つくろう、島の未来

2020年12月03日 木曜日

瀬戸内の島々150島を歩き、人と暮らしを描いてきた絵描き・倉掛喜八郎氏の著作『タコとミカンの島 瀬戸内の島で暮した夫婦の話』より、エピソードを抜粋して掲載する連載企画。
愛媛県松山沖に浮かぶ、今は無人島となってしまった由利島(ゆりじま)で、タコツボ漁とミカン耕作を営みながら戦前から1980年代まで暮らした夫婦を訪ね、穏やかな海を見下ろすミカン山で、漁に出た船の上で、問わず語りに聞いた島の話をお届けします。

左:二神・由利島周辺地図/右:由利島鳥瞰図(クリックで拡大します)

海軍基地

「戦時中の由利のことが知りたいと言うちょったんよのぅ、えぇ」

スミエさんが片肘ついて、そんなら話しちゃろわいと、おもむろに話し始める。

「戦争は父と畑を開墾しちょるとき、えらいことじゃ、大ごとじゃちゅうて、そんで日本がアメリカと戦争をおっぱじめたことを知っちゃんよぅ。そんとき私は一七じゃったわい。戦時中いうたち由利は何ちゃ、変わりゃせんかった。毎日畑仕事よぅ、夏は朝んま、イモの畑の草ひいてから、浜へ出てイリコしちょった。いつもとつい(同じ)よぅ。 

そんで昭和一八(一九四三)年の春頃、突然五、六〇人の人夫が明神部落へ上がってきたんよぅ。海軍の見張り所(監視哨)を建設するんじゃの言うてよ。私らも賃仕事に出たんよぅ、レンガやセメント五〇キロ担いで、日に何回も辻っこ(山頂)へ運びあげたんよの。

明神部落からちょっと上がった林の中に、重油焚き発電所と簡易水道施設をこさえて、うちの畑のとこに兵舎、辻っこに探照灯と見張り所、中腹から東側の砂浜部落へ下りるジグザグの兵隊道をこさえたんよぅ。

兵隊さんが来たんは夏頃じゃったろうか、鉄砲担いで三〇人ぐらいが上陸して来たんよの。石炭やら米やらの物資は呉から通船で持って来て、浜から兵舎へ担ぎ上げよったわい。監視哨はB29じゃのが飛んできたら、すーぐに呉へ知らせたんじゃろ思う。

そんで私ら娘も友だちと誘いおうて、蒸し芋やお団子、南京豆じゃの手土産を持って兵舎へよう遊びに行ったんよぅ。若い兵隊さんもおったけぇ、いろいろの話よのぅ。おもしろかったわい。通信兵はキリッとしてかっこうが良かったわい。兵隊になるなら通信兵じゃなと思ったわい。物々交換もしたんよぅ、監視硝から醤油やら何やらの調味料、砂糖、石鹸、タバコやらを。由利の人はイモ、ムギ、野菜をあげたんよぅ。

隊長さんがええ人でな、軍に内緒で部落に電線を引いてくれて、自家発電の電気を使わせてくれたんよぅ。家にパァッと電灯がついたときは明るいけぇ、そうら飛び上がるようにうれしかったわい。じゃけど由利に電灯がついたんは、後にも先にもそのときぎり(だけ)よぅ」

開けた瀬戸内。由利は夏の間、季節移住ではあるが、八〇所帯二五〇人からの人が住み、定住者もいたにも関わらず、電気が通っていなかったことを知り、驚いた。

「由利の空襲は、兵隊さんがおらんで(大声で)教えてくれちゃんじゃが。グラマンはすぅぐに辻っこをかすめるように来て、バリバリバリッと銃撃してからに、乗っちょる人の顔が見えたんじゃけぇのぅ。島の人は小由利の山裾へ避難して、息を詰めて見ちょったんよ。爆弾がさく裂して松並木が吹き飛ばされたり、イワシ倉庫が燃えたときはバケツリレーをして消したんよぅ。幸いなことに、人にはひとっつも当たらんで、たいした被害もなかったわい。

そんでもなぁ。監視哨の兵隊さんは、空襲のたんびに発電機止めて全員浜へ出て、寝ころびよったんで、応戦せんのんかいのぅ言うて島の人は笑うとったわい。

グラマンじゃのB29じゃのがブンブン飛んできたけぇ、おちおちしとれんかったわい。あれは昭和二〇年の五月じゃったろぅか、ものすごい数の飛行機が爆音をとどろかせて由利の上へ来て、二神の方へ飛んで行ったんよぅ。それはまんで大けな黒い雲のかたまりみたいで、由利がスッポリ入るようなかったわい」

スミエさんが目撃したのは呉を空襲したB29の大編隊だった。

「まんで花火を散らすように岩国が燃えるんが見えたんよぅ。あたりは真っ暗闇じゃのに岩国の空だけが赤うなって、焼夷弾を落とされるたんびに、線香花火のようにパッパッパッと炎が飛び散ったんよぅ。岩国が昼間より近う見えたんで、恐ろしかったわい」

「おじいさんはそん頃、呉の海軍工廠に行っとったんよのぅ」
「おう。わしゃ、徴用で終戦までよの、ウルメ小島で豆タン(特殊潜航艇)造っとったんじゃ。島をくりぬいた地下工場の電気部におったんぞ。修理中の戦艦大和にも乗ったんぞ」

スミエさんが心配した二神の様子は、当時を知る農家や船大工、漁師たちが、口ぐちに戦争の恐怖を話した。

「朝起きたらじゃな、床下のイモつぼに隠れるか、握り飯持って山の防空壕へ走り込むんじゃがい。仕事どころじゃなかったがい。わしら青年団員は火の見やぐらに駆け上がって、空襲警報の半鐘を打ったんぞ。命がけじゃったがいのう」

「そうじゃそうじゃ、命がけよう」

「おいおい、港へ避難してきた機帆船が攻撃されて、赤ん坊をかぼうて母親がかぶさったとこへ命中して、母親が死んだんよのう。島のみんなが泣いたがいのう。
定期船(三津浜~呉)は空襲警報の間をぬうて、全速航海しよったんじゃが、機銃掃射で何人かが死んだんよの」

「そうじゃ、女、子どもまで撃ってからによのう」

「松山の空襲は恐ろしかったがいのう」

「そうじゃ、爆弾の火の雨よのぅ。空が赤うに焼けて、大ごとじゃったがいのう」

宿の女将さんも語った。

「八月六日の朝、いつものように握り飯を持って、山の防空壕へ急ぎよったら、何やらピカッと光ってあたりが明るうなったんよぅ。そんで立ち止まって海の方を見とったら、ドオーンと腹に響くような大けな音がして、ウワーン、ウワーン、ウワーンいうて、変な音が響いてきたんよぅ。

何じゃろか思うて見たら、倉橋島の北、広島の方の空に煙がドンドン立ち上がるんよぅ。そんでこりゃ、ただごとじゃないと思うとったら、下の部落から「広島に大けな爆弾が落ちたでぇー、外に出たらいかん」じゃの言うて、あっちの部落、こっちの浜で叫んじょったわい。

煙はまんで雲のかたまりみたいにモクモクと上がって、キノコのような格好になったんよのぅ。煙はだんだん薄うなっていったけどが、だいぶ長いこと見えとったわい。二神の人は広島に親戚がようけおったけぇ、心配したんよぅ」

広島へ安否確認に行った人から「原子爆弾」と知らされた。二神から広島まで直線距離で約六〇キロメートル、原爆の閃光は家の中にいてもハッキリわかったと言う。終戦前の数ヵ月、二神は中島町内で最も激しい空襲を受ける。

「由利で畑をしちょるとな、空から紙切れがいっぱい落ちてきたんよぅ。まんで雪が降るよに空が真っ白になって、山じゅうによのぅ「無条件降伏せえ」いうビラじゃったわい。戦争が終わったと知ったんは、監視哨の兵隊さんからじゃったと思う。

終戦のときはみんなと同じよぅ、そうら悔しかったわい。そんでもな、ああこれでもうあんな恐ろしいめに遭わんと思うとホッとしたと言う人、息子が戦死したからと言うて表で泣けんかったけどが、終戦で思いきり泣けたと言う人、息子が帰ってこんので悔し涙を流す人やら、思いはさまざまよのぅ。

おじいさんの仲良しはフィリピン、サイパン、私の同級生もようけ戦死したんよなぁ、二〇歳になるかならんでよの。これからいろんな人生があったじゃろうにのぅ。戦争はむごいんよぅ。何があっても戦争はじぇったいにしたらいかんよぅ」

スミエさんはかみしめるように言って、話をやめた。


【作品紹介】
『タコとミカンの島 瀬戸内の島で暮した夫婦の話』
定価(本体1,500円+税)
絵・文 倉掛喜八郎
発行 株式会社シーズ・プランニング
発売 株式会社星雲社
発行 2020年3月

離島経済新聞 目次

寄稿|『タコとミカンの島 瀬戸内の島で暮した夫婦の話』

倉掛喜八郎(くらかけ・きはちろう)
兵庫県姫路市生まれ。広告代理店グラフィックデザイナーを経て独立。1980年代に刻々と変貌する瀬戸内の海と人の暮らしを描き留めたいと思い立ち、瀬戸内ルポの旅へ。山陽、四国沿岸、島は有人島無人島合わせて150島を歩く。1995年阪神・淡路大震災に被災し、生活再建のため絵から離れるが、2017年瀬戸内歩きの活動を再スタートさせた。著書に『えほん神戸の港と船』(神戸新聞出版センター 1980年)、『瀬戸内漂白・ポンポン船の旅』(大阪書籍 1986年)、『タコとミカンの島 瀬戸内の島で暮した夫婦の話』(シーズ・プランニング・星雲社 2020年)。

関連する記事

ritokei特集