つくろう、島の未来

2020年09月29日 火曜日

瀬戸内の島々150島を歩き、人と暮らしを描いてきた絵描き・倉掛喜八郎氏の著作『タコとミカンの島 瀬戸内の島で暮した夫婦の話』より、エピソードを抜粋して掲載する連載企画。
愛媛県松山沖に浮かぶ、今は無人島となってしまった由利島(ゆりじま)で、タコツボ漁とミカン耕作を営みながら戦前から1980年代まで暮らした夫婦を訪ね、穏やかな海を見下ろすミカン山で、漁に出た船の上で、問わず語りに聞いた島の話をお届けします。

左:二神・由利島周辺地図/右:由利島鳥瞰図(クリックで拡大します)

イワシ網・イリコ作り

『中島町誌』によると、由利のイワシ網・イリコ作りは昭和四(一九二九)年から始まり、戦争末期空襲の合間もつづき、戦後も活況を呈したとある。スミエさんは小娘のときからイリコ作りに参加していた。

「イワシ網・イリコ作りは、戦後も二神漁業組合自営部と二神島民の共同経営よのぅ。島民は男女合わせて三〇人が一組になって、全部で四つの組をこさえて、イリコを作ったんよぅ。漁期は毎年七月半ばから九月の終わりまでの七〇日間を『一落(いちらく)』と言うてよの、組合と島民の歩合は四分六、その年によってちごたんじゃけど、賃は男衆(おとこし)()が一人前、女子衆(おなごしが八分、子どもは駄賃がもらえたんよのぅ。

そんで『一楽』を終わって秋漁すっときの賃は、また別よのぅ。イワシ網の操業、イリコの製造販売の経費やら生活費をさっぴいた出来高払いよぅ。
イワシ網の一日の始まりは、総員起こしの合図のラッパの音で起こされたんよな。戦前はほら貝吹きよったわい。東の空が白み始める午前四時頃よのぅ。みんな寝ぼけ眼で浜へ飛び出しちゃんよぅ。集合に間に合わなんだら、その日の賃はもらえんけぇのぅ。

イワシは巾着網と地引網で取っちゃんよぅ。雨降り時(梅雨)は潮順がようて、大漁つづきよぅ。朝起き抜けに取ることを『朝まじめ』、昼間を『日まじめ』、それに『夕まじめ』『夜まじめ』言うて、イワシがおったら何べんでも取りに行きよったけぇのぅ。
見晴らしのきく小由利の櫓に、イワシを探す山見の者がおってよの。イワシの群れを見つけたら、すぅぐに方角やら場所やらを手旗で知らせてくるんよの。晩は懐中電灯を振って合図したけぇ、合図を受けたら男衆は一斉に船を漕ぎ出しちょったわい」

参加していた中村さんは、重たい巾着網を引き上げる力自慢の胴打ちをしていた。

「イリコ作るんは女子衆の仕事じゃけぇ。浜へ出たら一番に釜立ての支度よの。イワシをいつからでもゆがけるように、釜場を掃除、焚き付けの薪束やらイワシをゆがくザル、桶に水を張って釜場に運んどくんよぅ。

そんでから、前の日に干して倉庫にしもちょったイリコを出して、二、三時間ぐらい干すんよの。イリコは熱気があると腐るけぇのぅ。日の当たる前の涼しい風で冷まして、完成品にしてから倉庫に取り込んだんよぅ。女子衆は、その合間に朝ご飯の支度やら、赤ん坊の世話をしちょったわい。

大漁がつづいたらなぁ、もうてんてこ舞いよぅ。沖から取って帰る男衆から「釜立てぇ!」と声がかかったら、すぅぐにオクドに薪をくべちょいて、船が浜に着いたら総出でイワシを釜場へ上げたんよぅ。イリコのできはイワシの鮮度が一番大事じゃけぇ。大漁どきは干場もムシロ、ザルもみんな取りやいっこよぅ。

よその組より、ちぃとでもええもんこさえようやい、ちぃとでも楽して、早う作ろうわい言うてよの。ご飯食べる間、お茶を一服飲む間を惜しんで、浜へ出たんよぅ。
そんで、よぉーし、いっちょやっちゃろわい。スミ姉には負けとれんわい、言いやいっこしてよの。肩にザル五〇枚やら薪の大束、イワシでずっしり重たい二杯ザルを担いで浜を走りまわっちゃんよなぁ。どうじゃ、うちにはかなわんじゃろう言うて、男顔負けの力比べをしちょっちゃわい。

よその組には負けとれんでぇ、うちも頑張ろうやい言うて、張り合いを持っとったけぇなぁ。じゃけど、今日は日曜じゃの雨降りじゃの言うて、休むということはなかったけぇなぁ、体はえらかったわい。けど、おもしろかったわい。

漁業組合が重油焚きの自家発電をしてな。ラジオの放送をスピーカーで流してくれて、ニュースやら歌謡曲を聞きながら仕事がでけたんで、能率が上がったんよぅ。生活物資や食料品は二神から組合が持って来たけぇ、なんちゃ困らんかったけどが、すぅぐに井戸が枯れてしもたんで、困ったんよぅ。

大勢の人が共同で使うんじゃけぇ、溜まるひまがなかったんよぅ。じゃから、夜中でも家の外から『水が溜まっとらい』と声がしたら、汲みに走って、釣瓶をガラガラいわして井戸の底をさらうようにして、ひしゃく一杯の水も汲んだんじゃけぇ。

明神の井戸のうち二本が飲み水用じゃったんじゃが、大潮になると海水が混じって塩辛うて飲めなんだわい。もう一本は海軍が掘ったんじゃけど塩辛かったんで風呂、洗濯に使うちゃんよぅ。とうとう井戸が枯れたらよのぅ、伝馬船漕いで東の砂浜部落へ水汲みよのぅ」

砂浜の井戸は海軍が大きくして、島人と共同利用していたが、水が枯れることがなかった。砂浜の井戸のおかげで、みんなが助かった。

「イリコは三津浜、津和地、広島方面から業者が来て入札よぅ。商談が済んだら船に積み込むんじゃが、女子衆には、運ぶたんびに口にアメ玉をほぅりこんでくれよったわい。

それになぁ。干しとるイリコがムシロからこぼれ落ちちょると、小娘は拾てもかまわんかったけぇ。みんな小さなヒタミ(竹カゴ)に貯めちょいて、三津から島を巡って来ちょった行商船の果物、モモ、ナシじゃの好きなんと交換できたんよぅ。それが小娘時分の楽しみよぅ。うれしかったわい」

「イワシ網の人は長屋住まいよぅ。一部屋六畳ぐらいで、親子が押し合いへし合いしておったわい。その時分どこの家でも子どもが多かったけぇ、子が二、三人なら、おまんとこには子がおらんのかい言われよったんよぅ」

夏の瀬戸内の夕凪は宵の口にかけて風がピタリと止まり、ムシムシ暑い。

「そうじゃけぇ、夫婦もんは子どもの寝相を直してよの、伝馬船漕いで松原へ行きよったわい。松の枝から蚊帳を張って、伝馬船の中で寝よったんよぅ。そんなら波の音ぎりで静かじゃし、涼しかろぅ」

イワシ網は由利に行けば食べられるという魅力と、一つのことをみんなで力を合わせてする喜びがあった。男衆の「釜たて!」女衆の「あいよ!」。あ・うんの呼吸で仕事にかかり、女子衆は気心知れた者同士、ポンポン言い合いながらそれを楽しんでいた。

離島経済新聞 目次

寄稿|『タコとミカンの島 瀬戸内の島で暮した夫婦の話』

倉掛喜八郎(くらかけ・きはちろう)
兵庫県姫路市生まれ。広告代理店グラフィックデザイナーを経て独立。1980年代に刻々と変貌する瀬戸内の海と人の暮らしを描き留めたいと思い立ち、瀬戸内ルポの旅へ。山陽、四国沿岸、島は有人島無人島合わせて150島を歩く。1995年阪神・淡路大震災に被災し、生活再建のため絵から離れるが、2017年瀬戸内歩きの活動を再スタートさせた。著書に『えほん神戸の港と船』(神戸新聞出版センター 1980年)、『瀬戸内漂白・ポンポン船の旅』(大阪書籍 1986年)、『タコとミカンの島 瀬戸内の島で暮した夫婦の話』(シーズ・プランニング・星雲社 2020年)。

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