「国境離島」と呼ばれる島々に暮らしている人の想いを紹介。2017年4月、「有人国境離島法」が施行され、29市町村71島が特定有人国境離島地域として指定されました。「国境離島に生きる」では、内閣府総合海洋政策推進事務局による「日本の国境に行こう!!」プロジェクトの一環として実施された、71島の国境離島に生きる人々へのインタビューを、ウェブマガジン『another life.』とのタイアップにて公開します。
必要なのは時代を生き抜く力。
常識に囚われず、農業の新しい土台をつくる。
橋本武士|ミニトマト農園オーナー。小値賀島にてミニトマト農園「りんたろうふぁ~む」を運営する。
長崎県五島列島(ごとうれっとう)の小値賀島(おぢかじま)に移住し、ミニトマト農園を営む橋本さん。これまでの農業の基盤の上では生き抜けない。そう感じた橋本さんは自ら新しい農業の基盤づくりに挑みました。橋本さんが目指す農業、そして島への思いとは。お話を伺いました。
大島の親族とのつながりを感じていた
大阪で生まれました。長男です。両親は二人とも長崎県小値賀町の大島出身で、子どもの頃は夏休みを大島で過ごしました。毎年6月頃になると、「皆に会える、早く大島に帰りたい」といつもそわそわしちゃって。一人で電車と船を乗り継いで、大島に行っていました。
親父の親族は皆出稼ぎのため島から出ていましたが、夏休みは親族の子どもたちが帰ってきて一緒に過ごすんです。牛小屋の屋根裏を基地にしたり、花火をしたり、子どもだけの自由が本当にたまらなかったですね。
うちは、昔の家父長的な家族でした。工務店を経営していた親父は、本当に怖かったですね。お風呂は親父が一番最初、ご飯も親父が帰ってくるまでは誰も食べられませんでした。
子どもの頃、僕が他の子どもたちと喧嘩をして、警察に連れていかれたことがありました。少林寺憲法を習っていて、喧嘩はするなという教えを破ったことになるんですが、この時の親父はすごかった。警察に迎えにくるやいなや、鬼のような剣幕で、僕を思い切り突き飛ばしたんです。
僕の体は吹っ飛び、口の中も血だらけ。思わず警察が止めに入るくらいで、「お前何しに道場いっとんじゃー!」と怒鳴り出して。本当に死ぬんじゃないかと思いましたね。
親父は島から大阪に出て苦労してきた人なので、自分にも人にも厳しかったんだと思います。親父は18歳で島を出て、他の兄弟たちはそれを追いかけてくる形で、大阪で一緒に住み始めました。子どもの頃から、親族が「今月は実家にいくら送る」とか仕送りの話をしていたのを聞いていました。家族が大島の実家に仕送りをするのが、当たり前の環境で育ったんです。
そういう背景があるから、僕は高校を卒業しても大学にはいかないだろうと思っていました。周りの友達は大半が大学進学を考えていたんですが、僕はお金払ってまで大学で学ぶ価値はないと自分に言い聞かせていました。本当は大学に行って、将来母校と呼んでみたいと思ってたんですが、親や周囲には悟られないようにしていました。
手に職をつけようと思い、高校卒業後はプログラミングや情報処理のスキルが身につく専門学校に入学。アルバイトをしながら学費を払って、勉強しました。
でも、値段相応というか、授業の質は低く、誰も真剣に学んでいませんでした。僕もやる気が出ないまま資格も取れず、情報処理技術者の道は諦めました。
軍隊のように働いた営業職時代
専門学校を出て、大阪の商社で印刷機営業の職に就きました。営業なら、手に職のない裸の状態でも、努力したらやっていけるだろうと思ったんです。
毎朝トラックに印刷機を2台積んで、飛び込み営業をしました。売り切らないと家には帰れませんでした。必死に売り込んで、それでも売れ残ってしまった時は、深夜にお寺の住職を一軒一軒回って、玄関を開けてくれるまで何時間も土下座して営業しました。毎日朝7時から深夜まで、根性だけが必要とされる環境で、軍隊のようにひたすら働きました。
1ヶ月後に初めて給料をもらって、両親に持っていきました。親父は静かにビールを飲みながら、給料の封筒を見て一言。「ようやったな」と。生まれて初めて父から褒められて、ああこれが親孝行なのかと思いましたね。
その後、営業成績は徐々に上がっていきました。でも、仕事はめちゃくちゃきつくて、同期はほとんどやめていきましたね。
2年目の夏のある日、母が僕を見て「どうしても無理ならやめていいんやで」って言ってきたんです。最初は何を言ってるのか分かりませんでしたね。でも、鏡を見たらげっそり痩せてて、ひどい顔をしてたんですよ。それ見た時に、潮時なのかもしれないと思いましたね。
親父に会社をやめると告げるのは、かなりの緊張でした。親父は一度始めたことをやめるのが許せない人でしたから、何言われるか考えるだけで怖かったんです。
でも返ってきたのは、「あ、そう」という反応でした。拍子抜けしていると、「これからお前が自分のケツは全部拭くんや、今までの俺の仕事は終わったんやで」と言われたんです。
これが1番怖いことでした。今までみたいに、間違えてたら、怒ってくれるほうが分かりやすかった。でも、これからは全ての責任を追って自分で判断しないといけない。覚悟を決めました。
その後、建設会社に転職し、マンションを販売しました。社会に出た最初の2年間がハードだったこともあり、仕事は天国のように感じました。だからこそ、絶対に一番にならないといけないとプレッシャーでしたね。必死に働き、成績はずっとトップでした。
しかし、バブル崩壊の影響で、ある日突然会社がなくなったんですよ。それで、建設会社のマンション事業部のメンバーに引き抜かれる形で転職しました。
ずっと営業をしていたので、感覚は磨かれていきましたね。パッと見た時に、お客さんの大体の所得と家族構成、マンションを買うのか買わないのかも、瞬時に分かるようになりました。
ただ、営業成績が上がるほど、怖さも増していました。いつこの状態から落ちてしまうのか、ずっと恐怖を抱えていたんです。
家族の故郷と叔父の思い
25歳の時に結婚しました。結婚する前には、彼女を連れて大島の祖父母の家まできました。うちは親族のつながりが強いので、結婚するなら彼女は「長男の嫁」としての役割を求められます。その雰囲気をちゃんと知ってほしいと思ったんです。
彼女は嫌がるだろうなと思いながら、大島に連れていきました。すると、彼女が島で取れる魚をめちゃくちゃ気に入って食べて、今度はそれを見た親戚の叔父貴や島の人たちがめちゃくちゃ可愛がり出しました。結局、何の隔たりや心配もなく、結婚できたんです。
仕事では、年齢が上がっていくにつれて、だんだん営業の現場には出なくなりました。でも、僕は会社から指示を出すよりも、現場でお客さん相手に営業したかったんです。お客さんと話すことが身に染み付いていましたから。また、営業って感覚的な部分が大きいので、教育するのは難しいんです。
それで、36歳の時、自分で営業会社をやることにしたんです。看板は親父の工務店を引き継いで、住宅販売や工事の営業代行をしました。飛び込み営業をしたり、チラシを制作して配ったり、とにかく自分の足で営業して回りました。運が良かったのか、お客さんにサービスを気に入られて、仕事も増えていきました。
仕事を頑張り、いつかは大島で暮らそうと考えていました。近所で働く叔父が、いつも「60歳になったら、大島で牛を飼って暮らすんや」と言っていて、僕も人生の最後は大島で暮らそうと思っていたんです。僕は大阪生まれ大阪育ちですけど、いつか故郷の大島に帰るという感覚でした。
ところが、叔父は60歳になる目前、58歳でガンで亡くなったんです。それがあって、すぐに移住しようと決心しました。自分もいつどうなるか分からないし、歳をとって体力がなくなってからでは何もできません。なんとなく、家族と大島に導かれている気がしました。
妻には反対されるだろうと思って、早めに相談しました。すると、妻の方が乗り気になって、移住するって気持ちも僕を追い越して行って、面食らいましたね。そこから移住に向けての調査や準備を進めました。
家族の故郷と叔父の思い
42歳の時に、大島の本島にあたる小値賀島に移住しました。大島は小さ過ぎて仕事を作るのはちょっと厳しいと感じたんです。小値賀島なら、政府の新規就農支援制度を利用して、給付金をもらいながら農業を始められます。島に移住して、農業を始めました。
グループで研修を受けながら、トマトなどを栽培しました。研修が終わると、ほとんどの人は自分のハウスを持って農業を始めます。でも、僕はこのままでは生活できないと思いました。暮らしていけるほどの稼ぎにはならないんです。
そもそも、なぜ島の外から農家を募集するのか考えたんです。それは、若い跡継ぎが減っているから。その背景には、普通に農業をやっても食べていけないからでした。いくら新しい人に来てもらっても、それまでの農業と同じやり方をしていたら、同じ結果になるのは当たり前です。
それで、直送販売のネットワークづくりに挑戦しました。それまでのように農協に出荷しているだけでは食べていけない。だったら、自分で販路を拡大して、単価をコントロールできるようにしようと考えたんです。
持ち前の営業力を駆使して、小値賀で育てたトマトを、大阪で売り込みました。お客さんたちは「何これ美味しい!どこの?」と気に入ってくれて、口コミで評判が広がっていきました。そこから徐々に直販の仕組みを作りました。
小値賀島は土壌が良くて、美味しい作物が育ちます。有機肥料にこだわり、土の微生物を増やすことでさらに美味しいトマトづくりを目指しました。次第に、農協で販売していた時より高く買ってもらえるようになりました。島の中でも、僕を応援して野菜を買ってくれる人が増えたんです。
直販が軌道に乗り始めると、僕のことをよく思っていない農家さんも出てきました。梱包機や選果機のコンセントを抜かれたり、隠されたりしたこともありましたね。
ある日、地域の飲みの席で、「おかしいと思っても、それを言ったら変人扱いされるよ」と言われたことがあって。それなら、僕は変人で全く構わないと思ったんです。これは自分にとって、良い結果に向かう上での通過点なんだと、さらに燃えていきました。
小値賀島も大島も、自分の家族のルーツとなる場所です。だから余計に、島のために何かやらないきゃいけないと思いました。小値賀の美味しい野菜を食べて、島の魅力を知ってもらう。それで、島に来て欲しいと思いました。
若者の「時代を生き抜く力」を育てたい
今は、小値賀島でミニトマトを生産・販売しています。小さな島の小さな農園で、有機肥料にこだわった「微生物農法」に取り組んでいます。化学肥料を使うより、美味しいんですよね。そのメカニズムは僕には分かりませんが、美味しいなら有機肥料にこだわってやろうと思うんです。
今後は、この農園を島の若者たちの就職先にしたいと考えています。島の子どもたちは、高校を卒業するとほぼ自動的に島を出ますが、島の中で生きる選択肢があってもいいと思うんです。
ただ、ずっと島内にいると、島外の人とうまくコミュニケーションを取れなかったり、「外で通用するのかな?」という不安を持ち続けたりしてしまう可能性があります。だったら、自ら島のものを外に売りにいけばいいと思うんです。
3ヶ月に1回位はスーツを来て、自分で作った野菜を都会に売りに行けばいい。お客さんの「おいしい」に対して、「私が作ったんです」と答える喜びを感じてほしい。そうすれば、小値賀の良さにも気づけますし、自信に繋がると思うんです。
それで、いつかその稼ぎで自分の家族を養ってほしい。そういう、生きる強さが育っていくといいですね。
島は少しずつ移住者が増えてきました。これからはいい意味でのよそ者・若者・ばか者が増えたらいいですね。存在感があって、刺激しあえる仲間と、思いっきり何かに取り組んでくれると、島もさらに元気になると思います。
小値賀島の魅力は、人のパワーだと思います。特におじいちゃんおばあちゃんのエネルギーがすごいんです。若い頃から今ままで何十年間も畑に出て働いて、その働きっぷりを本当に尊敬しています。現代に生きる僕は、ああはなれないだろうと思います。
じゃあ、僕には何ができるんだろう。稼ぐとか、いい服を着るとか、そういうものじゃない暮らしの何かをここで体現させないといけない。吐きそうになるくらい真剣に考えるんです。僕は何歳で死ぬのかわかりませんが、やらないといけないことだらけです。時に無力さを痛感しながら、これからもたくさんの課題と向き合っていきます。