つくろう、島の未来

2020年10月22日 木曜日

麦焼酎発祥の地といわれる壱岐島(いきのしま|長崎県)は、「壱岐焼酎」の名でWTO(世界貿易機関)の地理的表示にも認められる麦焼酎の島である。そんな壱岐島にある焼酎蔵のひとつが、2018年に日本酒醸造を復活させた。

※この記事は『ritokei』30号(2019年11月発行号)掲載記事です。

壱岐島

重家酒造で杜氏を務める横山雄三さん

重家(おもや)酒造は、焼酎と日本酒の蔵として1924年に創業。現在は4代目にあたる代表取締役 兼 焼酎杜氏の横山雄三さんと専務取締役兼日本酒杜氏の横山太三さん兄弟が、焼酎と日本酒を製造している。

太三さん曰く、麦焼酎の島として名をはせる壱岐島には、約120年前まで日本酒を造る蔵が17もあったという。そこに、販売力のある大手が参入したことで、地酒は低迷。貯蔵設備も今ほど整っていなかったため、品質の劣化問題も重なり、太三さんが高校生だった1990年には重家酒造でも日本酒造りが途絶えてしまった。

自分の代で日本酒造りを断念したことに落胆した三代目の父(現会長・横山省三さん)の苦悩を見ていた太三さんは、いつしか日本酒造りを復活させることを考えるようになった。

幸い、焼酎では平成元年から2年連続で福岡国税局管内局長杯を受賞し、北部九州で一番の評価を受けるだけの製造技術を持っていた。「残るは売り方の問題」。そう考えた太三さんは大学卒業後、島外の住宅機器メーカーで営業経験を積み1999年にUターン。「ちんぐ」という名の麦焼酎ブランドを立ち上げ、全国はもちろん、上海など海外展開にもこぎつけた。

麦焼酎の売り上げを伸ばすなか、日本酒造りの復活を胸に抱き続けていた太三さんは、2013年から縁のあった本土の酒蔵で日本酒造りの修行をスタート。同年、特別純米酒「確蔵 Our Sprit(僕らの想い)」を製造し、2,013本販売した。

その後、太三さんは日本酒造りの技術を高めながら、「ちんぐ」で築いた販売網も活かして資金を稼ぐ一方で、壱岐島内では日本酒造りに必要な良い水が出る場所を探し、5年がかりでそれぞれの目途をつける。そして、2018年5月に日本酒蔵が完成。「よこやまGOLD」と「よこやまSILVER」の製造にこぎつけることができた。

壱岐島

重家酒造が復活させた日本酒蔵の麹室

「全国でいろいろなお酒を飲むなか、発泡感があるフレッシュなお酒を造りたいと思い、設備を整えた。壱岐では一旦、日本酒の文化が途絶えてしまったが、その分、若い人は壱岐の日本酒を知らないので、若い人にも入りやすい新しいお酒で、新しい市場を作っていきたい」(太三さん)。

代替わりして5年が経ち、重屋酒造はあと5年で100周年を迎える。「その頃には、安定した数の日本酒を出荷できるようにしたいですね。レストランを開き、日本酒と壱岐の食材をペアリングして、壱岐島としてブランディングするステップに入りたい」と語る太三さん。

麦焼酎と日本酒という、異なるジャンルのお酒を共に作り、販売することについて、「お酒のイベントをする時に、日本酒と焼酎があると両方楽しんでもらい、それぞれの良さをわかってもらうことができます。海外に向けた営業では、いずれ焼酎のブームがくると思っていますが、今のところ海外には食中酒として焼酎を飲む習慣がないので、先に日本酒で取引先を開拓し、足場を固めておきたい」と。

G20大阪サミットの晩餐会で提供されるほどの実力を持つ「ちんぐ」の販路を活かし、日本酒の販売につなげたのに対して、海外に向けては日本酒をきっかけに販路を開拓し、焼酎の営業につなげる展望を描く同社。兄弟で受け継いだ蔵で新たに拓かれた、焼酎と日本酒の歴史に期待がかかる。

特集記事 目次

特集|島にみる再生復活という希望
台風、噴火、地震、津波、人口減少、人口流出、産業衰退に学校の統廃合etc……。自然の猛威や社会変化により、昨日まであったものが無くなることもあれば、じわじわと姿を消すこともあります。自然災害の多い日本列島では毎年のように台風や豪雨、地震などの被害が起き、地域を支える人口減少にも歯止めはかかりません。 島から無くなろうとしているもの、あるいは無くなってしまったものの中には、人々の生活やつながり、心を支えていたものも含まれます。失ったものが大事であるほど、心に大きな穴があき、寂しさや悲しさ、無力さがその穴を広げてしまいます。 とはいえ、絶望もあれば、希望もある。有人離島専門フリーペーパー『季刊リトケイ』30号と連動する「島にみる再生復活という希望」特集で、島々で実際に起きている希望に目を向けてみませんか?

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