1549年にフランシスコ・ザビエルが日本でのキリスト教布教を始めて469年となる今年、「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」が世界文化遺産に登録された。世界遺産登録を契機に、長崎県の地元自治体と観光団体が島々に点在する構成資産を巡るツアーを企画。潜伏キリシタンの足跡を訪ね、島々を巡った1泊2日の旅をリトケイ編集部の石原みどりが振り返る。
写真・文 石原みどり
頭ヶ島天主堂敷地内のマリア像(五島列島・頭ケ島)
潜伏キリシタンの歴史が世界遺産に
6月30日、中東のバーレーンで開かれたユネスコ世界遺産委員会の場で「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」の世界文化遺産登録が決定された。
「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」は、長崎県と熊本県天草地方の潜伏キリシタンが、自らの信仰をひそかに続ける中で育んだ独特の宗教的伝統がどのように形成され、終わりを迎えたのかを「平戸の聖地と集落(春日集落と安満岳)」「野崎島の集落跡」など12の構成資産で表される。(潜伏キリシタンとは何か?については後述)
野崎島の旧野首教会(小値賀町)
12の構成資産は島々を含む各地に点在している。そこで、長崎県の平戸(ひらど)市・小値賀(おぢか)町・新上五島(しんかみごとう)町の3市町と観光団体が「平戸・小値賀・上五島観光ルート形成推進協議会」を結成。地域が連携し、島々を周遊するツアーを企画した。
同ツアーでは、定期航路がない小値賀島と平戸島間をチャーター船で結ぶコースが新たに開発され、現在の長崎市北方の東シナ海に面した外海(そとめ)地方から、五島列島(ごとうれっとう)、野崎島(のざきじま)、平戸島(ひらどじま)へと島伝いに移住した潜伏キリシタンの足跡をなぞり、キリスト教伝来初期の信仰形態を残している生月島(いきつきじま)まで訪ねるコースとなっている。
潜伏キリシタンの足跡を訪ね、長崎へ
3月、リトケイ編集部は「平戸・小値賀・上五島観光ルート形成推進協議会」の招きに応じ、離島メディアや出版社を集めたプレスツアーに参加した。旅をナビゲートするのは、特定非営利活動法人 長崎巡礼センター 事務局長の入口仁志さん。道中、入口さんが折に触れて紐解いてくれる、キリシタンの歴史に耳を傾けた。
旅のガイド役、長崎巡礼センター事務局長の入口仁志さん
入口さんによると、諸国の大名が領地を争っていた戦国時代さなかの1549年、カトリックの宣教師フランシスコ・ザビエルが鹿児島に上陸。翌年の1550年、中国との交易で栄えていた平戸にポルトガル船が来航し、その知らせを聞いたザビエルが平戸を訪れ、ミサを行った。
平戸藩を治めていた松浦隆信は、交易の上で役立つと考え、家臣の籠手田(こてだ)氏と一部(いちぶ)氏のキリスト教改宗を許可。彼らの領地だった生月島や平戸島西海岸地域の領民もキリスト教に改宗した。各地の集落に教会堂が建てられ、キリスト教や信者は「キリシタン」と呼ばれた。
1587年、戦国時代の幕引きと天下統一を目指す豊臣秀吉は、貿易で栄えるキリシタン大名らの力を削ぐため「伴天連追放令」を出してキリスト教宣教師たちの国外追放を命じる。平戸藩では、キリスト教に寛容だった松浦隆信が亡くなると後継の鎮信が禁教政策に転じ、信仰を守り続けた籠手田氏と一部氏は、領地とキリシタンの領民たちを残し、一族と共に長崎に去った。
やがて江戸時代に入ると、徳川幕府による禁教令と鎖国政策によりキリスト教への弾圧は激しさを増し、宣教師や地元の信者たちが次々と処刑された。1644年に最後の宣教師が処刑されたが、密かに組織をつくり信仰を守り伝えた人々がいた。今日では「潜伏キリシタン」と呼ばれている。
「潜伏キリシタン」には大まかに2つの系統がある。
1つは、キリスト教伝来初期に布教が進められ、禁教体制後も密かに信仰を継続した平戸・生月の人々。もう1つは、現在の長崎市北方に位置する外海地方の人々で、その一部は19世紀に五島列島に開拓移民として入植し、五島列島各地にキリシタン集落を形成した。
地図を示しながら、潜伏キリシタンの歴史と移住の流れを説明する入口さん
江戸時代後期の1700年代末、大村藩に属していた外海地方では人口が増加し過密状態になっていた。藩は産児制限策を講じ、これに反発して隣り合う平戸藩に逃散(※)する者も出た。
※逃散……農民が耕作を放棄して他領へ移ること
外海から平戸島に移り住んだ人々は、草地に畑を開墾してサツマイモを栽培し、山から薪を切り出して売り、暮らしを成り立たせていった。
同じ頃、漁業が主体の五島藩では漁に携わる労働者の食料不足に悩まされていた。そこで大村藩と五島藩は手を結び、悪条件の土地でも育てやすく収穫量の多いサツマイモの栽培技術を持つ外海の人々を、開拓移民として政策移住させることとなる。
仏教徒を装い五島列島に入植した外海のキリシタンたちは、石だらけの斜面を耕して集落を形成し、水面下で信仰を継続した。先行集団が五島に定着する様子を耳にした潜伏キリシタンたちは、やがて次々と海を渡り始めたという。
島伝いに海を渡った潜伏キリシタン
日米の軍艦やクルーズ船が停泊する佐世保港。長崎はその日も雨だった
長崎空港からバスで1時間。佐世保港に到着し、名物「佐世保バーガー」で腹ごなし。小雨の降るなか、13時発の上五島行き高速船の出航を待った。雨に煙る港の風景に、思わず昭和のヒットソングの一節が思い浮かぶ。メロディを反芻するうち、いつの間にか雨が上がっていた。
高速船に乗り込み外洋へ出ると、船窓を流れていく黒島(くろしま)、江島(えのしま)、平島(ひらしま)などの島々を示しながら、入口さんが「キリシタンたちは手漕ぎの小船に乗り、島伝いに転々と海を渡っていったのです」と解説してくれる。
前日までの悪天候の影響か大きくうねる海原を、高速船は切り裂くように進み、激しく揺れた。驚いていると、「揺れるときは、こんなものじゃない。今日はまだいい方ですよ」と入口さんが笑う。
佐世保港発の高速船「シークイーン」に乗り込み、上五島へ
長崎と五島列島の間に広がる五島灘には、九州の南で黒潮から別れた対馬海流が日本海へ向かって流れている。外洋航海に不慣れだった外海の人々は、潮流の中を渡る航海術に長けた沿岸部の漁師たちに渡しを頼んだとみられている。
それまでの暮らしを捨てて小舟で海を渡ったキリシタンたちを思い、揺れる景色に目を凝らす。大きな不安と新天地への期待を抱き、信仰への想いを胸に命がけで出航したのではないか……思いを巡らせているうちに、窓から見つめる景色が霞んでくる。
船が有川港に到着するまで、約1時間20分。座席から船尾のフロアに移り、床に横になって毛布をかぶり、目を閉じた。
(レポート記事2に続く)
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佐世保バーガー
昭和25年頃、アメリカ海軍から伝わったレシピでつくり始めたと伝わる「佐世保バーガー」。店ごとに大きさや味はさまざまで具材のバリエーションも多彩。JR佐世保駅構内の佐世保観光情報センターなどで配布するバーガーマップを片手に食べ歩きで味わいの違いを楽しみたい。
【関連サイト】
長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産
東京在住、2014年より『ritokei』編集・記事執筆。離島の酒とおいしいもの巡りがライフワーク。鹿児島県酒造組合 奄美支部が認定する「奄美黒糖焼酎語り部」第7号。著書に奄美群島の黒糖焼酎の本『あまみの甘み 奄美の香り』(共著・鯨本あつこ、西日本出版社)。ここ数年、徳之島で出会った巨石の線刻画と沖縄・奄美にかつてあった刺青「ハジチ」の文化が気になっている。