つくろう、島の未来

2020年10月29日 木曜日

ある日、「おばあちゃんの暮らす島に行きたい」と訴え、宮古島(みやこじま|沖縄県)の高校に留学した東京育ちの次女とのやりとりを綴るミャークピトゥ(宮古人)ライター・宮国優子さんのコラム。
現在次女が故郷の宮古島に島留学中の宮国優子さんによる、子どもを島留学に送り出した親としての体験記、第3回は道具にまつわる島の諺(ことわざ)から島の価値観を紐解く記事後編です。
記事前編はこちらから)

親元から離れるということとは何か?

娘が宮古に行きたいと言ったとき、自分の高校時代が頭にかすめました。そして、そりゃそうだよな、とも思ったのでした。中学生にもなると、もう大人の階段を上り始めているし、子ども扱いされるのは嫌かもしれないと……。

そこでしばし、自分のことを振り返ってみました。

宮古島には大学がないので、18になれば自動的に島外に押し出されていきます。島の多くの親は「戻ってくるとしても島からは一度くらいは出た方がいい」と考えるのは、「ヤラビ ア ツウコードゥ パダ(子どもは使えばよくなる)」が根底にあるからでしょう。「どんな経験も財産」という考え方でしょう。今ならわかりますが、子どもの頃はその「お使い」の多さにうんざりしていました。

私自身が18歳で島を出た先はアメリカでした。アメリカを選んだ理由は、思春期のめんどくささよろしく、宮古島から1ミリでも遠いところに行きたかったからです。

母からは将来のことを何度も聞かれましたが、何も考えていなかったので適当に答えていました。ただ「書く仕事に携わりたい」とずっと思っていたので、そう伝えました。当時、島にそんな仕事をしている女性は当時ほとんどいなかったのだと思います。母から見ると、無謀なことを言う私に対して、対処のしようもなく一人で考えるのは心細かったのだと思います。今思えば「親の心子知らず」です。

私は自他共に認める「メンタル強め」ですが、この私ですら、子どものことはどうしても神経過敏になってしまいます。時には、自分を見失うほどです。

また母は戦中生まれで、子どもの頃からアメリカの影響を強く受けていますし、日本の社会や学歴については情報不足でした。それを利用して、私は「一年後には沖縄に帰る」という約束をあっさり反故にし、その後も島には(定住という意味で)戻ることはありませんでした。仕事や結婚、離婚も事後報告という一見ドライな娘ですが、母に理由を説明しても「うわがどぅ しゅしゅう(あなたが決めたんだからいいんじゃない)」という返事でした。

宮古島から離れたい一心の若い私でしたが、今は母を含め、島を考えないことは一日もないといっても過言ではありません。そして「あぁ、島や家族は遠くにあるのではなく、自分の中にあるんだな」と思うのです。そう考えると、手こずっている娘の心の中や考え方には、私が強く影響しているのかもと考えました。

そして、じっくり娘と話しているうちに確信に変わりました。それなら、時間はかかるかもしれないけれど、とやかく言わず信頼して見守ることにしました。

「教育や仕事って、なんだろう」と娘と話してみた

先日は、娘と「島留学後の進路をどうするか」というトピックでもめました。新型コロナで私が宮古行きを自粛していたということもひとつの要因だったと思います。面と向かってじっくり話せないのは、結構な痛手でした。

娘は私が「すんなり良い大学に行って欲しい」と思っていると考えていたようです。東京にいる彼女の友人の親たちもそう言っているそうで、娘はその状況にとても反発していました。

けれど私は「やる気もない人にお金も時間もかけたくない」派。それよりも「自分が夢中になれるものを一生学び続けて欲しい」と伝えました。

さんざん話して、娘は最終的に「進路はわからない」と答えました。私はそれでいいと思っています。ですが「【わからないこと】と【学ばないこと】はイコールではないから、勉強して準備しておけば」ということになりました。

私にとっての一番の驚きは、娘の言葉の端々から感じたネガティブさでした。娘はスクールカースト、学歴格差について敏感でした。彼女は同調圧力に押しつぶされて、その考えの一部を主張する側に回ってたんだなぁ、と。

彼女のなかでは東京の学校と島の学校を比べ、どっちがどっちだという感情も生まれていたようですが、私には比べる意味がよく分かりませんでした。同時に、娘たちは子どもの頃から均質的な集団に慣れてきたのだな、とも感じました。

保育園から高校まで、ずっと学校が同じの友だちはいませんし、年齢が上がれば上がるほど、受験などで、さらに均質化した世界に入っていきます。だからこそ、微差が気になり、スクールカーストのようなことに神経をすり減らすのかもしれません。「友だちにどう見られるか、思われるか」という視線の重さは、私にはないものでした。

宮古島で育った私が東京に来てよく理解できなかったのは、その小集団、いわゆる派閥的なもの。島にもあると言えばありますが、どちらかといえば一対一の人間関係の方が影響は大きいと思います。

そして、人間関係や集団に繊細なことは決して悪いことではありません。それが社会を生き抜くためには自分を守ることにもつながると思うからです。

ですが、島の高校は「東大へ行くようなエリートから、勉強を放棄して遊びまくる子」まで、極端なくらいレンジは広いのです。娘の考える常識から枠外の子もたくさんいます。
そして、多分、その一人ひとりと密に付き合おうと思えば付き合えます。ある意味、多様性ともいえるその環境は東京の学校ではなかなか味わえないことだと思います。今回は「教育や仕事」に対して、どう考えているか、前提も含め、親子で言語化する良い機会になりました。

島留学後の進路もとりあえずは、「いつも自分の頭も心も手入れしておく=勉強は日常的にしておこう」になりました。そして「仕事はそれと同時についてくるもので、人から与えられるモノではないのでは?」と。「ドゥー ア ツコウドゥ パダ(道具は使うほどよい)。」と同じ考え方です。

「勉強は別にしたくはないが、今いる友だちと高校の3年間を過ごしたい」という娘に「あなたにとって、勉強より仕事より大事なモノってあるのかもしれないね」という話にもなりました。

自分を道具のように日々、丁寧に磨き上げる心があってこそ、良き友人に恵まれるのだと思います。まずは、自分が相手の良き仲間、友人でいれるように、頑張って欲しい。何があっても一生付き合える友人を一人でいいから見つけて欲しい。できなかったとしたら、また違う世界に飛び立てばいい。

娘の「今いる友だちと高校の3年間を過ごしたい」という言葉に私はどこかホッとしました。実は勉強よりもそのことの方が大事なんじゃないかな、と思うからです。それができる島留学は、良い意味で究極の親離れ装置であり、友だち養成ギプスかもしれません。

離島経済新聞 目次

寄稿|宮国優子・ミャークピトゥライター

宮国優子(みやぐに・ゆうこ)
ミャークピトゥ(宮古人)ライター、プランナー。米国統治から本土復帰の前年である1971年(昭和46年)に旧平良市に生まれる。東京在住。宮古毎日新聞東京支社の記者として取材をしたり、宮古島のことを聞かれたりするうちに、島についての知識のなさに我ながら愕然。2002年に島とつながる友人たちと『読めば宮古!』(ボーダーインク刊)を出版。3人娘の次女が故郷の宮古島に島留学中。

関連する記事

ritokei特集