1549年にフランシスコ・ザビエルが日本でのキリスト教布教を始めて469年となる今年、「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」が世界文化遺産に登録された。世界遺産登録を契機に、長崎県の地元自治体と観光団体が島々に点在する構成資産を巡るツアーを企画。潜伏キリシタンの足跡を訪ね、島々を巡った1泊2日の旅をリトケイ編集部の石原みどりが振り返る。
(レポート記事2はこちら)
写真・文 石原みどり
青砂ヶ浦天主堂敷地内の大天使ミカエル像(五島列島・中通島)
老若男女がレンガを運び、つくりあげた中通島の教会
世界文化遺産構成資産の一つ「頭ヶ島の集落」を後にし、再び中通島(なかどおりじま)へ。島北部の青砂ヶ浦(あおさがうら)に向かった。
青砂ヶ浦でキリシタンが暮らし始めた時期ははっきりと分かっていない。明治政府によるキリシタン禁制の高札撤去(※)が行われた5年後の1878年頃には初代の教会が建設され、以来、上五島におけるキリシタン信仰の中心的な存在になったという。
※キリシタン禁制の高札撤去…1873年、明治新政府による五つの禁令「五輪の道の遵守」「徒党して強訴や逃散することの禁止」「切支丹邪宗門の禁止」「攘夷行為の禁止」「郷村からの逃散禁止」が撤去された
小高い丘の上から大海原を見下ろすようにそびえる、赤レンガ造りの「青砂ヶ浦天主堂」と白いマリア像が私たちを迎えてくれた。
赤レンガと白い窓枠、マリア像の対比が美しい「青砂ヶ浦天主堂」(五島列島・中通島)
赤いレンガ積みを基調とし、部分的に白い石材を取り入れた装飾が施され、赤と白の対比が美しい「青砂ヶ浦天主堂」は、2010年に献堂100周年を迎えた。「頭ヶ島天主堂」をはじめ、明治から昭和半ばにかけて数多く教会建築を手がけた名工・鉄川与助氏の教会建築3作目だ。
現在の教会堂も3代目にあたる。青砂ヶ浦の教会は、はじめ小さな集会所のようなものだったが、大規模な教会堂を建設するにあたり、当時の神父が海外から原書を取り寄せ、正統的な西洋建築様式を研究したという。
「頭ヶ島天主堂」は信者が自ら切り出した砂岩で建造された。ここ青砂ヶ浦の場合は、佐世保からレンガを、木材は平戸から、石材は頭ヶ島から船で運び集め、港から丘の上までは信者たち老若男女が自分に見合った数のレンガを背負うなどして、資材を運び上げたという。敷地内の休憩所には、信者が総出で教会堂づくりに奉仕した当時の様子を伝えるモノクローム写真が展示されていた。
濃淡の異なるレンガと砂岩、瓦屋根の教会堂
頭ヶ島から運ばれた砂岩を使い、葡萄があしらわれた正面玄関アーチの装飾
100年以上前のレンガの焼き色は一定ではなく、細かな濃淡が味わい深い。壁面は濃淡の違うレンガが組み合わされ、濃色のレンガでラインを描き、レンガの凹凸を装飾的に配置するなど、素材を活かす工夫が感じられる。
正面玄関アーチには頭ヶ島産の白い砂岩が使われ、柱頭に葡萄の装飾が施されている。キリスト教では、葡萄を原料に造られる赤ワインがキリストの血の象徴としてミサの場で捧げられるなど、葡萄は聖なる植物とされている。
屋根に使われているのは日本式の瓦。当時の島で手に入るものを使い、精一杯、理想の教会堂をつくりあげたのだろう。
レンガ造りの建物に瓦葺きの屋根が乗せられている
潜伏時代を終え、建立された教会堂
2001年に国の重要文化財に指定された「青砂ヶ浦天主堂」は、2007年にユネスコの世界遺産暫定一覧表へ記載された「長崎の教会群とキリスト教関連遺産」の構成資産にも含まれていた。
2016年にユネスコの諮問機関であるイコモスの「禁教の歴史に焦点を当てるべき」との提言を受け、構成資産の見直しにより、「世界遺産の構成資産と一体的に保存・継承していく資産」として位置付けられている。
「頭ヶ島天主堂」(1910年献堂)しかり、「青砂ヶ浦天主堂」(1919年献堂)しかり、明治時代に入り1889年に信仰の自由を明文化した大日本帝国憲法が発布されて以降の建築物である。立派な教会堂は、キリシタンであることを隠し弾圧に耐え忍んでいた禁教時代の信者たちには、望めども手の届かないものであった。
この夏に世界文化遺産登録された「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」の構成資産に含まれる教会群の中では、唯一、幕末の1865年に献堂された「大浦天主堂」(長崎市)が教会堂単体で登録されている。
しかしこれは、日本開国後に貿易のため居留地に暮らすようになったフランス人たちが建立した教会堂で、日本人信者のためのものではなかった。
「大浦天主堂」が完成してまもなく、浦上村の潜伏キリシタンが訪れ、フランス人神父に信仰を告白した(信徒発見)ことから、潜伏が終わるに至った転機を示す資産として「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」の構成資産に位置付けられた。
なお、潜伏が終わってから建立された「頭ヶ島天主堂」は「頭ヶ島の集落」に含まれる形で、潜伏キリシタンがどのような場所を選んで共同体を維持していたのかを示すものとして構成資産に位置付けられている。
それぞれの歴史を秘める集落の教会群
移動の車中から夕陽に輝く東シナ海を望む
夕刻が近づいていた。小値賀島を目指し、中通島北端の津和崎港に向けて車を走らせると、山の中腹にある教会堂が次々と目に飛び込んでくる。
ガイドの入口仁志さんが説明する。
江戸時代後期に外海から五島に移り住んだ潜伏キリシタンの多くは、先住民との争いを避け、人の住まない崖地に集落を形成した。
明治時代に入る頃からカトリックの再布教が始まり、潜伏をやめてカトリックに合流したキリシタンたちは、自らの信仰の証として教会堂をつくり上げた。
道路やトンネルのなかった時代、急斜面の崖地に点在するキリシタン集落を行き来するには、海伝いに船で渡るか厳しい峠道を越えるほかなかったため、それぞれの地元に教会が必要とされたのだという。
荘厳な「青砂ヶ浦天主堂」に比べて、点在する集落の教会堂はこぢんまりとして可愛らしい。入口さんが事務局長を務めるNPO法人長崎巡礼センターの「五島巡礼 五十三カ所巡礼マップ」に目を通し、教会堂や巡礼地の写真一つひとつに添えてある説明を読む。
鉄川与助の出身地・丸尾には「丸尾教会堂」があり、その近くの冷水(ひやみず)に鉄川与助が初めて設計施工を手がけた「冷水教会堂」がある。大水集落では、明治初期に起きた大規模なキリシタン弾圧「五島崩れ」で付近の集落が迫害を受けた時も、存在を気づかれずに潜伏が続けられた。その後「大水教会堂」が建立されている。
何気なく見える集落の教会群それぞれに、深い歴史が秘められていることを知った。
(レポート記事4に続く)
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青砂ヶ浦天主堂
(南松浦郡新上五島町奈留郷1241)
名工・鉄川与助の設計施工、信徒が総出でレンガを運び、1910年に建立された。2001年に国の重要文化財に指定。2010年に献堂100周年を迎えた。内部の撮影は不可。
【関連サイト】
長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産
東京在住、2014年より『ritokei』編集・記事執筆。離島の酒とおいしいもの巡りがライフワーク。鹿児島県酒造組合 奄美支部が認定する「奄美黒糖焼酎語り部」第7号。著書に奄美群島の黒糖焼酎の本『あまみの甘み 奄美の香り』(共著・鯨本あつこ、西日本出版社)。ここ数年、徳之島で出会った巨石の線刻画と沖縄・奄美にかつてあった刺青「ハジチ」の文化が気になっている。