島農業のサポートやビジネス支援など、島農業を支援する「新島村ふれあい農園」。その中心として活躍されている小林恭介さんに、新島の農業についてお話を伺いました。
新島の産業において、農業の占める割合は全体の約3%。平成18年1月から12月の生産額は約8,500万円で、就業者数は全就業者数1,625人の2%にも満たない30人だそうです(平成17年国勢調査より)。
新島における産業として見た場合、その数値は非常に微々たるものと言わざるを得ません。しかし、それは産業として捉えた場合であって、実際には自給を目的とした農業を行っている人々はとても多いそうです。
新島村では、そんな島民の方々を支える営農支援や、島外に新島産の作物をより多く出荷できるようサポートするビジネス支援など、新島村ふれあい農園という施設を通じて、さまざまな取り組みを行っています。
同園の担当者であり、島内の農業関係者をつなぎ、その中心として活躍されている小林恭介さんに、新島の農業についてお話を伺いました。
■Page.1 サツマイモが変えた食糧事情
– 新島ではどんな作物が育つんですか。
小林さん:昔はサツマイモと麦が中心でした。
というのも、新島の土って触ってもらうと分かるんですが、砂浜みたいなんですよ。
– ホントだ。すごいサラッとしていますね。
小林さん:そう。だから、水をためられないので、
水田にできず、お米をつくれないんですね。
そういった理由から、新島では古くからお米無しの生活で、
そのお米に代わる主食とされてきたのが、麦であったり、サツマイモでした。
特にサツマイモは1935、6年、八代将軍・吉宗のときに
新島に伝わってきたんですけど、それによって、この島の食糧事情が劇変するんです。
当時は飢饉が非常に多かったんですが、
サツマイモの登場で食糧事情が安定しました。
麦はもっと以前から島に入ってきていたのですが、
サツマイモが入ってきたことで、5月から6月にサツマイモの苗を植えて、
11月に収穫、その後麦の種を蒔いて5月くらいにまた収穫できるという
サイクルが可能になりました。
しかもサツマイモは、当時大奥などでお菓子の材料としても
使われる貴重な食料だったので、島にとって大切な出荷作物にもなったんですよ。
– 今でも麦やサツマイモが多いのですか。
小林さん:いえ、麦とサツマイモのサイクルは昭和35年くらいから
40年くらいまで続いていたのですが、
その後、現金収入がだんだん入るようになっていったことで
麦は徐々に作られなくなりましたね。
ただ、今でもサツマイモはつくられていて、
麦の代わりに玉ねぎとかをつくっています。
新島は水はけが良いので、甘くおいしい玉ねぎができるんですよ。
– ほかにはどんな作物があるんですか。
小林さん:あとはこの時期だと、白菜とかブロッコリー、
カリフラワー、三つ葉、小ねぎとかがありますね。
-いろんな品種がありますね。
小林さん:新島の畑って、見てもらえるとわかるんですが、すごく狭いんですよ。
新島は寒くなると西風が強く吹くから、畑の表面の土がもっていかれちゃうんです。
環境問題の本なんかにも書いてあると思うんですが、
地球上の植物を育てている土って表面のすごく浅い部分しかない。
本当に数十センチしかなくて、それが飛ばされてしまうと、
生産能力がガクッと落ちちゃう。
しかも、その数十センチをつくるためには、何万年、何億年って時間が必要とされる。
だから畑にとってすごいダメージを受けるんですよ。
それを防ぐために畑の周りを木で覆うことで、畑の面積が狭くなってしまうんです。
その狭い面積のなかで、自給的な農業を行うので、少量多品種という傾向がありますね。
■Page.2 地元にある宝に目を向けよう
– ふれあい農園は、そういった農業をされている方々をサポートする施設なんですか。
小林さん:そうですね。この施設の目的の一つは、農作物の苗の地域への供給です。
– 苗ですか。
やっぱり健康で丈夫な良い苗でないと、どんなに頑張ってもその後の成育ってうまくいかない。
だから苗づくりって、農業をやる方はとても大切にしている作業なんです。
その大切な作業をこの農園でやって、みなさんに供給しています。
そういう意味では、新島の農業の基盤となるところを支えているんですよね。
– そういったサポート以外に、作物の島外への出荷などもされているんですか。
– なぜ、島外に向けた出荷を確立しようと思われたんですか。
小林さん:地元にもともとあるものに宝があるんじゃないかと、
そこに目を向けようと思ったんです。
– 同感です。そういうところをみんなに伝えていきたいですよね。
島外だけじゃなくて、島のなかの人にも気づいてもらいたい。
小林さん:そうそう。アメリカ芋も玉ねぎもそうなんだけど、
みんな作っているんだけど、売ってないんですよ。喜ばれるからって、
親戚とか孫とかに送ったりしちゃうんですよね(笑)。
だから、そういった作物を出荷できるよう、今プロジェクトを組んで進めています。
アメリカ芋や玉ねぎ以外にも、ニンニクとからっきょなどもやっていますね。
– 農業などで、島外に出荷・販売できるシステムが確立されていくと、
島で生活しやすいですよね。
小林さん:うん。ただ、なかなか農業だけで食べていくのは難しい。
それでも農業が収入の補てん的な作用を果たせると面白いですよね。
どこの地方に行ってもそうだと思うんですが、
やっぱり地方は公共事業をすごく大事にしてきた時代があって、
今でもそういうところはあると思います。
離島も、離島振興法を一つの支えとしてやってきた部分がある。
それは否定できないし、これまで生きてきたなかで、すごく重要だったと思います。
でも、今みたいに時代が変わってくると、仕事がなくなり、確実に収入が減る。
日曜日でも仕事をしていた人が、必ず休みになってしまう。
休みで良かったって思うかもしれないけど、減った分の収入はどこで補うのか。
それを農業で補てんできればいいなって思うんです。
■Page.3 豊かさを生む、持ちつ持たれつの関わり
– 島外から来て農業をされている方とかもいらっしゃるんですか。
小林さん:いますよ。ブルーベリーをやっている方とか、
明日葉をやっている方とか。
ブルーベリーをつくっているのは橋本武さんという方ですが、
50代で新島に来られて、最初漁師をしていたんですけど、
10年くらい前の大地震を機に農業に転向して。
ブルーベリーのジャムをつくって、東京で販売したりしているんですが、
これがおいしくて、好評なんですよ。
結構、Iターンの人の方が思い切りがいいのかもしれませんね。
– それは、島のなかで育った人は、周りの人との関係性もあるからだと思います。
やっぱり急に思い切ったこととか、やりにくいですよね。
小林さん:やっぱり周りの目って気になりますからね。
新島は流人の島なんですけど、流人は、この島で大きな役割を担っていたんです。
異文化を島に持ち込むので、島にいながらにして異文化交流するんですよ。
場合によっては技術の伝道者だったりしてね。
そうすると、もともと島に住んでいる人たちは、少なからず影響を受けて、
何らかの化学反応が起きる。そこから新しい価値が生まれてきたりするんです。
だから、外から来た人には、積極的に動いてもらいたいって思いますよね。
– 小林さんはもともと新島のご出身なんですか。
小林さん:僕は 10年くらい前に新島に来たんですけど、
出身は長野です。流人みたいなもんです(笑)
– 島に来られたきっかけは何だったんですか。
小林さん:農業関係の大学出て、ここに来る前は大学院にいました。
それで大学院修了した後で、研究職に行こうか迷っていたんですね。
でもやっぱり自分はフィールドの人間だと思っていたから、
現場に出られるところを探していたんです。
そのとき、たまたま僕の知り合いの先輩に会う機会があって、
そこで声をかけられたんです。新島に行ってみないかと。
実際に来てみたら、土はきれいだし、いいところだなって。
じゃあ、新島でもいいかなって(笑)
– 最初からふれあい農園に入られたんですか。
小林さん:そうそう、ここをやってくれる人が欲しいっていうことだったんです。
– あ~なるほど。
農園で実際に生産者の方たちと接していて、感じることなどありますか。
小林さん:僕がこの島に来て、ここで働いていて、すごく学んだことは、
貨幣経済じゃない物々交換の経済が残っているんだなってこと。
一つのコミュニティに加わっていると、自然にモノが流れてくるんです。
その持ちつ持たれつの関わりって、とても豊かなモノをつくってくれている気がして。
やっぱりみんな、いい顔しているんですよ。
おじいちゃん、おばあちゃんとか、足を引きずりながら手押し車で農園に来るんですけど、
「生きがい」だからって、すごいいい笑顔なんですよ。
そういうのっていいなぁって思います。
ただ、島のなかで暮らしていくのにあまりお金が必要なくても、
子供がいれば教育費がかかったりして、いろんなところで現金収入は必要になる。
そういった部分を島外出荷などで補いつつ、
この島の農業がもつ、物々交換的ないいところは残していきたいんですよね。