つくろう、島の未来

2024年10月10日 木曜日

つくろう、島の未来

最近、島に「ごみ」が増えていると感じませんか?

あちこちの海辺や、人が立ち寄らない隠れた場所に、もう、どうにも隠れきれなくなったと言わんばかりに佇むごみ。島の人たちは口々に「昔はそんなになかった」と言います。ごみと呼ばれるものが自然界に存在しないとすれば、それはすべて、人の営みと価値観から生まれたものといえるでしょう。

特集【きれいな島をいつまでも】では、「きれいな島がいつまでも続くように」という願いを込めて、島のごみについて考えていきます。

※この記事は『季刊ritokei』41号(2023年2月発行号)掲載記事です。フリーペーパー版は全国の設置ポイントにてご覧いただけます。

いつから増えたの?「島のごみ」(竹富島・沖永良部島・知夫里島)

「島のごみ」はいつ頃から増えたのでしょう?浜辺に流れ着く流木が、かつて薪に使われていたように、昔はごみではなかったのに、今はごみになってしまっているものもあります。3つの島で 、 60年前〜90年前の島を知る方々に、ごみ事情の変化やごみを出さない昔ながらの暮らしの工夫を教えていただきました。

竹富島(たけとみじま|沖縄県)

話を聞いた方・昭和 3 年生まれの女性、男性、昭和 35 年生まれの男性
聞き手・水野暁子

Q1. 昔の島にごみはありましたか?

●昔は石垣島(いしがきじま|沖縄県)から買ってくるものもなく、衣服などはほとんどごみに出なかった
●戦時中でも海に人が出すごみはほとんどなかった
●海にごみはあったけど、今みたいなプラスチックはなかった

Q2. いつ頃からごみが増え、どのように処理していましたか?

● 生ごみは畑に埋め、燃やせるごみは燃やしていた
● 終戦後は、海には海藻などの自然ごみと浮き玉などがたくさん流れ着いていた。同じ頃、僕は集落を回ってごみを収集する仕事を始めた。集めたごみは埋めていた
●終戦後に海岸沿いでキャンプをする旅行者が増え、キャンプ後に瓶ごみが散乱していた(それが原因で竹富島ではキャンプが禁止になった)
●昭和40年くらいからビニールごみがでてきたと思う

Q3. 今のようにたくさんのごみを出さない暮らしにはどんな工夫がありましたか?

● 昔はサランラップで包む代わりに、畑へ持っていくお弁当は芭蕉の葉っぱで包んでいた
●織物の服だったのでみんな大切に布をあてて縫って直して着ていた


沖永良部島(おきのえらぶじま|鹿児島県)

話を聞いた方・昭和 8 年生まれの女性
聞き手・ネルソン水嶋

写真・ネルソン水嶋

Q1. 昔の島にごみはありましたか?

●昔(昭和32年以前)はごみがなかった、ビニールもプラスチックもなかった
●浜に通って海水から塩をつくっていたが、当時は海にごみは一切なかった

Q2. いつ頃からごみが増え、どのように処理していましたか?

●昭和40年以降には島でもごみを出すようになった。当時、指定袋がなかった ので、飼料袋に入れて捨て始めた
●木の葉などは牛の糞と混ぜて堆肥にした

Q3. 今のようにたくさんのごみを出さない暮らしにはどんな工夫がありましたか?

●茶碗を洗った汁(水)は芋などに混ぜて家畜のエサにした、水も桶にためて使った
●燃料になる竹やソテツの葉を探すことが当時の仕事、灰になったら畑の肥料にした
●服は大事な宝物。親が亡くなったら衣装をみんなで分けて大事に着ていた。穴が空いたら端切れの布でパッチして使うのが当たり前だった
●紙も貴重で、学校でくじ引きに当たった人がノートをもらえた
●奉公先でもらった裏紙やお古のそろばんを使っていた
●トイレのちり紙は、ハジギという丸い葉やグアバの葉を使っていた
●イトバショウの葉を使ってお餅を包んでいた


知夫里島(ちぶりしま|島根県)

話を聞いた方・96 歳、97 歳、86 歳の女性
聞き手・鈴木瑛

写真・鈴木瑛

Q1. 昔の島にごみはありましたか?

●海岸のごみは今と比べるとかなり少なく、中国語やハングル語が書かれたごみもなかった
●昭和 50〜60 年代までは薪を使って生活していたため、流木などは拾って燃料にしていた。当時はお金よりも薪などの燃料が優先だった。薪集めは子どもの仕事だった

Q2. いつ頃からごみが増え、どのように処理していましたか?

●基本的には海に捨てていた(魚の餌代わりとしても)
●燃やせるものは山に行って燃やしていたことも(今は違法なのでやらない)
●各地区に焼却炉が導入されてからは地区の人が当番制で燃やしていた
●昭和の終わり頃から今と同じように、地区ごとにごみを回収して業者が処理するようになったが、生ごみや牛馬糞は肥料として利用していた(※)

※東京五輪前後から公害などに対する法律が制定され、それまで海岸から捨てられていたごみの対応が始まり、昭和48年に村の各地区に焼却炉を導入。昭和62年に大型の焼却炉を導入。それ以降は委託業者が地区を回り回収、焼却まで行っている(『知夫村誌』より)

Q3. 今のようにたくさんのごみを出さない暮らしにはどんな工夫がありましたか?

●靴も買えず裸足で登校するほど貧しい生活だったので、ボロになっても長く使うしかなかった
●兄弟もたくさんいたので、 衣類は基本的に末っ子まではお下がりを着ていた
●新しい衣服を買えないため、絹を織り、自ら衣類をつくっていた

島で暮らす人が気になる「島のごみ」(読者アンケート)

全国の離島地域で暮らすリトケイ読者の皆さんにアンケートを実施。「 島のごみ 」について気になっていることを伺いました 。

●島民の高齢化と人手不足で、海岸清掃ができていないこと
●リサイクルしているものが少ないので(紙やプラなどは一般ごみに)ごみが増えてしまう
●離島ゆえリサイクルが十分にできない(運搬コスト)。ごみ処理への意識が低く、ポイ捨てや山林へのテレビ・冷蔵庫、車等いろいろなものが不法投棄されている
●竹富町内の離島から石垣島へ引っ越したが、離島にいる時はごみが落ちていたら拾うなど島の美化は自分ごとだったのに、石垣に来てからそのように思えない自分がいる。マンション 、駐車場の美化は管理会社の仕事、カラス対策は行政の仕事。 みんながそう思う結果として、石垣島にはごみがたくさん落ちていて、海へと出て行っている
●島なのにリサイクルが進んでおらず、焼却が多いため環境負荷が高い。海洋ごみは回収が追いついていない
●漂着ごみ回収はボランティアによる活動に頼っている。公園や道端に空き缶や弁当のからが捨てられており、景観を損なっている
●道路沿いのポイ捨てのごみの量をみると、郷土を知らずに育った世代の感覚に問題が多い気がする。環境の変化にともない、魚種の変化や、漁具の廃棄処分経費、燃料の高騰など。問題がつながっている気がする
●70代以上世代の『ごみはポイ捨てしても自然に還る』『何でも燃やして灰にする 』という文化&誤認識による減らない不法投棄

海岸清掃の様子(沖永良部島) 写真・ネルソン水嶋

●漂着ごみが大量
●島内で最終処分できないものが多数ある
●町内会に入らないと、近くのごみステーションが利用できず、ごみ処理場までごみを運ばなければならない
●産業排水、生活排水を海に流す事による環境への影響。逆に栄養を海に流さないことによる近海の栄養不足
●見えない山林への粗大ごみの不法投棄問題に目をつぶってしまっている
●海岸に流れ着くごみが多いこと
●海洋ごみの処分。埋め立てるしかなく、処分場が計画より早く埋まってしまい、現在、新設工事をしている
●海岸に漂着するごみをはじめ、山林への不法投棄、個人の野焼き処理等

●一番大きなごみは廃屋。都会ではすぐに更地にして売りに出すような家でも、地権者が地元にいないまま放置されて倒壊したり、山の中に埋もれていきます
●動かなくなった車や重機も大きいので処分費がかかり、放置されていることが多い。港に係留してある船もそのままボロボロになってしまい、たまに行政代執行により処分されますがその費用も高いと思います
●今後懸念されるのは、メガソーラーのパネルが稼働しなくなった後も放置されてしまうのではないかということ。ただでさえ、山の斜面に建っているのは地滑りなどの危険があると感じるのに、それがメンテナンスもされずにごみとして放棄されるのではと思うと不安です。家屋もソーラーパネルも、最終処分までを持ち主の義務として、建設時に事前に徴収しておくなど対策が必要だと感じます
●ビーチに行くたびに海洋ごみが流れ着いて、キリがないこと。秋から春先までのごみ拾い人口が少なさすぎる
●冬期間は燃えるごみ以外の収集が止まること。本土ならばいつでも出せる粗大ごみが、収集業者の機嫌をうかがって出さねばならないこと(行政もそれを容認していること)
●漂着ごみは、島での処理が困難。集めてもきりがない。島で資源化する仕組みがほしい
●漂着ごみの処理施設がない

特集記事 目次

特集|きれいな島をいつまでも ごみについて考えよう

最近、島に「ごみ」が増えていると感じませんか?
あちこちの海辺や、人が立ち寄らない隠れた場所にもう、どうにも隠れきれなくなったと言わんばかりに佇むごみ。
島の人々は口々に「昔はそんなになかった」と言います。ごみと呼ばれるものが自然界に存在しないとすれば、それはすべて、人の営みと価値観から生まれたものといえるでしょう。
この特集では、「きれいな島をいつまでも」という願いを込めて島のごみについて考えていきます。

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