子連れ旅も安心なフェリーや、夕日を眺められる絶景スポット、島の暮らしに根付く古典相撲や巨木信仰などなど……多彩な魅力にあふれる隠岐諸島への旅を、地元在住の“島ライター”がご案内。隠岐観光協会のウェブサイト『隠岐の島旅』とのタイアップにて公開します。
取材:川上主税(かわかみ・ちから)
大阪生まれ大阪育ち、隠岐の島町在住2年目。工業高校から初等教育学部へ進学する稀有な学歴を持つ。小学校教諭を経て機械設計に十数年携わる。毎日が単調なサラリーマン人生に終止符を打ち、再び教育に関わることを決意。どうせなら憧れであった田舎で働きたいと思い、2020年1月に隠岐に移住。隠岐水産高校で魅力化コーディネーターとして学校PRや生徒募集を担う。
1200年の重厚な歴史と島らしい個性がひかる隠岐古典相撲の世界へ
隠岐の島町で独特の形を今に残す隠岐古典相撲。長い歴史を持つ古典相撲を知ることで、隠岐の歴史・文化を紐解くカギが見つかるような気がします。そんな隠岐古典相撲について、隠岐も相撲も初心者の筆者が調べて見えてきたものを紹介します。
※ “隠岐”と “相撲”という特性上、独特な言葉が登場します。適宜、こぼれ話を交えながらの脚注を付していますので、そちらも合わせてお楽しみください。
※ 長襦袢……長襦袢(ながじゅばん)と読む。本来は和服の下着として使用されていたものが、時を経てこのように羽織りものとして使用されている。おそらく、最古の“見せる下着”だろう。
島根県内で、最も相撲が盛んとされるのが隠岐の島町。元関脇・隠岐の海を輩出したり、劇団EXILEのメンバー青柳翔主演の映画『渾身 KON-SHIN』の舞台になったりしたことでも知られています。県内で相撲部が現存しているのも、町内にある隠岐水産高校のみです。
全町で行われる相撲大会を「隠岐古典相撲」と呼び、神社の屋根の吹き替えなど、特別なことがない限り開催されない希少価値の高さが魅力のひとつです。他にも思わず誰かに話したくなる特徴がたくさんあります。
終わらない隠岐古典相撲
古典相撲は、陽の沈み始める夕刻前からスタートします。相撲の安全を祈念する土俵祭から始まり、顔見世土俵入りや相撲踊りなどを経て、正式な取組が行われるまでに約5時間。そこから割相撲(※1)、飛びつき五人抜き(※2)が年代別で繰り広げられ、ここまでの前相撲(※3)で約15時間。やっと正五番勝負、番外三役、正三役、つまり本番に続きます。
※1 割相撲(わりずもう)……いわゆる取組のこと。本来、勝負の付かない相撲のことを指すが、互いに敬意を表する、つまり勝負がつかないぐらい相手も強いという意味で、この言葉を使用している、のだと思う。
※2 飛びつき五人抜き……1人が連続5人抜きするまで勝敗が決まらない。要は全然終わらない。
※3 前相撲……四股名のない力士たちが取る相撲。前座のようなもの。
すべての取組が終わるのは、翌日昼過ぎの開始から20時間後。見ている方もヘトヘトになる長丁場ですが、観客はこの間お酒を飲み続けるという荒行を成しえます。
これで終わりではありません。ここから、力士たちの打上げ(※1)が始まります。 神社への出陣式やそれまでの準備、直会(※2)を含めると三日間に及ぶこともしばしば。さらに直会の直会があったりします。隠岐人恐るべし。
※1 打上げ……土俵上に蔦を敷き、力士たちが酒を交わす。後述の柱もこの時に選ぶ。
※2 直会(なおらい)……いわゆる打ち上げ。本来の意は、祭典終了後に御神酒(おみき)などのおさがりを頂くことを指す。ちなみに隠岐では、相撲に限らず行事後の宴会すべてを、なぜか直会と呼ぶ。
隠岐の相撲歴史
相撲の起源は、神代(※)において国譲りの大事をかけて、武御雷神(タケミカズチノカミ)と建御名方神(タケミナカタノカミ)が力比べを行ったのが始まりとされています。 隠岐では、約1200年前に行われた天覧の「相撲節会(すもうせきえ)」がはじまりとされ、江戸時代に社寺の資金集めに行われた勧進相撲を経て、神仏への祈願・感謝を表す現在の形に至ったと言われています。
※ 神代(かみよ、じんだい)……日本神話における時代区分。
神殿物である鏡餅を表現した隠岐特有の「三重土俵」
特別な大会では、全国でも唯一であろう「三重土俵(さんまいどひょう)」と呼ばれる土俵が準備されます。正月飾りの鏡餅を模した形をしており、隠岐古典相撲が神事であることがより強調され、この時は神秘的な空気さえ漂うようです。
これによりステージである土俵が一段と高くなります。普段はサラリーマンや公務員などとして働く男たちですが、廻しを締め三重土俵に立てば、力士としての箔が付き、見る側にも一層の迫力が伝わりそうです。
前回、三重土俵が使われたのは15年も前。これを見ることができれば、超ラッキーです。
特有の地区交流
特徴のもうひとつが、地区対抗戦であること。
日本海の離島でありながら、独特の隆起した地形から、山や川で土地が区切られており、島内で地区がはっきり分かれています。
そのため、同じ島の中にあっても方言や人々の気性、天候までもが多様です。
地区内の強者から力士の代表が選出され、代表同士が相撲を取ります。必然的に、地区意識が高まり、応援が盛り上がり、地区の団結力が高まります。相撲ですが、どことなく阪神タイガースを応援する関西人を彷彿とさせる……。
しかし、地区間が決して不仲なのではありません。それを証明するものがあります。
縁結びの顔見世土俵入り
土俵入りの際には、屋号と四股名と役に加えて、その家の長男か次男以降かで「おっつぁん」あるいは「あんさん」と呼ばれます。例えば「都万(※)に長男であんないい男がいるのか」と、婚姻相手を品定めする場としても機能していたようです。移動手段が未熟だったころは別の地区に、どんな若者がいるのかわからなかったため、若い女性や婚期の娘を抱える家族が、結婚相手を探す機会となっていました。これを縁にゴールインした例も多数あるそうです。最近では「彼女募集中であります!」などとアナウンスされる場合もあるらしく、その名残りをとどめています。
※ 都万……旧都万(つま)村。島の南西部に位置する地区名。
ご縁の国しまねにあっても、これだけ強引な縁結びは他にはないのではないでしょうか。
土俵だらけの島
隠岐の島町には、島根県では出雲大社に次ぐ格式を持つ一宮(※)の水若酢(みずわかす)神社があります。その境内にある土俵をはじめ、20を超える常設土俵が現存しています。近年の少子高齢化や人口減少のあおりを受け、近年撤去された土俵(マップに表れていない)もあり、以前はもっとたくさんの土俵があったと聞いています。
※ 一宮……ある地域の中で最も社格の高いとされる神社のこと。
これだけの土俵を有する地域は全国をみても、隠岐だけでしょう。
いかに相撲が、隠岐の長い歴史の中で大きな意味を持っていたかが、土俵の数から伺えます。
この他にも、「人情相撲」(必ず一勝一負とする)であったり、力士に贈られる土俵の四隅に建てられた柱に跨り、地区の人たちに担がれて家まで帰ったり、隠岐古典相撲は独特のしきたりが見ものです。
相撲開催時期でなくとも、土俵を巡ったり軒先を覗いて柱を探索したりしてみるのも、旅のひとつの楽しみとなるでしょう。
めったに開催されない隠岐古典相撲。しかし、よく見れば町内のいたるところに土俵や柱など、相撲を匂わせるものが散らばっています。隠岐の島町は、流人や世界ユネスコジオパークで有名ですが、相撲の島としても意識しておくと、より深く隠岐の旅を満喫できると思います。
毎年11月3日には、スポーツとしての相撲大会が五箇地区水若酢神社で行われます。かわいらしい小学生から、迫力ある大人までの相撲を、観覧することができます。
また五箇創生館では、隠岐古典相撲や牛突きの資料展示、大型スクリーンでの映像も年中ご覧いただけます。是非お立ち寄りください。
【関連サイト】
五箇創生館|隠岐の島旅