「国境離島」と呼ばれる島々に暮らしている人の想いを紹介。2017年4月、「有人国境離島法」が施行され、29市町村71島が特定有人国境離島地域として指定されました。「国境離島に生きる」では、内閣府総合海洋政策推進事務局による「日本の国境に行こう!!」プロジェクトの一環として実施された、71島の国境離島に生きる人々へのインタビューを、ウェブマガジン『another life.』とのタイアップにて公開します。
自分のペースを保ちながら生きられる、島。
職人として、究極のカレーを目指して。
堀内礼一|カレーシェフ。八丈島にて、「八丈カレーヒロ」を経営する。
東京都伊豆諸島の八丈島(はちじょうじま)にて、カレー屋を営む堀内さん。東京の有名店を経営し、テレビ番組にも引っ張りだこだったところから、なぜ地元の八丈島に戻ることにしたのでしょうか。堀内さんにとって大切なものとは。お話を伺いました。
先生よりも料理人になりたい
東京都の離島、八丈島で生まれました。姉と二人兄妹です。性格はとてもやんちゃでしたね。プロレスごっこをして友達を怪我させるわ、人の家に石を投げてガラスを割るわ、人の畑でスイカを盗んで追いかけられるわ、いつも怒られてました。骨折したり怪我をすることも多くて、町の病院にお世話になりっぱなしでした。
家では牛や山羊を飼っていましたし、父と良く釣りにいっていたので、動物というか、食が身近でしたね。祖母が戦時中旅館をやっていたこともあって、小さい頃から、オオウナギなど、ちょっといい食材を食べさせてもらいました。
うちの家系は教師一家だったので、僕も将来は教師になろうと思っていました。それで、高校卒業後は教職課程のある東京の大学に進学しました。
ところが、大学に入ってからは料理に夢中になってしまったんです。きっかけは、叔父の日本料理店でアルバイトを始めたことでした。
チラシ配りの手伝いをしたとき、本マグロやフグなど、すごくおいしい日本料理を食べさせてもらって。貧乏学生だったので、これはいいと思い、叔父のお店でアルバイトをさせてもらうことにしたんです。単純に美味しいご飯が食べたかっただけですね。
最初は、チラシ配りや接客をしていたのですが、次第に調理場にも興味が湧きました。そうはいっても、有名人も来るようなお店だったので簡単にはやらせてもらえないですし、親戚だからって特別対応したら、他の若い衆が面白がりません。基本的には洗い物をずっとやって、営業が終わった後に料理を教わりました。
料理は面白かったですね。何が面白いって、日本料理の包丁さばき。包丁にもいろんな種類があって、それを駆使した技術を学ぶのが楽しかったです。大根の茎の部分に筋目を入れて、水に挿すとパッと開いたり。そういうのを一つひとつ学べるのが面白かったです。
大学2年生になる頃には、将来料理の道に進むと決めました。叔父から出された条件は、大学を卒業すること。それで、大学に通いながら料理の修行をすることにしました。
カレーの道を極めたい
大学2年生の時、叔父からカレー屋に修行に行くことを勧められました。たまたま叔父の甥っ子が有名カレー店の内装デザインを担当していて、そのお店で働いてみないかって。
料理の中で、どのジャンルに進むかは悩んでいたところでした。基本は日本食ですが、日本食という括りの中でもラーメン、イタリアン、カレーなど、色々あります。選択肢はたくさんありましたが、せっかくのご縁なのでカレーでいこうと決めました。
それから、週の4日は大学に行きつつ、残りの3日は麹町のカレー店で修行しました。大学では分析化学を専攻していたので、研究室もカレーの成分の分析をしたりしていましたね。
3年間修行し、大学卒業と同時に、叔父が経営していたカレー屋に責任者として入りました。本郷にあり、周りの大学の先生が食べに来てくれて、一緒にスパイスの研究などもやりました。
職人気質で、美味しいものを作ればお客さんは来るだろうと思っていましたね。また、健康にいいかどうかということは常に意識しました。薬膳カレーもやりましたし、コンソメなど人工的なものは極力使いません。自分が毎日食べるものでもあるので、なるべく健康にいいものにこだわりました。
朝から仕込みをして、夜遅くまで営業していたので休みはありませんでしたね。休みがあっても、他のお店のカレーを食べに行っていましたから。周りからは血がカレーでできているんじゃないかと言われるほどでした。(笑)
忙しくても、やりがいがありましたね。やっぱり、お客さんが「うまい」って言ってくれた瞬間は最高ですよ。カレーの専門店ってあまりなかったこともあって、営業も順調でした。
味を保つため1店舗にこだわる
叔父の店に入って4,5年くらいした頃から、テレビや雑誌の取材が来てくれるようになりました。『TVチャンピオン』という番組で優勝したこともあります。
少しずつ注目されてきた頃、叔父が体を壊して、日本料理屋かカレー屋、どちらかを閉じることになりました。叔父に、どっちをやりたいか聞かれました。
日本料理屋でもたまに手伝いをしていたんですよね。日本料理も好きでしたし、どちらが儲かるかっていったら、正直日本料理屋です。だけど、僕がやりたかったのはカレーだったんですよね。これまでやり続けていたことですので。
次第に、いろんな企業からカレーをプロデュースしてほしいという話も頂くようになりました。また、カレー業界全体を盛り上げるため、友人たちと「東京カレー屋名店会」というお店も作りました。
色々やりはしましたが、自分のお店を多店舗展開しようとは思いませんでした。カレーの世界では、1日200食とか出るようになると、欲が出て店舗を増やす人が多いんですけど、僕は他店舗展開はしない方がいいとアドバスされていたんです。
店舗が分かれてしまったら、目が届かなくなって、味が保てないと。お店を誰かに任せて一度味が変わってしまったら、お店が潰れる原因になります。それはやりたくありませんでした。
なので、僕の他に料理長がいましたけど、朝の仕込みと味見だけはずっと僕がやりました。ただ、仕込みが終わったあとは、外回りしたり、ホールで接客をしたりして厨房から出ました。後輩に学んでもらって、自分の味で独立してくたらそれでいいかなと思っていました。
多店舗展開とは別ですが、一度、食品企業とレトルトカレーを作ったことがあります。その時は心労が大きかったですね。
企業が商品開発をすると、1ロットで1万個くらいの量を作ります。そうすると、一定数ディスカウントストアに流通されてしまうんですよね。それまでブランドを確立してきたのに、ディスカウントストアに流れた瞬間、のれんが切り刻まれてしまうんです。
途中からデパートで売切の形にしてもったんですけど、苦しかったですね。作った商品は全部売れましたが、そこまでガツガツ儲けなくてもいいと思いましたね。
生まれ故郷でのんびり過ごしたい
レトルトカレーで心理的な負担を抱えていたのと同じ時期、生まれた子どもが先天病で亡くなったり、妻と離婚したり、八丈島の両親が亡くなったり、立て続けに色々なことが起こりました。特に、いつも八丈島から食材を送ってくれていた母の他界は、自分の中にぽっかりと穴が空いてしまったようでした。
何のために仕事をしているか分からない。はっきり言って、目標を見失ってしまったんです。そんな心理状態の中、忙しく仕事をしていたので、体を壊してしまいました。
それで、八丈島に帰ってゆっくりすることにしました。元々、いつかは地元に戻りたいと思っていましたし、もうガツガツしなくてもいいかなって思ったんです。51歳の時でした。
八丈島に戻ってからは、しばらくはのんびり過ごそうと思い、釣りばかりしていました。フラフラしていたら、知り合いから居酒屋を手伝わないかと誘われました。お酒も飲めるしちょうどいい。そう思って手伝い始めると、今度は昼の時間にカレー屋として営業してくれやいかと頼まれました。島に戻って半年ほどした時のことです。
あまりに生活が酷かったので、生活改善の意味も含めてやることにしました。八丈島に来てから、好きなように飲み食いして、昼過ぎまで寝るような生活をしていたら、人間ドックでも脂質と肝機能でまずい数値が出ていたんです。
しばらくは昼の時間に居酒屋を借りて、カレー屋を営業しました。その後、以前やっていた東京での仕事の関係で、自分のお店を持った方がいいということになり、八丈島で自分の店舗を構えることにしました。
同じ素材はないから作り方も毎回違う
現在は、「八丈カレーヒロ」という名前でカレー屋をやっています。できるだけ地元の食材を使うようにしています。手作りでスパイスを作るところから始まって、自分なりのスタイルでスープも作ります。八丈島の玉ねぎ、にんにく、生姜をベースにして、牛、林檎、バナナとか、あとは魚介系でトビウオなんかも使って煮込んでいきます。
定休日はありませんが、営業は昼のみです。毎日朝6時半に起きて、ジョギングをしたり、朝ごはんを食べたりして、8時半頃に出社します。それで、3時間かけて自分が納得する味になるように仕込みをします。昼の営業が終わってから、一度家に帰って他の仕事のやりとりをした後、7時頃にまたお店に来て火入れをして、9時頃に家に帰ります。
これくらいのペースだったら、無理なく一人でも続けていくことができますね。お店をやらなくなったら一気にボケちゃいそうですし、カレーにはずっと携わっていきたいので、習慣みたいなものですよね。
こういうスローな生活ができるのは、島ならではのことだと思います。やっぱり、都会とは時間の流れも空気も違いますよね。この環境で暮らしていると、自分の落ち着いた気分がカレーの味にも反映されていると思います。
私にとって八丈島は生まれた故郷でもありますので、家や墓を守っていかなければならないという意識もあります。島の人口は減少しているので、無縁仏も出ていると聞きます。先祖供養は非常に重要な問題なので、姉と一緒に、誰が家を守っていくかはよく話しています。
先代から続いているご近所付き合いも、絶やしてはいけませんからね。例えば、僕は知らない方でも、母がお世話になっていた方が亡くなったときなど、葬儀には参加します。周りから頂いたご恩をしっかりとお返しする。それも、一つの使命だと思っています。島で商売をしているからこそ、大事にしなきゃなと思います。
音楽の教師をしている姉がもうすぐ定年退職するので、一緒に予約制のカレー屋さんでもやろうかなんて話しています。僕がカレーを作って、姉がピアノを弾いて。優雅にフルコースでも食べてもらえたらいいかなって。
東京の人からは、充電期間は終わりにして、そろそろ戻ってきてほしいと言われますが、戻る気はありません。東京は後輩たちに任せて、僕は島で暮らそうと思っています。あと10年位お店をやったら、引退して畑でもやりながら過ごしたいですね。
引退するまで、カレーは極め続けたいと考えています。どんなに長年作り続けても、必ず味の起伏があるんですよね。プロとして合格ラインというものは存在するんですが、基準を満たした中での良し悪しがあります。できる限り、上の味を追求したいんです。
例えば、同じお肉を使っているといっても、重さや形など、一定なものってないですよね。魚も野菜も、全て微妙に違います。その違いを意識して作り方も変えないと、いいものはできないんです。
自分で納得のできる味にならない日は、お店を開けないこともあります。年に数回あるかないかですけどね。それくらいこだわっているものなのです。
究極に美味しいカレーが作れるよう、日々精進していきます。