「国境離島」と呼ばれる島々に暮らしている人の想いを紹介。2017年4月、「有人国境離島法」が施行され、29市町村71島が特定有人国境離島地域として指定されました。「国境離島に生きる」では、内閣府総合海洋政策推進事務局による「日本の国境に行こう!!」プロジェクトの一環として実施された、71島の国境離島に生きる人々へのインタビューを、ウェブマガジン『another life.』とのタイアップにて公開します。
失敗は、成功への不要な選択肢を減らす手段。
唯一無二の味を守るべく、漁師の新たなる挑戦。
中邑清敬|日本一の伊勢海老漁師。漁師兼平島ブランド創出協議会会長。現在、漁から加工・販売まで一貫で行う事業の立ち上げ中。漁業者の育成、沿岸漁業従事者を増やすことに取り組む。
伊勢海老日本一の離島・平島(ひらしま)で漁師歴40年の中邑さん。工夫を凝らした新しい試みを続け、66歳にして新規事業に挑みます。その想いを伺いました。
工夫を凝らしたものづくりが好き
長崎県にある平島で、漁師の家に生まれました。親父の体が弱かったので、小さい頃から漁の手伝いをしていました。木船の手入れなど色々やりました。大人がやるようなこともやって、手伝いの域を超えてましたね。親父は船に不具合があると、私を叱るんです。こうやって、大きくなったら漁師を継がされるんだろうなと思っていました。
中学では、活発で不真面目な学生でした。授業中は先生の方を向かず、お喋りばかり。迷惑をかけていました。それでも、周囲から高校に行けと言われて進学を決断。文系より理数系が良かったので、佐世保工業高校の機械科に進みました。
手先が器用で、ものづくりが得意でした。中学の時、人が乗れる小さな船を作り、その船で学校に通ったこともありましたし、高校では4時間かけてハサミを作る授業で、私は8個作りました。熱して作る鍛冶は、スピードが大事なんです。そうやって工夫を凝らしてものを作っていました。
その頃には漁師への思いはなく、かといってなりたいものがあるわけではなかった。ただ、高校卒業後は島を出て就職しようと考えていました。東海道線沿線の企業をいくつか受け、全て合格。採用通知が最初に届いた、東京のミシンメーカーに就職することにしました。
仕事=額に汗をかくこと
ミシンメーカーでは工場勤務の予定でした。高卒の男性新入社員は約60人。工場に行くとみんなは作業服や安全靴を渡されたんですが、私を含めた3人だけは安全靴がもらえませんでした。
適性テストの結果、工場ではなく電算企画室への配属になったんです。半年間、大手コンピューター会社の教育センターに通って、主にソフトウェアの勉強をしました。
研修が終わると、コンピュータープログラムの作成に従事し、工場の在庫管理ソフトを開発しました。半年後、工場のコンピューター化が完了し、開発チームは解散。私は本社の電算室勤務になりました。
そこでは、コンピューターの操作をしながらプログラミングもしましたね。2年目にチーフになりました。同じ頃、電算室が情報処理センターとして独立。国内で最先端の情報処理センターでしたね。顧客管理システムや売上管理システム、統計システムなどのソリューション開発やOS開発を手掛けました。
4年ほど働いた頃、仕事に飽きてきたのを感じました。室内でソフトウエアの開発をしていても仕事をしている感覚がないんですよ。農業や漁業、土木工事で働いている人を見て育ったので、仕事は体を動かして額に汗をかくことだと思ってましたから。
それに、ゆくゆくは僕のような技術者はいらなくなるだろうとの予測がありました。コンピューターは企業にしかありませんでしたが、誰でも使えることを意識してプログラミングをするわけだし、コンピューターの精度が上がって小型化していたので、オペレーションする技術者は不要になり、一般家庭にも浸透していくんじゃないかなって。
あとは子どもと自分の健康面への心配もあって。特に満員電車が性に合わなかったんです。電車の中で倒れることもしばしば。色々考えて、会社に辞意を伝えました。
失敗も成功のうち
25歳で平島に戻りました。戻ってすぐ、漁師として父や弟と一緒に漁に出ました。久しぶりの漁だったので、最初は船酔いをしました。
漁のやり方に対して親兄弟とぶつかることがありました。違う分野にいたから分かる漁の改善策を提案しても、彼らには彼らのやり方があって、よく喧嘩になりました。なので、作業員に徹することにしました。
漁自体は順風満帆でした。島全体の伊勢海老の漁獲量は1日約200キロ。伊勢海老以外にも色々な魚が獲れるんですよ。一般的にイメージする大ぶりの伊勢海老は平島産です。日本一の称号を得たこともあって、大手百貨店にお歳暮品として卸していました。
10年ぐらい経った頃、弟が亡くなりました。弟がいなくなって海に一人で出るようになり、今までは二人でやってきた舵取りや網の投げ込みを自分一人でやらなければいけませんでした。そこで、自動操舵やリモコンを導入して、一人でも漁ができるようにしました。
さらに伊勢海老漁を効率良くやっていくために、潮流計で潮の流れに関する正確なデータを収集したり、網を潮の流れと反対方向に入れて命中率をあげたり、網のローラーを反対に回して引く力を半減させたりと、今までとは180度違う方法を試しました。
ポンポン思いついたことを試験的にやってみて、獲れたら嬉しいし、うまくいかなくても楽しかったですね。失敗は失敗じゃないんです。消去法で、同じことを二度とやらなければいいだけ。むしろ、選択肢が減るから迷わないですむんです。
しかし、全国的に伊勢海老の価格が下がっていきました。漁協が中心となって新たな販売先を見つけなければなりませんでしたが、そうそううまくはいきませんでした。
平島では漁業再生を目指した離島漁業再生事業がスタートし、放流事業を行って漁獲量を増やそうとしましたが、追跡のない放流で、この地域で魚が増えたか分かりません。
そんな中、漁師の高齢化が進んだ未来を考えた時、漁業従事者の実収入を上げるには、水揚げ量を増やせないのであれば単価をあげるしか方法はなく、付加価値をつけて販売することを決意しました。6次産業化ですね。
子どもと猫でもわかる味を守るために
現在は、漁から加工、販売まで全てを行う会社を設立するため、日々動いています。私にあるのはただの思い上がった使命感です。せっかくいいものがあるのにもったいない、素晴らしい漁師がいなくなるのがもったいない。
平島の伊勢海老と魚は日本一です。唯一無二の味だと胸を張って言えます。地形学を調べればわかりますし、お客さんで平島の海老だと思って食べたら別の場所のもので、違いがすぐにわかったと言った方もいます。
僕はよく「子どもと猫に食わせてみろ。」と言っています。子どもと猫はよう知ってますよ。この味を、価値を、しっかりわかってくれる人に提供したいですね。
漁業後継者減少の最大の理由は収入が少ないこと。できれば釣りだけで暮らしていけるような状態になることが理想です。伊勢海老の漁獲量は減ってはいませんし、若干減少する冬はヒラメがあります。伊勢海老の禁漁期間には、イサキとヤリイカ、アワビ漁があります。そして、個人的に真鯛に新たな可能性を感じています。
平島のブランドを打ち出してこれからどんどん仕掛けていきます。最近は、都内の大手ホテルを回って販路獲得に動き出し、加工に関して衛生管理を担ってくれる工場が見つかって、いい走り出しです。
今は一緒に働いてくれるスタッフを集めている最中です。漁業を体験してもらいながら加工や販路拡大に従事してほしいですね。この地域の魚を救いたい、熱い想いでまっすぐな人と一緒に仕事をしたいと思っています。