つくろう、島の未来

2024年11月21日 木曜日

つくろう、島の未来

「国境離島」と呼ばれる島々に暮らしている人の想いを紹介。2017年4月、「有人国境離島法」が施行され、29市町村71島が特定有人国境離島地域として指定されました。「国境離島に生きる」では、内閣府総合海洋政策推進事務局による「日本の国境に行こう!!」プロジェクトの一環として実施された、71島の国境離島に生きる人々へのインタビューを、ウェブマガジン『another life.』とのタイアップにて公開します。

商店街からエネルギーを生み出す。
利尻島を子どもが胸を張れる故郷に。

北海道の利尻島にて、商店を営む高橋さん。家業の漁師を継がず、別の道を歩み始めた背景には、どのような想いがあったのでしょうか。40年間住み続けた利尻島に対して、今思うこととは。お話を伺いました。(編集:another life.編集部)

高橋哲也|商店経営。利尻島にて、津田商店を経営する。

漁師を継がないという選択

北海道の離島、利尻島で生まれました。活発な性格で、人前に出るのが好きな子どもでしたね。目立ちたがりで、学校では自らクラス代表をやっていました。

野球やスキーなど、スポーツも好きでした。特にスキーは、小学校の先生がスキーの指導員もしていたのでのめり込みました。先生とは「大人になったら利尻でスキーの指導員をする」と約束しました。ボランティアのようなもので仕事にはなりませんが、約束は頭の中にずっとありましたね。

父は漁師でした。ウニ漁や利尻昆布漁の他に、まき網漁船でホッケ漁に出ていました。1日に何回か航海をして、何十トンというホッケを取ってくるんです。大漁のときは、大漁旗を掲げて港に帰ってきます。その時がまたかっこいいんですよね。港も活気で溢れかえるんです。

父も漁師仲間も、仕事は大変そうでしたが、すごくイキイキ仕事をしているんですよ。子どもながらにすごいなと思いました。楽しそうな姿を見て、父のような生活っていいなと思いましたね。

でも、漁師を継ごうとは思わなかったんです。なんか、自分じゃねぇなって。漁師って、海の上で孤立するじゃないですか。常に自分との戦いというか。

僕は、どちらかといえば、人と接することがすごく好きだったんですよね。話をするのが好きで、常に色んな人と顔を合わせて会話をしたい。それができる仕事に就くことが理想だったんです。だから、漁師はすごくいいと思うんですけど、自分には無理だなって思いました。

長男だったので、父は僕に漁師を継いでほしかったと思います。だけど、やりたくもないものをやったら絶対に続かないので、高校卒業の前に父に相談しました。

そしたら、「お前は多分そう言うだろうと思ってた」って言われたんです。「お前がほんとにやりたいんだったら教える。でも、俺に気を使って中途半端な気持ちでやるんだったら絶対うまくいかないし、俺は教えるつもりはない」って。

でも、他にやりたいことは何もなかったんですよ。島の外の世界に憧れがあって、島を出たいとは思っていました。それで、運動が好きだから大学に行って体育の先生にでもなりたいと軽い感じで話しましたが、長男という立場や金銭的な部分も含め難しいと言われました。しかも、夏は昆布干しのために人手が必要なので、島に残ってほしいと言われました。

結構ゴネたんですが、島を出るちゃんとした理由がありません。漠然としすぎてて。すごくお金もかかることなので、強い気持ちがなければ認めてもらえませんでした。

それで、島で働くことに決めました。親父は、「お前は違うところで活躍できる場面がきっとあるから、自分が進みたい道に進んだ方が絶対いいぞ」と言いました。成功しなきゃだめだなって思いましたね。家業を継ぐのを断った以上、何をやってもいいけど、絶対何かしら成果を残す。そうじゃなきゃ、親父に申し訳ないなって思いました。

時間を費やすなら、商売をやりたい

いつかは自分で商売をやりたいと思いつつ、まずは島の電気工事会社で働きました。建物の屋内の配線を繋いだり、テレビのアンテナを設置したりする仕事です。

最初は興味がなかったんですけど、やりだしたらハマりました。工事って、自分がやった現場がカタチに残るじゃないですか。それが楽しくて、やりがいを感じましたね。

12年ほど電気工事の仕事をしたあとは、ホテルで働きました。同じ会社がホテルを経営していたんですよね。基本的には島外の人が働いていたんですけど、島の人がいたほうが観光に来た人からの質問に応えられるということで、僕が異動することになりました。

ホテルの業務全般をやりました。まず、スーツでホテルに向かい、朝一のチェックアウト業務をします。その後はジャージに着替えてベッドメイク。それが終わると、またスーツに着替えてお客様の送迎、そのままチェックイン。さらには夜のレストランにヘルプで入って、最後は一日の売上を計算して終わります。その間に予約の電話も鳴りますから、休む暇はありませんでした。

やりがいはある仕事でしたね。「利尻に来て美味しいものを食べて、いろんな体験ができて、すごく楽しかった。ホテルの対応も良かったから、気持ちよく過ごせたわ」と言ってもらえることが、本当にうれしかったですね。

でも、仕事はあまりにも激務でした。朝から晩までずっと仕事をしていたので、奥さんや子どもと過ごす時間もありません。仕事以外何にもできなくて、ストレスは溜まり続けていました。

僕がやりたいのって、そういうことじゃなかったんですよね。それだけの時間を費やすなら、自分で商売をやって同じ時間を費やした方がもっといろんなことができる。時間がもったいない気がしました。

島のことに初めて目が向く瞬間

ホテルで働き始めて5年目に差し掛かった時、仕事がきつすぎてさすがにやめることにしました。もう1回工事部に戻してもらおうと思ったんです。でも、それってなんか本意じゃないんですよね。今さらまた戻るのかって。5年のブランクって大きいですし。

そしたら、妻の親が経営する商店を継がないかと相談されました。妻の父に「俺もう年だから、やらねえか?」って言われたんです。もし継がないなら、店は畳むとも聞きました。

「あ、これ、俺に動けって誰かが言ってるんだな」と思いましたね。テレビドラマでよくあるみたいに、誰かに背中を押される感覚があって。経営状況は苦しいと知っていましたが、今やるしかないと思って、継ぐことにしました。くすぶっていた気持ちに、火をつけられたんです。

妻の父は、高校を出てからしばらくは島外にいたので、島内での繋がりはそこまで多くありませんでした。その点、僕はずっと利尻にいたので、人との繋がりは強みです。そこを生かして、新しい取り組みを始めることにしました。

電気工事や家電の販売、それからお土産物も扱い始めました。その他にも、イベントみたいなこともやりました。

例えば、釣具をアピールするために、地元の人向けに「親子釣り大会」を開きました。海に囲まれた島なのに、釣りをやったことがない子どもがいて、もったいないと思ったんですよね。そのイベントでは、うちの釣具の販売やを貸し出を行いました。後々、子どもたちが釣りを始めたら、買いに来てくれると思ったんです。

実際にイベントは大盛況でしたし、終わった後に釣り竿や餌を買いに来てくれる人が増えました。やっぱり、自分で仕掛けをつくらないと、お客さんってこないんだなと思いましたね。

他にも、売れなくなった大工道具とか骨董品を格安で売る市場をやったり、色々やりました。周りからは、若いやつに変わって、なんか面白いことを始めたと思われていたかもしれません。

ただ、以前と比べて経営状態が悪くなっているのは明らかで、危機感がありましたね。正直、そのまま行くと自分の生活も危ういほどでした。商店での消費は、島内での消費と直結しています。商店を活気づけるためには、商店街、ひいては島全体を活気づけなければならない。この時、初めて島に対して目が向きました。

このまま売上が落ち続けたら、子どもの代まで持ちません。子どもは島の外に出るかもしれませんが、帰ってくる場所は残してあげたい。それに、利尻島は魅力にあふれる場所なので、なくしたくないと思ったんです。

まちづくり団体(活性化協議会)や、商工会青年部に入り、島全体の活性化についても考えるようになりました。他の島の人たちや、島おこしに興味を持つ外部の人たちと繋がるようになり、自分の中ではどんどん新しい世界が開かれていきました。

子どもが利尻を誇れるように

現在は、利尻島内の沓形という町で「津田商店」を経営しています。酒とプロパンガスがメインですが、釣具、金物、電気工事、家電販売、お土産となんでもやります。

お店でいろんな人と話している中で新しいことが始まったりするのが面白いですね。島の情報のハブとなっていろんな人を繋げたらいいなと思います。

地元の人に愛される商店でいるために、常に携帯電話は取れるようにしています。お酒の配達とか、テレビの修理とか、何かあればすぐに飛んでいきます。ほしいその時にいないと、お客さんにとっては意味がないですからね。

今後は、お店の中にちょっとしたお酒を飲めるスペースを作ろうと思っています。ゼロ次会的に使えるように、「缶詰バー」をやろうかなって。酒屋なのでお酒は当然お安く提供できますし、缶詰なら日持ちがするので在庫が無駄になりづらい。さらには、調理不要なので人件費も抑えられる。買って持ち帰ってもらうこともできますしね。

商売をしたいというよりも、人が集まる場所を作りたいんですよね。若い人が集まる仕掛けじゃないですけど、まずは家から出て町を歩くきっかけをつくる。集まって話しているうちに、島を盛り上げるような新しいことって生まれると思うんです。

将来的には、僕がお店を構える沓形の商店街自体を活気づけたいんですよね。今って、食べるところも何かを買うところも、選択肢がほとんどない。それって、観光で来た人にはつまらないと思うんです。食べられて、買い物ができて、体験ができて、いろんな人と出会える。地元の人にも観光客にも愛される。そんな商店街にしたいです。

そう思う根底には、子どもたちへの想いがあります。自分の子どもが大人になった時に、胸を張って利尻出身だと言えるようにしたいんです。「利尻出身なんだよ。一度来てみたら?すごくいいとこだよ」って胸を張って言えるような、そういう島づくりを目指していきたいなと思っています。

ただ、島の中には現状に焦りを感じていない人もいます。困ってないですよね、今の生活に。このままでいいんじゃないのって。でも、このままだったら、今後衰退するのは明らかなので、そうなる前にみんなで何とかしたいですね。そのためには、自分が結果を出して、「なんか面白そうだぞ」って思ってもらうことしかないと思うので、まずは自分が動きたいですね。

僕はずっと暮らし続けているこの利尻島が、やっぱり好きなんですよね。利尻富士は圧巻ですし、島のどこを走っても山と海が見える景色は最高です。バーベキューをやるときも、食材が豪華すぎるほどです。

今は、自分の商売をしっかりと成り立たせないといけないので、島のことよりもお店の方が力をいれています。ただがむしゃらに地域のために動いて、それで生活資金がなくなったら、それこそ本末転倒です。まずは自分の土台をしっかりと作る。その上で、できる範囲で島のためにできることをやって、実績を出したいと思います。

     

離島経済新聞 目次

【国境離島に生きる】国境離島71島に暮らす人へのインタビュー

いわゆる「国境離島」と呼ばれる島々にはどんな人が暮らしているのか? 2017年4月に「有人国境離島法」が施行され、29市町村71島が特定有人国境離島地域として指定されました。「国境離島に生きる」では、内閣府総合海洋政策推進事務局による「日本の国境に行こう!!」プロジェクトの一環として実施された、71島の国境離島に生きる人々へのインタビューを、ウェブマガジン『another life.』とのタイアップにて公開します。

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