つくろう、島の未来

2024年11月22日 金曜日

つくろう、島の未来

リトケイ編集部の島酒担当、石原です。取材をしながら出会った島酒や島酒の造り手さんたちのことを徒然にお話しします。今回は、北海道の離島・奥尻島のお酒にまつわる歴史をお話しします。

こんにちは、リトケイ編集部の島酒担当、石原です。

先日、奥尻島で行われている離島最北端のワイン造り(※)についてお話ししましたが、今回も奥尻島のお酒にまつわるお話をお届けします。

透明度の高い海に囲まれた奥尻島は、魚介類の宝庫。特に、ウニが名産とのこと。あいにく解禁前だったので生ウニにはお目にかかれませんでしたが、港や町なかで、こんなウニたちに遭遇しました。

島のゆるキャラ「うにまる君」。船の入出港に合わせて港に出没します。

ウニ型街灯。夜になると怪しく光ります。

さて、この島酒日記を読んでくださる皆さんは、きっと島とお酒が好きな方も多いのではと想像していますが、もしもお酒を飲むことを禁じられてしまったとしたら、どうしますか?

実は、奥尻島には日本の離島で唯一、全島で禁酒を行っていた歴史があるのです。

奥尻島全島に禁酒令が布かれたのは、1885年(明治18年)。過度の飲酒による地域経済の破たんを恐れてのことでした。明治前期頃の奥尻島ではニシン漁が産業の中心。漁獲高によって島の経済が大きく左右される状況でしたが、1881年(明治14年)頃から不漁の時期が続いたため、多くの島民が食糧難に陥るようになりました。

危機的状況のなか、多くの島民が自暴自棄になり生業を疎かにして飲酒に走ったといいます。その状況を打開するため、武蔵野国出身の沢口富士吉という人物が禁酒運動を発起しました。自ら飲酒で多くの財を失った苦い経験を持つ沢口は、「酒を飲む時間を働く時間にしよう!酒を買うお金を米など生活必需品を買うお金にしよう!」と呼びかけ、農業を推奨し蓄財を説いて回ったといいます。

沢口の説得が実を結び、1885年(明治18年)に全島民の賛同を得て「奥尻島禁酒会」が結成され、以後5年間島内での飲酒や酒の売買が禁じられました。禁酒運動が功を奏し、人々が蓄財した結果、道路の修築や学校の増設が進み、島の社会基盤が充実していきました。こうした成果に注目が集まり海外でも紹介され、「禁酒の島・奥尻」として話題になったようです。1919年にアメリカで禁酒法が制定される30年ほども前の出来事でした。

時を同じくして共同貯蓄米の運動が起こり、奥尻島内の各地区に倉庫を設け、管理者を置いて米を備蓄するようになりました。この頃に島内での米の試作が始まり、現在も稲作が行われています。備蓄米の動きは行政主導によるものでしたが、禁酒運動の影響も大きいといわれ、当時の資料に沢口富士吉の名前が島内4地区にわたり「共同儲蓄米尽力者」として記録されています。

奥尻産の酒造好適米と天然水で仕込んだ清酒「特別純米奥尻」

奥尻米誕生のきっかけとなった禁酒時代から時を経て、このほど奥尻島に地酒が誕生しました。原料は島内で生産された北海道の酒造好適米「吟風」と、原生林からの湧き水。ウニやアワビなど、島で獲れる海産物ともよく合います。

酒造米生産と清酒造りなど、特産品開発で奥尻島の米作りを応援する取り組みを取材しました。島酒日記と併せてご覧いただければ幸いです。

初めて訪れた奥尻島は学びと発見の多い島旅となりました。

奥尻島からの帰路、瀬棚港へ向かう航路では、たくさんのカモメがお見送りしてくれました。奥尻島航路では、運が良ければイルカが伴走してくれることもあるそうですよ!

定期船「アヴローラおくしり」のデッキより、離れていく奥尻島を望む。

歴史に学び、お酒とはホドホドのいい関係を保っていきたいものですね。

それでは、また。良い酒を。

参考資料:奥尻町誌、『ふるさと奥尻通信』第15号・第67号

     

離島経済新聞 目次

編集部員石原の島酒日記

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