入りというカタチで入ります。親方の指導の元、漁のやり方や、漁の前後の手順などについて教えてもらいました。
漁師の魅力と圧倒的な実力差
3月くらいに来たので、漁師デビューはナマコ漁でした。沖まで漁船で出て、桁引きという大きな網を海底まで落としてから引きます。
漁は面白かったですね。見たこともないような大きな道具を使う迫力がすごかったです。また、取れたもの一つひとつに値段がつき、お金に変わるのが面白かったです。
利尻の漁業で有名なので利尻昆布とウニです。6月のウニ漁の解禁の時には僕も漁業権をいただき、漁に出ました。朝の5時前に組合員の同じ部落の人たちがみんな同じ場所に集まって、漁に出ていいかどうかの放送があってから、みんなで漁に出ます。
利尻のウニ漁は、船の上からガラス箱を加えて海の中を覗き、タモと呼ばれる網でウニをすくい上げます。1時間ちょっとの時間で、僕は3キロくらいのキタムラサキウニが取れました。
まあまあ取れたかなと思って陸に上がると、他の人は自分とはぜんぜん違う量のウニを山盛りに取っていました。僕の親方は地元で有名なウニ取り名人で、親方に至っては20キロ近く取っていました。衝撃を受けましたね。同時に、自分も頑張ればそれだけ取れるようになるんだと分かりました。
その後も、ウニと利尻昆布を中心に、親方の元で漁を学ばせてもらいました。厳しいこともありましたが、それは僕を育てるため。自分で考えるための力をつけさせてくれるので、やめようなんて思いませんでした。
研修が終わる1年では全然自立できないので、そのまま親方のところで働かせてもらいました。特に、利尻昆布漁は一人でやるのは難しいんですよね。取ってきた昆布を干すのには人手が必要ですし、干す場所も確保しなければなりませんから。
親方のところで4年ほど働かせてもらい、結婚したタイミングで独立しました。
競い合いながら楽しんでいきたい
現在は、自分の磯船という小型の船で漁をしながら、妻の父の漁も手伝っています。妻の父は漁船で刺し網漁をやっていて、ホッケや毛ガニ、その他の魚などを取ります。漁船なので、少しくらいの波だったら漁に出ます。
自分の船では、6月から9月頃はキタムラサキウニ、7月から8月はバフンウニと天然昆布、11月から12月はアワビ、1月から2月はナマコと、旬の時期によって様々な漁をしています。
漁師の仕事は面白いですね。醍醐味は、自分の裁量で仕事ができることですかね。あとは単純に船で沖に行くだけでも気持ちいいですよ。それでウニやナマコ、アワビなどが見つかれば、その分お金になるので最高ですね。
利尻の漁師は若い人が増えている傾向にはありますが、もっと同世代の人や若い人に来てもらえたらと思います。ライバルが増えることでお互い取り分は減りますが、お互い競い合えるのが楽しいじゃないですか。自分で考えて工夫をこらしていくのが好きなんです。
そうはいっても、乱獲になってしまうのは問題です。僕が利尻に来たときと比べても、やはり漁獲量は減っていると感じます。今は、育てる漁業といって、資源管理をする取り組みも始まっています。
例えば、ウニセンターでウニを育てて、大きくなってから放流するとか。効果が出ているかどうかははっきりと分かりませんが、何もしないよりはマシだと思います。
利尻島に移住して9年。僕はここでの生活が合っていると思います。海が好きですし、ゴミゴミしていないのがいいですね。人間関係の近さも心地いいです。あえて不便なところをあげるとすれば、大病をしたときの病院への不安と、場所によっては家から出られなくなるくらい雪がつもることくらいです。
島を盛り上げるために、若い人にもっと来てほしいですね。やる気があれば、誰でも大丈夫だと思います。漁師になるのも、自分で独立するだけではなくて親方のもとで働く選択肢もありますから。
ただ、島に住んでいる人からすると変わり者と呼ばれることもあるので、島とか漁が好きでないと難しいかもしれませんね。漁をしていると、海に落ちることだってありますし、死にかけることもあります。それ自体を学びとして楽しめる人に向いているかなと思います。
僕は、命をかけて飯を食っていく感覚のある、この島での生活が好きです。これからも利尻島で暮らし、骨を埋める覚悟ですね。