2018年、ユネスコの世界文化遺産「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」に登録された黒島(くろしま|長崎県佐世保市)。島のシンボル「黒島天主堂」だけではない、じんわり温かな魅力があふれています。
させぼ黒島便りでは、黒島に暮らす3人が“島の住民だからこそ知っている島の魅力”を、様々な角度からご紹介。第5回目は島に嫁ぎ、島のカフェで島の魅力を伝える山内由紀さんが、ユネスコの世界文化遺産に登録された「黒島の集落」を案内します。
世界文化遺産「黒島の集落」とは? 8集落の名前と特徴
こんにちは山内由紀です。
今年7月に「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」として「黒島の集落」がユネスコの世界文化遺産に登録されました。今回は、そんな「黒島の集落」について詳しく紹介します。
前回の記事で「黒島は人口約400名のうち8割がカトリック信者」と紹介しましたが、黒島ではカトリック教の家系と仏教の家系が、集落ごとに分かれています。
黒島にある集落は8つ。そのうち、蕨(わらべ)、田代(たしろ)、名切(なきり)、根谷(ねや)、日数(ひかず)、東堂平(とうどうびら)の6集落にカトリック信者が暮らし、本村(ほんむら)、古里(ふるさと)の2集落に仏教徒が暮らしています。
黒島を描いた「くろしまっぷ」
「本村」は島の北側で港があり、平戸が見える位置にあります。最初に黒島に人が住んだ場所で「もとの村」に由来。明治時代までは村役場、郵便局など行政はすべて本村で行われていました。本村には神社とお寺があり、お寺は曹洞宗の「興禅寺」で、「黒嶋神社」は平戸にある志々伎(しじき)神社の分社になります。
現在は公園になっている本村集落の庄屋跡
「蕨」はその名の通り、昔、わらびがたくさん採れたことが由来とのこと。「わらび」がなまって「わらべ」となったそうです。
蕨展望所
「田代」は昔、田んぼが多くあったといいます。
黒島天主堂がある「名切」の地名には、港から進むと断崖に行きあたって先に進めない(=行き止まり)という意味があるそうです。
「根谷」は島の南側にあり、とても暖かい場所です。かつて黒島で放牧されていた馬たちが冬場になると、暖かい根谷によく集まってゆっくり昼寝をしていたというのが地名の由来です。現在でも朝日がよく当たり農作物の成長が良好で、根谷のとうもろこしは甘くて美味しく、黒島のジャガイモやタマネギと並んで有名です。
根谷のとうもろこし
このように各集落にはその場所に関連する地名がついていて、集落の中でさらに「字(あざ)」や「小字(こあざ)」が細かく分かれています。昔は番地がなかったのでそれが住所の変わりだったのでしょう。字、小字にもやはりその土地の印象が名前になっているようで、例えば、黒島の港は「白馬」と呼ばれていますが、それも黒島が放牧場だった頃、港にいつも白い馬がいたのでこの地名がついたと言われています。
世界文化遺産「黒島の集落」の足跡。放牧場から潜伏キリシタンの島へ
江戸時代、黒島は平戸藩の放牧場でした。1802年に放牧場の廃止が決まり、平戸藩以外の藩からでも移住が認められるようになりました。
ちょうどその頃、大村藩が外海(そとめ)地区から五島への移住を推進。その流れで黒島へ上陸した人たちが、いわゆる「潜伏キリシタン」です。
黒島の北側にある本村集落にはすでに仏教徒たちが住んでいましたから、潜伏キリシタンたちは島の南側にある蕨辺りの崖から上陸し、隠れるように家を建て始めました。
潜伏キリシタンたちは海側から家や田畑をつくりはじめ、家の周りには成長が早いアコウの木を防風林として植えながら、島の内陸へ向かって開拓を続けていきました。その結果、本村の集落では家が道路から見える場所にまとまっていますが、潜伏キリシタンたちが暮らす集落の家は道路から奥まったところに分散した状態になったのです。
蕨集落の石垣とアコウ
そんな潜伏キリシタンの足跡こそが、世界文化遺産「黒島の集落」の見どころの一つ。世界文化遺産の登録以前にも「国の文化的景観」に認定されていた景観なのです。
黒島の潜伏キリシタンは、長崎の外海以外の生月島や針尾島、五島からも移住してきました。平戸藩は移住してきた人たちが潜伏キリシタンだとわかったうえで「必ず興禅寺の檀家となるように!」とおふれを出します。それでも、潜伏キリシタンたちはこっそりと興禅寺の仏像のそで下に木彫りのマリア像を忍ばせ、お祈りをしていたといいます。
興禅寺の近くにある庄屋屋敷では「絵踏み」も行われていたため、潜伏キリシタンたちにとっては精神的苦痛もあったことでしょう。ですが、記録を辿っても黒島ではあまり迫害や弾圧を受けたという記述は残っていません。
多少のいざこざはあったとは思いますが、黒島では潜伏キリシタンたちと仏教徒たちが、それなりに共存関係を築いていたと考えられています。
世界文化遺産「黒島の集落」を歩く。潜伏キリシタンたちが歩んだ信仰復活の道
「黒島の集落」の見どころには、信仰を伏せていた人々の「復活」の足跡が含まれます。
1865年、長崎に大浦天主堂が造られると、黒島からも数人の代表が信仰の「告白」に向かいました。そして、初めてフランス人の神父に「これまでの洗礼は無効である」という衝撃の事実を突きつけられるのです。慌てた黒島の潜伏キリシタンたちは、新たに洗礼を受けなおすことになり、信仰復活へのきっかけになりました。
信仰復活の碑。黒島ではじめてミサが行われた場所
黒島にいた潜伏キリシタンたちは1人残らずカトリック教に復活しますが、黒島以外の別の土地に住んでいた潜伏キリシタンの中には、告白に行くことで捕まってしまうことを恐れ、正しい洗礼にも関わらずカトリック教に復帰せずに先祖代々のお祈りの仕方(オラショ)を守り続け、現在は「カクレキリシタン」と呼ばれるカトリック教とは別の宗教に分かれることになりました。
黒島の潜伏キリシタンたちが信仰を告白した数年後、黒島を訪れた宣教師たちによって名切の丘に小さな木造の教会が建てられました。
ところがその後、黒島では教会に入りきれないほど信者が増え続け、新たにロマネスク様式の立派な教会を建てることになりました。
この時、設計をしたのがマルマン神父です。マルマン神父は1897年に黒島の主任司祭に着任するとすぐに教会の設計に取り掛かりました。マルマン神父は日本でいくつかの教会を造りましたが、現存しているのはここ黒島天主堂だけです。
黒島天主堂の特徴は、半円形型の祭壇部や、教会を外背面から見たときの特殊な景観、屋根には瓦が使われる和洋折衷の佇まいなど。
黒島天主堂の背面
他にも黒島の赤粘土から作られた手焼きのレンガ、天井やドアに見られる手描きの木目など、お金をかけないための工夫が随所に見られ、内陣部には美しい佐賀有田焼のタイルが敷き詰められています。
教会内には、マルマン神父がフランスから持ってきた数体の御像や、ステンドグラス、アンジェラスの鐘、神父が自ら施した丁寧な細工の洗礼盤や説教壇など貴重な品がいくつもあり、まるで美術館に並ぶ芸術作品のようです。
日本でいくつもの教会を建てたマルマン神父は、63歳で亡くなるまで黒島で過ごされました。ですから「人生でこれ以上のものはもうできない」と全身全霊をかけて造り上げた教会が、黒島天主堂なのかもしれません。
世界文化遺産「黒島の集落」。「祈り」のある日常
黒島に住むカトリック信者さんたちは毎週末ミサに参加されますが、不思議なもので「年齢が高くなるにつれ敬虔なクリスチャンになる……」という話をよく聞きます。
「祈り」とは、神様の意に乗ること。年齢を重ねていくごとに、そう感じることが増えるのかもしれません。
黒島のおじいちゃんおばあちゃんたちは、いつも笑顔で感謝の心を忘れず「神様は見ていてくれている」と信じています。それはカトリック教徒だけでなく、仏教徒の皆さんも同じで、お寺や神社の年中行事やお参り、掃除なども感謝の心で行っています。
小さな島で2つの宗教が互いに試行錯誤しながらも助け合い、共存関係を築いてきた黒島。現在の黒島にある世界文化遺産「黒島の集落」で一番感じていただきたいのは、そんな島に生きる人々の心かもしれません。
ベールとロザリオ
「どこまで行くとね? 教会? そんなら乗らんね!」。黒島では道を歩いている観光客に、車に乗った島民が声をかける姿をよく見かけます。
その姿そのものが今の「黒島の集落」です。
今ある幸せを大切にする、目の前にいる人を大事にする。そんな「黒島の集落」に息づく心を黒島で感じてみてはいかがでしょうか。