雅びな横笛の音と太鼓のリズムにあわせ、赤鬼と青鬼が勇壮に舞う小倉鬼太鼓。この伝統ある鬼太鼓を伝え継ぐ場だった小倉小学校が2013年3月に閉校したことで、島の子どもたちの鬼太鼓の継承に向けて集落が動き出しました。タブロイド版『季刊リトケイ』9号に掲載された「佐渡ヶ島の祭り」の続編を3回に渡り連載します。
総代・中村邦彦さんに聞く― 地域と共にある小倉物部神社の祭り ―
祭りには地元と島内他所から約300人集ってくる(photo:華)
佐渡ヶ島の小倉集落にある「小倉物部神社」は、物部氏(もののべし)ゆかりの神社だ。722年(奈良時代)に朝廷の官史・穂積朝臣(ほづみあそみのおみ)が佐渡へ配流された際、物部氏の先祖「宇麻志麻治命」を祀り建立したと伝えられている。静かな山里の中で荘厳な雰囲気を放つ物部神社は、現代でも集落の行事や祭りの中心だ。
連載第2回目は、年間行事を取りまとめる、総代・中村邦彦さん(69歳)に物部神社の伝統行事について聞きました。今回は全編中村さんの語りでお届けします。
■かつて神社は4社あった
物部神社で行われる4月15日の「例大祭」は、1年で1番大きい祭りです。祭りで舞う鬼太鼓の太鼓は、小倉の場合は4つあります。これには意味があって、かつてこの集落に神社が4つありました。物部神社と、八幡(はちまん)神社と、白山神社が2つ。それが昭和32年に統合されて、格が上の物部神社を残したわけです。鬼と横笛が一緒になった1つの太鼓のまとまりを“唐(から)”と数えます。1唐の人数は15人程度。それが4唐あるから、祭りを実行するにはそれなりの人数が要りますよね。
鬼太鼓に横笛の音が入る地域は、小倉のほかに松ヶ崎、岩首、赤泊などがあります。これらの集落は、小佐渡山脈の越後が見える海岸沿いにあって、その辺りの海岸を“前浜”と呼びます。日蓮上人も世阿弥も、佐渡に配流されたとき前浜に流れ着いた。前浜から小倉峠を通って古刹・長谷寺まで続く道の途中に小倉集落があるわけです。ここが文化の通り道です。だから前浜と小倉の鬼太鼓は少し似ていますよ。
■神社に伝わる様々な年間行事
お話を伺った 総代・中村邦彦さん
神社の長は宮司さん。その下に年間の様々な行事を取りまとめる、6人の責任役員と10人の総代がいました。それがそんなに人がいないと2012年からガクンと減らし、責任役員3人と総代が3人で合計6人になりました。6人の中の責任委員長が私です。大変というより、寂しいよね。
年間の行事は3月に記念祭、4月に例大祭、7月に乙祭り(おとまつり)、かつて乙祭りは八幡神社の祭りで、市が立って賑やかだったと聞きます。そのあと9月に藤源(とうげん)祭り。11月に新嘗(にいなめ)祭。2011年まではこのお祭りをすべてやっていました。でも人手がいるし、維持するのが大変だといって、今は3月の記念祭と4月の例大祭、11月の新嘗祭だけ。宮司さんに一年の豊作を祈願してもらい、収穫が終われば一年のお礼をする。執り行う意味があるから、本当なら簡略化するのは罰当たりなわけです。
■これからは御神輿も担げる祭りに
クライマックスが近づくと、獅子と鬼は寄せ引き合いをしながら神社に宮入りする(photo:華)
そうそう、御神輿もあるんです。神社の隣の建物にずっと仕舞いっぱなしだった。何トンあるのかなぁ。僕の小さい頃は若い人が担いで、太鼓を叩いて着飾って、御旅所(おたびしょ)まで稚児行列がずっと続きました。本当は伝統ある小倉の御神輿も、外に出して皆さんに見せたい。だけど人手がいなくて出せない。せめて祭りの間だけでも、扉を開放して御神輿を皆さんに見てもらおうと思ってね。
豪奢な御神輿は3基ある
いまは地方にUターンする人があまりいないのかわからないけれど、小倉の場合は祭りのために帰ってくる人もずいぶんいるんですよ。祭りがなければ、ふるさとに帰ってこようと思う人がいないかもしれない。そのためにも祭りは必要だし、できれば今の規模を維持して、昔のように神輿が担げるくらい活気ある小倉になってほしい。それが僕らの望みです。
次回は、地域のシンボルである小倉千枚田と旧小倉小学校のお話です。
(文・写真/古玉かりほ)
〈つづく〉