つくろう、島の未来

2020年08月06日 木曜日

日本列島には地球上にある活火山の7%があり、世界中で起きる地震の20%が起き、毎年平均11.5回の台風に見舞われる島国である。数々の自然災害から再生復活を遂げた地域がある中、伊豆諸島の青ヶ島は1785年の大噴火から50年を経て島へ帰還。「還住」への熱い想いが200年にわたり受け継がれている。その意味を紐解いてみたい。(写真・文 石原みどり)

※この記事は『ritokei』30号(2019年11月発行号)掲載記事です。

青ヶ島・島影

「還住(かんじゅう)」は青ヶ島にまつわる事柄につけ、よく耳にする言葉である。八丈島から南に70キロメートル、絶海に浮かぶ人口約170人の青ヶ島は、二重式火山の特徴的な景観が見る者を惹きつける。青ヶ島で育ち、島で暮らす荒井智史さんも、還住の二文字に特別な想いを抱いてきた一人だ。「身体が島に帰ってくるだけではない、魂が息づく場所に還り住むとの意味が込められた言葉だと感じます」。

島の最高峰・大凸部からの眺め

時は1785年に遡る。記録上では1500年代より人が暮らしていた青ヶ島では、1780年より幾度となく地震と噴火が繰り返された。人々は家を失い、畑の作物も灰に埋もれるなか、懸命に命をつないでいたが、天明5(1785)年の大噴火により植物が全滅。全島民が八丈島に避難し、青ヶ島は無人島となった。

青ヶ島から約200人の人々が避難した八丈島では当時飢饉が続いており、避難民たちは肩身の狭い立場だったが、八丈の島人の中には蓄えた私財を避難民の救助基金として差し出す者もあった。八丈島の大賀郷大里地区に残る墓地の一角には青ヶ島墓地があり、避難生活の中で再び故郷の土を踏むことなく亡くなった青ヶ島の人々が、ひっそりと眠っている。

地熱で温められ地底から噴き上げる蒸気は塩づくりやサウナなどに利用されている

1787年以降、青ヶ島の人々は命がけの渡航を繰り返し島の状況を見聞。黒潮が渦巻く海域を越えて断崖絶壁の島へ向かった舟は次々と転覆や漂流、溺死者や病死者も後を絶たず、数人が青ヶ島に渡り復興を試みるも1802年からは再び無人島になった。

無人化して15年を経た1817年、青ヶ島復興の願い書が取り上げられたことで島への帰還が始まり、全ての島民がふるさとへと戻った翌年の1835年に検地竿入れが行われ、正式に復興となった。

人の営みが復活した青ヶ島ではその後、発展が進む。1874年に青ヶ島小学校が開校し、1881年には島の人口が754人を記録し最多となる。1897年頃から八丈島や本土、小笠原諸島などへ人口流出が進み、人口は400人台を推移。1940年に青ヶ島村として独立し、1963年には当時の奥山治村長が「青ヶ島開発白書」を策定。インフラ開発に弾みをつけ、電気、自動車、水道、ガス、トンネル、ヘリポートなど現在につながる基本インフラが整備され、島の生活は劇的な変化を遂げた。

教育を目的に青ヶ島小中学校近くに設置された島唯一の信号機

ヘリポートは青ヶ島の空の玄関口

海の玄関口・青ヶ島港(三宝港)。物資の殆どは船で運ばれる

山の斜面を利用した天水の集水濾過施設

2019年現在、青ヶ島には約170人が暮らし、「青酎」の名で知られる特産品の焼酎造りや、地熱を活用した製塩、切り花などの産業を中心に、近年は観光面でも注目を集めている。そんな青ヶ島の暮らしの営みを今日まで受け継いでこられたのは、約200年前に50年という長い年月をかけても島に帰還することを諦めなかった先人たちの熱意と行動力を人々が血肉とし、励んできたからに他ならない。青ヶ島に記憶されるこれらの歴史を、民俗学者の柳田國男は1933年に『青ヶ島還住記』として記し、「還住」の言葉が定着した。

繁殖和牛が放牧される村営牧場

自然麹を使った焼酎造り

1978年、青ヶ島に「還住太鼓」という太鼓グループが発足した。きっかけとなった当時の山田常道村長や島の住民らは、この太鼓に「天明の大噴火と半世紀にわたる避難生活を経て島の復興を果たした先人たちに感謝し、次の世代へのバトンを繋ぎたい」という想いを込めたのだという。

現在、還住太鼓の代表を務める荒井智史さんは、還住への想いを引き継ぐ者として「火山の島で暮らしている僕たちは、再び大噴火がおこって全てを失うことをどこかで覚悟している。そうなったとしても、いつかきっと島に戻ってこられるように還住太鼓を叩き続けています」と語った。


青ヶ島還住年表(参考資料:『青ヶ島島史』)

1780年 昼夜地震が続き、池の沢の植物が枯れる
1781年 地震と噴火が発生
1783年 大地震直後、1度目の大爆発。61棟消失、池の沢で死者約10名
     植物はほぼ全滅、牛40〜50頭転落死
     2度目の大爆発。人家63軒全て焼失し、火口に100メートルの砂山が2つできる(丸山の原型)
1785年 最大の爆発。暗黒が8日間続き、植物全滅。島民約200名脱出
1787年
|    名主・三九郎ら青ヶ島渡航を15回試みるも、漂流・転覆・病死など多数
1802年
|    15年間無人島に
1817年 青ヶ島復興の願い書取り上げられ、20名の先発隊が青ヶ島に上陸
1835年 青ヶ島の島民全員が還住を果たす

特集記事 目次

特集|島にみる再生復活という希望
台風、噴火、地震、津波、人口減少、人口流出、産業衰退に学校の統廃合etc……。自然の猛威や社会変化により、昨日まであったものが無くなることもあれば、じわじわと姿を消すこともあります。自然災害の多い日本列島では毎年のように台風や豪雨、地震などの被害が起き、地域を支える人口減少にも歯止めはかかりません。 島から無くなろうとしているもの、あるいは無くなってしまったものの中には、人々の生活やつながり、心を支えていたものも含まれます。失ったものが大事であるほど、心に大きな穴があき、寂しさや悲しさ、無力さがその穴を広げてしまいます。 とはいえ、絶望もあれば、希望もある。有人離島専門フリーペーパー『季刊リトケイ』30号と連動する「島にみる再生復活という希望」特集で、島々で実際に起きている希望に目を向けてみませんか?

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