400島あれば400通りの個性がある島と文化。島で暮らす文化人が、リトケイ読者に紹介したい島文化とは?今回は徳之島に移り住んで19年。役場職員として、老若男女にひらかれた学びの場 「いせん寺子屋」などを手掛ける松岡由紀さんです。
※この記事は『季刊ritokei』46号(2024年8月発行号)掲載記事です。フリーペーパー版は全国の設置ポイントにてご覧いただけます。
奄美群島の代表的景観を織りなすサトウキビ畑。真っ白く分厚い雲と青い海をバックに、勢いよく伸びて風にそよぐ景色は「島の夏」そのもの。そのサトウキビの搾り汁からつくられる黒糖は、南の島を代表する特産品で黒糖焼酎の原料でもあり、お茶の時間や飲みの席では欠かせない品である。
冬場の収穫期に、手作業で甘い香りを周囲に漂わせながらつくられる伝統的黒糖づくりも、歴史を辿るとそれまで持っていた印象とは異なる物語が見えてくるかもしれない。
薩摩藩が琉球王国に攻め入り、島が順々に支配下に置かれて藩政体制となったのが1609年。日本が鎖国体制を敷いていた江戸時代、対外的な交易は長崎の出島のみだったが、実際には松前藩が支配したアイヌ民族との北方交易と、薩摩藩直轄の琉球王国を経由した中国との交易が存在していた。奄美群島は薩摩藩の直接支配を受けていて、この時代は「大和世 (やまとゆー)」と表現される。
黒糖製造技術は同時期に中国へ渡った使節団が学び持ち込んだと言われているが、奄美の黒糖が担ってきた役割とそこに関わった人々の歴史は、お土産品として並ぶ現在と薩摩藩統治時代では大きく異なる。
財政難が悪化の一途にあった薩摩藩は、大阪市場で高値取引される黒糖に着目し、奄美の島々を黒糖生産と独占買い上げシステムに組み込み莫大な利益を上げた。自給用のコメやイモさえも栽培を許さず、天候不順による飢饉の際には徳之島だけでも3,000人以上の餓死者を出す状況で、密売者には死罪さえ待っていた。
私が所属する伊仙町教育委員会では今春、伊仙町誌資料集 ②『徳之島上国日記集』を発刊した。本書では、薩摩藩主の慶事に合わせて通達を受けた5人の島役人たちが、鹿児島城へ数カ月かけて渡航するまでの準備や道中の様子、人づきあいや城内外での状況を記した日記を収録している。
現代語訳により当時の人々の様子が手に取るように分かり、藩政時代を生きた人たちも「昨夜は飲み過ぎて記憶がない」など、現代に暮らす私たちと変わらない感覚を持ち合わせていることに驚く。
献上品として準備され運ばれた品々の代表が黒糖焼酎や塩豚、イトバショウの繊維で織られた芭蕉布、そして黒糖であり、「黒糖地獄」と表現された農家一人ひとりの苦しみとその窮状を訴える島役人の様子などが克明に記されている。手に取った黒糖の中に、そんな過去のストーリーも読み取ってみてはいかがでしょうか。
松岡由紀(まつおか・ゆき)さん
東京出身。伊仙町社会教育課町誌編纂室室長。イェール大学環境スクール卒、英国グラウンドワークで地域再生に携わり、帰国後同組織業務で2003年に初来島、2005年に移住。徳之島での出産、子育てと同時に伊仙町役場に就職し現職に至る
東京在住、2014年より『ritokei』編集・記事執筆。離島の酒とおいしいもの巡りがライフワーク。鹿児島県酒造組合 奄美支部が認定する「奄美黒糖焼酎語り部」第7号。著書に奄美群島の黒糖焼酎の本『あまみの甘み 奄美の香り』(共著・鯨本あつこ、西日本出版社)。ここ数年、徳之島で出会った巨石の線刻画と沖縄・奄美にかつてあった刺青「ハジチ」の文化が気になっている。