つくろう、島の未来

2021年04月13日 火曜日

瀬戸内の島々150島を歩き、人と暮らしを描いてきた絵描き・倉掛喜八郎氏の著作『タコとミカンの島 瀬戸内の島で暮した夫婦の話』より、エピソードを抜粋して掲載する連載企画。
愛媛県松山沖に浮かぶ、今は無人島となってしまった由利島(ゆりじま)で、タコツボ漁とミカン耕作を営みながら戦前から1980年代まで暮らした夫婦を訪ね、穏やかな海を見下ろすミカン山で、漁に出た船の上で、問わず語りに聞いた島の話をお届けします。

左:二神・由利島周辺地図/右:由利島鳥瞰図(クリックで拡大します)

昭和二八(一九五三)年、中村さんは肋膜炎と診断を受けて、松山市の県立病院へ入院。三ヵ月後の七月末ようやく退院する。

「わしが家で養生しとったとき、漁業組合から、鯛釣りのエサの仕入れと運搬の『エサ買い』をやってくれる人がおらんので、困っとるんじゃの言うてきてよの。条件は秋から二月(小正月)の間、風が吹いても行ってくれる人、釣りに間に合うように、その日の午後五時頃までに帰ることよのう」

冬の海は天候が急変して大シケになる、漁師はその恐ろしさを百も承知。それに何があっても指定の時間に戻らなくてはならない厳しい条件だ、誰もが即座に断った。

「あぶないけぇ、やめようわい、言うたんじゃけどなぁ。おじいさんは人が困っちょると知ったら、ほっとけんのよのぅ。そんならなんとかしちゃらないかんがい、という気持ちで引き受けたんじゃろうと思う。病み上がりで、まだ体がしゃんとしとらんのによのぅ。

エサの小イカの買い付けはほとんど毎日よぅ。乳飲み児をおぶって、夜明け前に二神を出て、夕方五時に戻ったんよぅ。仕入れ先は主に二神の北、倉橋島の本浦、家老渡(かろうと)、大向(おおむこう)の浦々じゃったんじゃけど。
そこで小イカがなかったらじゃなぁ、北の江田島(えたじま)の大原やら西の周防大島の安下庄(あげのしょう)、柱島へも行ったんよなぁ、おじいさん」

「そうじゃ。『エサ買い』は、今日はシケじゃ台風じゃのいうて休めんので、無理からでも行かにゃならんかったんじゃがい。エサがないからと手ぶらでは帰れまい。夜漁の鯛のハエ縄漁船九ハイがエサの着くのを待っとったんよの。エサがないと鯛は釣れんのでよの」

「おじいさんが組合の用事でどうにも体の都合がつかんときは、私が一人で行ったんよぅ。乳飲み児をおぶってよのぅ。気が張っとるけぇ、船に酔うとる間も恐ろしいじゃの、どうじゃの言うとるヒマなんかなかったわい」

当時、行商船や機帆船、漁船など夫婦で乗り組むのはあたりまえだったが、女が一人、それも乳飲み子をおぶって、漁船に乗ったなどは聞いたことがない。ましてやスミエさんは泳げない。いくら人のためとは言え、自らを省みない無謀な行動だ。

「なぁ、おじいさん。あれはいつのことじゃったろぅか。鹿島(倉橋島の西)の横手にさしかかったときに、急に大きな波を受けて船の舵がポッキリ折れてしもて、そんで歩み(船の板バシゴ)をくくりつけて舵のかわりをして、ほうほうのていで津和地まで戻ったことがあろぅ」

「おうおう、あんときは吹雪じゃったのう」

「そうよぅ、朝から白いもんがチラホラしちょって、昼頃から吹雪いたんよぅ。真っ白けでなんちゃ見えんかったんよなぁ。
それに沖家室(おきかむろ)瀬戸を抜けたとたんに、波が船になだれ込んできて、甲板がびっちゃんこになったことがあったろぅ。
安下庄へ行きよって、瀬戸を抜けたとたんに西風を受けてよの、船がグラッと傾いたんよなぁ。あんときは予想しちょったより台風が早う来たんよのぅ、おじいさん」

「おう、そうじゃった」

「土地の船は一パイも出とらんかったんよなぁ。マジ(南西)の大風で大シケよのぅ。五メートルの大波にもまれて、波の谷間へとんぶり返ったかと思うと、次の瞬間には波の山に乗って逆とんぶりで、気がついたら船が岩に乗り上げちょった。次の大波に押されて離れたんよな。あんときは命びろいしたんよなぁ、おじいさん」

「おう、そうじゃ。わしゃ、あんとき、あぁここで親子三人が死ぬるのか命運尽きるのか、と思うたんよの。そんでこんなことしとったらじゃな、万が一、わしの身に何かあったらじゃな、女房、子供はどうなるのか。漁は女手では無理じゃ、女手ひとつで荒くれもんは使えんけえ、わしは畑をやろうと決めたんよのう」

命がけのエサ買いを五、六年続けた。板子一枚下の地獄を見た。天が夫婦に味方した。

「由利の畑の開墾は昭和二九年からやっちゃんよのぅ。じゃけど、畑で大ケガをしたおじいさんに無理はさせられんのでな、私が人夫四、五人を雇うてやっちゃんよぅ。
開墾は一二月から寒いときのほうが、仕事がしやすかったわい。毎年三月に小指の先ほどの太さの温州ミカンの苗木を植えていったんよぅ。索道(リフト)ができるまでは、子どもの手を引いて六〇キロの堆肥、肥料を背おうて、石段、畑を上り下りよのぅ。
ミカンは赤ん坊を育てるような気持ちでよのぅ。風に落ちた葉は元に戻してつけてやりたいぐらいの気持ちよのぅ。温州三〇〇本の苗木を畑へ植え替えるのに一三年かかったんよのぅ。そん頃は食えんじゃったけぇ、夏はツボ、秋はヤズ(ハマチの若魚)釣り、冬はエサ買い、春先は開墾じゃったんで、船のエンジンを止めたんは年に二、三日じゃったろうか」

懸命に働く妻の姿に、ようやく中村さんのバクチも治まる気配があった。スミエさんは夫に恨み言やグチはいっさいこぼさなかった。

「おじいさんは先にお金を使うとるけぇ、馬力かけて金儲けしよったわい。タコもミカンも一生懸命よぅ。
けどなぁ、おじいさんのほんとうの気持ちは体が元気じゃったら、畑はせずくにツボ一本でいきたかったんよのぅ。
じゃから私はおじいさんの思うように、したいように生きてもらおう、悔いのない人生を歩んでもらおうと思うちゃんよのぅ」

スミエさんは自らを律した。だからといって自分を犠牲にして、中村さんの言うとおりにやってきたわけではない。仕事は自分のやり方でした。
生活がどんなに苦しくても、体が疲れていても、気持ちは充実。ツボの最盛期は六、七、八月、その時期以外はミカン作りに精を出し、先頭に立って働いた。

離島経済新聞 目次

寄稿|『タコとミカンの島 瀬戸内の島で暮した夫婦の話』

倉掛喜八郎(くらかけ・きはちろう)
兵庫県姫路市生まれ。広告代理店グラフィックデザイナーを経て独立。1980年代に刻々と変貌する瀬戸内の海と人の暮らしを描き留めたいと思い立ち、瀬戸内ルポの旅へ。山陽、四国沿岸、島は有人島無人島合わせて150島を歩く。1995年阪神・淡路大震災に被災し、生活再建のため絵から離れるが、2017年瀬戸内歩きの活動を再スタートさせた。著書に『えほん神戸の港と船』(神戸新聞出版センター 1980年)、『瀬戸内漂白・ポンポン船の旅』(大阪書籍 1986年)、『タコとミカンの島 瀬戸内の島で暮した夫婦の話』(シーズ・プランニング・星雲社 2020年)。

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