東京には、奄美群島の出身者や2世、3世、さらには奄美ファンら約700人が一堂に集うイベントがあります。それが東京奄美会の大運動会です。2024年10月中旬の秋晴れの日、都内の小学校で5年ぶりに開かれたイベントに参加してきました。
(取材・文:吉沢健一)
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人は誰でも、自分が立ち戻れる安全な場所「コミュニティー」に属していることが必要だと考えています。遠く島を離れ、地理的なコミュニティーに属せなかった奄美出身の人々が、知り合いの少ない都会で追い求め、心の拠り所としてきたが「郷友会」という形のコミュニティーでした。
都市で長年かけて構築されてきたこの目に見えにくいコミュニティーは、多様な人々が集う都市という寛容性と時代の変遷の中で、出身者だけでなく、都会で生まれ育ち、奄美をよく知らなかった2世、3世、そして奄美に血のつながりがない奄美ファンも含めた人々を内包しつつ、新たなコミュニティーへと変化していく時代となったのかもしれません。
まさしく老若男女などさまざまな人々が参加し、笑顔に溢れた大運動会というイベントにその萌芽があったように感じました。
心の拠りどころとしての「郷友会」
奄美群島は、奄美大島や喜界島、加計呂麻島、与路島、請島、徳之島、沖永良部島、与論島の8つの有人島、12市町村からなります。群島の総人口は、1950年の22万人をピークに年々減り続け、現在は約10万人を切りました。
毎年、若者たちは高校を卒業すると進学や就職のためそれぞれの島を出て、東京や大阪、鹿児島などの都会へ旅立ちます。早い人では中学校卒業のタイミングも。そしてそのまま、島には帰らず本土に留まる人も少なくありません。
島の出身者とその子供たち(2世)、孫たち(3世)、ひ孫たち(4世)などを合わせると、全国(奄美群島以外)で奄美の血を受け継ぐ人々は数十万人規模になるとも言われています。この中には国会議員になったり、社長として企業を大きく育てたり、著名なスポーツ選手や芸能人、学者になったりと、各界で活躍している人も少なくありません。
島から遠く離れた都会で世間の厳しさを知り、激しい競争の中で暮らしていく苦労と喜びを知る。そんな島出身者たちが心の拠りどころとしてきたのが「郷友会」、「郷土会」という集まりでした。「奄美出身者としてお互いに励まし合い、助け合ってきた」と長年に渡って郷友会に関わってきた人たちは言います。
かつては、島出身者というだけで都会でコンプレックスを感じることもあったとのこと。島の方言が残り、共通語も上手に話せない。「何くそ負けてたまるものか」という反骨精神を示す「ストグレ」という言葉が奄美大島にありますが、まさに島出身者たちは「ストグレ精神」で闘い、自分の立場を都会に必死で築いてきたのです。
全国各地にはたくさんの奄美群島の郷友会がありますが、やはり大きな郷友会があるのが関東と関西地方です。関東では8島12市町村それぞれの郷友会のほか、各市町村内の地区・校区ごとの郷友会も活発に活動をしています。
さらに関東地区にあるそれらの郷友会をまとめる「東京奄美会」があります。創立は明治32(1899)年1月ですから、文壇では夏目漱石、経済界では渋沢栄一が活躍していた時代。それから現在まで125年という長い間、何世代にもわたって島人たちが集ってきました。
東京の奄美群島関係者などが集って5年ぶりの大運動会
10月中旬の雲ひとつない秋晴れに恵まれた日、東京都北区の東十条小学校の校庭に約700人もの奄美の人々が集いました。東十条小学校は、与論島出身者が1969年に校長に就任したことが縁で、今でも与論町の小学校との交流が続いているそうです。
参加者は、奄美群島12市町村の出身者だけでなく、都会で育ったその子供さん、お孫さん、ひ孫さんと何世代もの家族たちです。そして奄美とも血のつながりはないけれども、奄美を旅行で訪れ、また奄美の島唄や歌手を通じて「奄美ファン」になった人たちもチームの一員として参加しました。
大運動会は十数年前から2年に一度開催していましたが、コロナ禍などの影響を受けて今回が2019年以来、5年ぶりの開催となりました。
東京奄美会の宮地正治会長(奄美大島・瀬戸内町出身)は、「ストグレ精神でみなさんの本領を発揮してほしい」とあいさつすると、大運動会が開幕しました。かつては話すのも恥ずかしかったという島の方言「島口」も、今では島出身者としての誇り。まずはこの島口によるラジオ体操を全員で体を温めると、会場は一気に和みました。
チーム構成は、▽喜界・笠利・龍郷▽名瀬・住用・大和・宇検▽瀬戸内▽天城・徳之島・伊仙▽沖洲(沖永良部島)・与論▽鹿児島県人会連合会の5チーム。この5チームが各競技で競い合いました。
ナリ(奄美大島の方言で「ソテツの実」)をカゴに入れて速さを競うレースや、「桜島と与論島で面積が大きいのはどちらか?」など奄美に関する○×クイズ、ヤマシー(奄美大島の方言で「イノシシ」)の形をした俵を担いでトラックを一周するレースなど奄美らしい競技も盛り沢山です。
最後のチーム対抗の大綱引きでは、選手を取り囲んだ各チームの応援の下で熱戦が繰り広げられ、大勢の笑顔で溢れていました。「そのまま島の運動会が東京で再現されているね」と島出身者も嬉しそうに話しました。
これまで島に興味のなかったという2世・3世も参加
大運動会で盛り上がりましたが、一方で近年は各郷友会も時代の変遷に直面しています。それが会員の減少です。高齢化が進み、若い人の参加が少なくなっているのです。今年に入ってからは、70年以上にわたって続けてきたけれど、解散した校区の郷友会もありました。
生まれも育ちも東京の30歳で、祖父が与論町出身の奄美3世だという叶あゆみさんは、「ずっと奄美のことはほとんど興味がありませんでしたが、30代近くになって自分のルーツであるおじいちゃんの島が突如気になるようになり、奄美の行事に参加するようになった」といいます。
「奄美をルーツにする人々が集う大運動会が東京にあることが不思議で、とても素敵。都会でもう一つのコミュニティーに加えてもらったような親しみを感じた」と楽しそうに話します。
奄美では、集落やコミュニティーのことを「シマ」と呼びます。例えば、奄美の島唄は「シマ唄」と書き、それぞれの集落の唄のことを示します。郷友会は、100年以上に渡って都市に存在した「シマ」というもう一つのコミュニティー、島でもあったのだと思います。
与論島出身で30代の鬼塚由麻さんは、「郷友会に島から出て来たばかりの出身者、2世、3世の若者たちも参加できるような雰囲気づくりをしていきたい」と話します。例えば、関東在住の与論島出身者を中心に設立されたサッカークラブ「FC与論Tokyo」は、昨年度から東京都社会人サッカー連盟4部リーグに参戦しており、若者たちの新たな拠点ともなっています。
東京で生まれ育った奄美2世で、今や郷友会の運営にも積極的に関わっている男性は、大運動会を眩しそうに眺めながら、「私もそうだったが、幼い頃にこうやって両親に連れられて参加した大運動会の楽しい記憶を、いつか大人になって思い出すことがある。その時に自分の中で眠っていたルーツや仲間たちのことを大切にしたくなる。そんな時のためのイベントだと思う」と話していました。
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(取材・文:吉沢健一)