全国の島々には、さまざまな個性と魅力をまとう老若男女が暮らしています。そこでリトケイはZ世代やα世代と呼ばれる10〜20代の3組に注目。3つの島で生きる「逢いたい若者」とはどんな人?今回は、沖縄県・与那国島の島ことば「与那国語」を映画制作や舞台、ラップで届ける東盛あいかさんです。
※この記事は『季刊ritokei』47号(2024年11月発行号)掲載記事です。フリーペーパー版は全国の設置ポイントにてご覧いただけます。
与那国語をラップにのせて世界に届ける映画監督
インスタグラムをのぞくと、 エメラルドブルーの海を背に東盛あいかさんは歌う。
「くぬ国(この国)の端て大和がら見ていてぃんいりや(1番西)どぅなんちま (与那国島)んさわたな?くいかきや(元気だった?声かければ)巡れば届くは島くとうば(島ことば) Do!」。
与那国語を交えたラップを歌うドゥナンラッパー、俳優、映画監督として活動する若きクリエイターだ。
東盛あいかさん。漂着物があふれる与那国島の海岸にて
与那国島は母の出身地。自身は石垣島で生まれ、沖縄本島で幼少期を過ごしたのち、小学2年生の頃、父の単身赴任をきっかけに母や兄姉と共に与那国島で暮らし始めた。
週2便しか船が入らない与那国島は、食べ物も着るものも限られる。いつの間にか食べ物の好き嫌いもなくなった。同居していたアサ(祖父)はヒャグス(農家)を引退し、民具をつくり、子どもや孫にプレゼントしていた。
「最初は何をしゃべっているかもわからなくて。アサやアブ(祖母)が与那国語で話し、母が日本語で返すのを聞いていました」。
民具を編む東盛さんのアサ
そんなアサは、ケンカしたり、お菓子の取り合いをするうちに父親のような存在になった。ただ、言語までは習得できなかった。ユネスコの消滅危機言語にも指定される与那国語は、なんとなく意味を受け取れる「方言」に対し、全く理解できない「言語」。耳が慣れても話者にはなれないまま、中学卒業と共に島を離れた。
与那国島には高校がないため石垣島の高校に進学。「足が早かったのでスポーツ推薦をもらいました。でも、学校も陸上もうまく行かなくなって不登校になり、映画を観るようになったんです」。
そのうち映画の世界に引き込まれ、父のいる愛知県の通信制高校に編入。 1年遅れで映画制作と俳優の勉強ができる旧京都造形芸術大学に進学した。
島を知ることは自分を知ること
大学で自分自身の表現を探すうちに、自然と与那国をふりかえるようになった。「歴史とか、 歌とか、島を知ることが自分を知ることにつながると思ったんです」。そこで島に帰り、フィールドワークを始めると島に変化を感じた。「言葉が消滅しかけている現状とかに、はじめて危機感を覚えたんです」。
親しみのある文化が変わっていく焦燥感。卒業制作として与那国で映画を撮ることにした東盛さんは、2020年の春に映画制作のために与那国へ。 すると世界がコロナ禍に包まれ、来島予定だった仲間も来れず、数ヶ月間、アサとふたりきりの暮らしが始まった。
企画も脚本もやり直し。持っていた一眼レフのカメラで、 集落や洞窟、山を歩き、与那国馬やヨナグニサン、魚を捌く漁師やエイサーを踊る中学生たちなど、 生命力に満ちた島の人々の姿を撮りながら、京都で撮影した映像を掛け合わせて映画を完成させた。
与那国島で『ばちらぬん』撮影中の東盛さん
『ばちらぬん』は主人公の少女が現実と幻想を行き交いながら、自分と島、自分と「誰か」とのつながりを問いかけるように、島中を走り抜ける物語。制服のままエメラルドブルーの海に飛び込む主人公も、企画・脚本・編集・演出・監督のすべても東盛さんが担当した。
完成した『ばちらぬん』は思いがけず大きな評価を受ける。2021年の「ぴあフィルムフェスティバル」でグランプリを受賞したのだ。映画館での上映が次々と決まる中、どこよりも早く与那国島での凱旋上映を行うと「あいかが賞をもらって帰ってきた」と喜ばれた。
『ばちらぬん』には、かつて女性たちの手を飾った入れ墨「ハジチ」も登場
『ばちらぬん』は与那国語で「忘れない」を意味する。忘れたくないものを集めた映画は東盛さんにとって「個人的なこと」でもあるため「理解してもらえないかもしれない」とも感じていた。けれど映画を観た人から届く感想には「与那国の映画だけど自分のふるさとを思い出した」というものが多かった。「ばちらぬんは自分の心臓。普遍性を持って、皆に届いたと感じました」。
社会的な評価を得たことで「クリエイティブをしていいんだ」と自信をつけながら「自身のクリエイティブの根源にある島を学び続け、吸収し続けることが大事」 と考えた東盛さん。「沖縄でうちなーぐち(沖縄方言)をラップにするラッパーの姿をみて、与那国語でラップをつくってSNSにあげてみたら、国内外から反応があってびっくりしました」。
与那国語を交えたそのラップは1カ月間で100万回以上再生。 これをきっかけに、2024年6月には沖縄のアーティストとのタイアップで『夜の祭〜ユルヌウマチー〜』という曲もリリースした。
届けたい島への想いと「ばんたぬにがい」
美しさと、凛々しさと、たくましさと、どこか捉えどころのない東盛さんの表情は、与那国島で生きる人々の普遍的な魅力とも重なる。海底に深く突き刺さる碇のように、変わらない島への想いを軸に、今その活動は多岐に広がっている。
今年9月には、沖永良部島や名護、読谷、宮古島、池間島、八重山、与那国からしまくとぅば (島の方言)を話すニュースピーカー世代を集めた 「しまくとぅばシンポジウム」に登壇。「なんでしまくとぅばを話すのか?」と問うと、言葉は違うけれど皆が抱えているものは同じだった。
「自分が与那国に対して思っていることは、世界各地で起こっていることにも通じている。ふるさとの言葉がなくなってしまうことも、ここだけの話じゃないんだと気づきました」。
『ばちらぬん』の劇中で先祖たちが苦労しながら命をつないできたことを聞く場面
「島の生き字引のようだった」というアサは今年、93歳で天国へと旅立った。島の伝統を子や孫に強要することは決してなかったが、東盛さんが「教えて」と言えばいつもうれしそうに教えてくれたという。
来るもの拒まず、島内外の誰にでも島の文化や知恵や技を教えてきたアサ。「アサから教わった人たちが、今、私に島のいろんなことを教えてくれています。アサが大事にしてきたものを私も大事にしたいという思いから創作を続けています」。
ラップにはこんな歌詞もある。「いちまでぃん ぬぐしたい(いつまでも残したい) バリヌシ(飲みの場)で飛び交う ちまへのうむいやうんながよりデカい(島への想いは海よりでかい)」。その想いから生まれる次のクリエイティブが楽しみでならない。