2014年7月18日〜31日に銀座・有楽町界隈の飲食店で奄美黒糖焼酎のPRキャンペーン「奄美黒糖焼酎 島酒Week」を開催。本連載では、奄美大島(あまみおおしま|鹿児島県)に7年暮らすなかで奄美群島の酒蔵をめぐった「くっかる」が奄美黒糖焼酎の魅力をご紹介します。今回は、奄美群島の南部・沖永良部島と与論島で造りにはげむ奄美黒糖焼酎の蔵をご紹介します。
■沖永良部島(おきのえらぶじま)
平坦で川の少ない隆起珊瑚(さんご)の島・沖永良部島。島の各地でクラゴウやホーと呼ばれる泉が貴重な水源として利用されてきました。古くからの水場を冷却水に利用する蔵など、3つの蔵をご紹介します。
■沖永良部酒造株式会社
沖永良部酒造は、沖永良部島の酒造4社による共同瓶詰め会社です。昭和44(1969)年に島内の酒造6社により設立され、現在は徳田酒造(株)、(有)竿田酒造、(有)沖酒造、(有)神崎産業より原酒を移入して製品化しています。銘柄により原酒を使い分け、代表銘柄の「稲の露(つゆ)」のほか「はなとり」などには徳田酒造の原酒を、「えらぶ」や「白ゆり」は竿田酒造・沖酒造・神崎産業の造る原酒をブレンドして使用しています。また、和泊町商工会青年部がサトウキビの刈り取りから焼酎造りまで携わる島内限定販売の銘柄「めんしょり」など、多彩な商品を展開しています。焼酎の製造と瓶詰め販売を分業することで、各蔵は製造に注力でき、全体の経費を抑え、島外での販売力強化が図れるそうです。
■新納酒造株式会社
知名町・田皆(たみな)に酒造場を持つ新納(にいろ)酒造は、大正9(1920)年に創業され平成22(2010)年に創業90周年を迎えた老舗の蔵です。太平洋戦争中に蔵が一度焼失し、戦後米軍政下におかれ物資の流通が制限される中、町有林から木材の提供を受け親類友人の助力で仮工場を建て、手を尽くして沖縄から種麹(こうじ)を取り寄せ、造りを再開。その様子を見た地元の医師が「製品はもとより、この工場の様たるや将に天下一であろう」と称えた言葉が代表銘柄「天下一」(てんかいち)の由来となりました。蒸留後の原酒は、酪農用のミルククーラーを使って冷却し、冷却水には集落に伝わるクラゴウ(暗川)という水源地の水を使っています。
■原田酒造株式会社
原田酒造は、知名町・知名の港近くにあります。創業は昭和22(1947)年、昭和32(1957)年に現在地に移転しました。創業者の原田孝次郎氏は、戦前の昭和4(1929)年に送電を開始した島内初の発電所「沖永良部電気(株)」建設時に現場監督を務め、戦後に戦争で消失した発電所を再建するために私財を投じ粉骨砕身した島の功労者で、『知名町誌』にも記録が残されています。代表銘柄「昇龍(しょうりゅう)」は5年以上熟成する古酒銘柄。5年貯蔵の古酒を代表銘柄としているのは、奄美黒糖焼酎ではこの蔵だけです。ほかに3年貯蔵の銘柄「満月」や、15年熟成の原酒と1983年より樫樽(かしだる)で熟成させた原酒をブレンドした銘柄「バーレル1983」など、長期貯蔵へのこだわりがこの蔵の特長です。
■与論島(よろんじま)
奄美群島最南端の島、与論島。美しいリーフに囲まれた島の南岸からは、沖縄本島が目の前です。琉球文化の影響が色濃く、唄や言葉、祭りなどに琉球時代の名残が息づいています。祭りなどにも欠かせない地の焼酎を造る、与論島に唯一の蔵をご紹介します。
■有村酒造株式会社
奄美群島最南端の与論島で地の酒を造る唯一の焼酎蔵・有村酒造は、港が近く役所や商店などが集まる茶花(ちゃばな)の町中にあります。太平洋戦争後、奄美群島が米軍政下におかれていた昭和22(1947)年に有村泰治(たいじ)氏が「有村泰治酒造」として創業し、日本復帰後の昭和32(1957)年に酒造免許を取得しました。与論島には、「与論献奉(よろんけんぽう)」と呼ばれる独特の焼酎の飲み方があります。
先ず、杯に焼酎を満たし、親(主人)が自己紹介を兼ねた口上(こうじょう)を述べて一息に杯を飲み干します。次に、子(客)に杯を渡し、杯を受け取った子は同じようにして口上を述べて杯を飲み干します。そのようにして、その場にいる全員に杯を回していきます。この「与論献奉」には島の繁栄を願い、客人を歓迎し、真心を献上する意味があるといわれます。皆さんも、与論島へ行くと幾度と無くこの「与論献奉」のもてなしを受けることでしょう。知らない人同士も、杯を交え言葉を交わすうちに、いつの間にか打ち解けてしまいます。代表銘柄の「島有泉(しまゆうせん)」は「与論献奉」に合わせて20度に割り水されたものが主流となっていて、島の宴には欠かせない存在です。
いかがでしたか?次回は、島々のお祭りや伝統行事と奄美黒糖焼酎の関わりをご紹介します。
(文・写真/くっかる)
(「奄美黒糖焼酎の楽しみ方2《応用編》」へ続く)