100年後に誇れる「島の文化」をテーマに読者の皆さんからお寄せいただいた作文のなかから、瀬戸内海に浮かぶ大三島(おおみしま|愛媛県)で生まれ育った村上佳苗さんの作品を紹介します。
※この記事は『季刊ritokei』36号(2021年11月発行号)掲載記事です。フリーペーパー版は全国の設置ポイントにてご覧いただけます。
「祭りに帰る」村上佳苗
「盆正月に帰らない人間も、秋の祭りには帰ってくる」
故郷の島は、かつてこんな風に言われるほどに祭りが盛んで好きな人の多いところでした。
私もその例に漏れず、物心つく頃には完全な祭り好き。一年は祭りを中心に考えていて、島を離れて就職する時には、祭りの日に休みが取れる職場を選んで毎年欠かさず帰っていました。
島で私たちが「祭り」と呼ぶのは、秋に五穀豊穣を祝うもので、毎年旧暦八月十五日頃に行われるいわゆる地方祭と、その一週間後・旧暦八月二十二日頃に、島内各集落の獅子が島で最も古く大きい神社に集結し行われる大祭、それに伴う獅子舞等の神事です。
その起源は古く、海上交通が主だった時代に集落ごとに伝えられ、それぞれに異なる発展をして歴史を重ねてきました。獅子舞や奴に特に特色があり、それらの獅子頭の顔立ち、舞、衣装や口上が祭りを豊かに彩ります。
各集落での支度や練習が始まるのはお盆が終わった頃から。祭りにはもちろん進行や様式があり、様式には信仰に基づく明確な理由がありました。練習や本番の態度のなかで、祭りの心得、立ち居振る舞いは年長者から年少者へと受け継がれて行きます。
神に失礼のないように、喜びを神と人、島の皆で分かち合うために、祭りに向けて幼馴染や色々な年代の地域の人たちと過ごす時間は、すでに「ハレ」であり特別なものでした。
祭りの本番では、集落の一軒一軒を、奴や獅子が露払いしたのち神輿が廻って、その家の一年の無病息災を願います。一昼夜、もしくは二日二晩(地域によっては三日三晩)をかけて、生まれ育った集落の道をくまなく踏んで行くのです。
それはまたこの先一年の、集落への地力を注ぐことでもあるし、祭りの参加者、集落の人間が繋がりを結び直しながら、生きる活力を得ることでもあるように思います。
祭り衣装の美しさ、獅子の格好良さに心踊らせ、ご馳走を共に食べ飲んでうたい笑う、普段顔を合わせる機会のない人同士も近況を伝え合う。
「あらあ、○○さんとこの子でえ、大きなって」
「帰ってきたんじゃね、今どうしとるん?」
「やっぱり○○くんの獅子は上手いねえ」
朝から深夜まであちこちで交わされる、老若男女の楽しげなやりとりの様子。子どもの頃から歳をとって死ぬまで、私たちは毎年祭りに出たり祭りを家に迎えたりしながら、ずっと当事者として祭りの一員なのです。
観光の島として知られる土地柄で、当日は島外からの多くの観光客でも賑わいますが、これは紛れもなく、島と、島に生きる自分たちのための祭り。
祭りとは、舞や笛太鼓の音を、様式のみを指すのではなく、そこへ至る一年の日常、祭りの支度と本番の数日間に凝縮された、島にゆかりある人々の存在と関係性の同時多発的な交わり、それを含めたものなのだと感じます。
きっとどこの土地でも、これが故郷の在り処の一つなのではないでしょうか。様式とあわせて、その周辺の豊かな時間と感覚こそが愛おしく、次の世代へと繋げていきたいものです。
物や情報の量に関して都市部との差が大きかった、島が離島というレイヤーの中にあった時代、祭りは数少ない楽しみの一つでした。それが、当時の都市部との差は日に日に薄れ、島の暮らしも感覚も、劇的に便利に平均化しました。
価値観も環境も急速に変化していくなかで、この十数年の短いスパンの中でも、祭りのあり方・向き合い方が大きく揺れていることを肌で感じます。さらには祭りの存続自体が、人口の減少、少子高齢化、今はコロナ禍によっても危ういものとなっています。
私は今や島を離れ、日常を島の一員として過ごすことはできません。それでも、秋には必ず帰って祭りに出続けています。
その立場で祭りの存続のためできることは少ないけれど、私は私として、祭りの所作の理由と本質に意識を向けながら、帰る場所としてのこの祭りを、百年、数百年先へ繋いで行く、その一続きのうちの一部でありたいと強く思います。