1549年にフランシスコ・ザビエルが日本でのキリスト教布教を始めて469年となる今年、「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」が世界文化遺産に登録された。世界遺産登録を契機に、長崎県の地元自治体と観光団体が島々に点在する構成資産を巡るツアーを企画。潜伏キリシタンの足跡を訪ね、島々を巡った1泊2日の旅をリトケイ編集部の石原みどりが振り返る。
(レポート記事1はこちら)
写真・文 石原みどり
頭ヶ島天主堂の鐘塔(五島列島・頭ケ島)
世界遺産構成資産「頭ヶ島の集落」へ
佐世保港を出航して1時間20分、上五島町・中通島(なかどおりじま)の有川港に到着した。大揺れの航海を終えて陸地に降り立つと、少しホッとした気持ちになる。有川港からは観光バスに乗り込み、中通島の東端に位置する頭ヶ島(かしらがしま)の世界遺産構成資産「頭ヶ島の集落」を目指す。
中通島の東端に位置する頭ヶ島(写真右上)を陸路で目指す
「長崎県には133の教会があり、そのうち50が五島列島にあります。どうして島に教会が多いのか。その理由を今回の旅で感じてほしいのです……」ガイドの入口仁志さんが語り始める。
戦国時代のキリスト教伝来と布教から一転、潜伏キリシタンたちは禁教政策下での弾圧に耐え、約250年にわたる潜伏期間を経て信仰を公に復活させた。
「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」の世界遺産登録にあたっては、現存する資産に加え、潜伏キリシタンの歴史そのものが評価された。各地の教会堂など、目に見える資産の真価を知るためには、背景にある物語を見つめる必要がある。
五島移住後のキリシタンたち
キリスト教禁教政策下の江戸時代後期、現在の長崎市北方に位置する外海地方から開拓移民として五島列島に移り住んだ人々の多くは、表向きは仏教徒を装い密かにキリスト教を信仰する「潜伏キリシタン」だった。
高い食料生産能力を持つ移民を必要としていた五島藩の求めに応じ、大村藩が外海の領民から千人の移住者を募り、初めに108人が政策移住。先行集団が島に定着する様子を耳にした外海のキリシタンたちは、藩から逃散(※)して次々と海を渡り、五島列島に60〜70カ所の集落を形成。その数3千人にものぼったとみられている。
※逃散……農民が耕作を放棄して他領へ移ること
五島列島に入植したキリシタンたちは、石だらけの斜面を耕して集落を形成し、水面下で信仰を継続した。やがて移住者が増えると先住者との間で水や燃料の薪を巡って争いが生じ、移住者を指す「いつき」という差別呼称が生まれた。
根深い差別感情は、その後、明治初期に起こった激しいキリシタン弾圧「五島崩れ(※)」へと繋がっていく。
※崩れ……厳しい取り締まりや密告によりキリシタンの信仰組織が壊れる(崩れる)こと
厳しい迫害の手は、最果ての頭ヶ島にも及んだ。これから向かう「頭ヶ島の集落」には、迫害を逃れ一度島を離れたキリシタンたちが、信仰を許された後に再び島に移り住み再建したという歴史がある。
緑の中に佇む石の教会
緑の中に佇む「頭ヶ島の集落」(五島列島・頭ヶ島)
1981年に架橋された頭ヶ島大橋を渡り、中通島から頭ヶ島へ。山を越え、つづら織りの坂道を下るなか、緑の中に佇む赤い屋根の教会が目に飛び込んできた。
坂道を下り切ると「頭ヶ島の集落」に到着。目の前に海が開け、山を背にするように八角形のドームと十字架を頂いて建つ「頭ヶ島天主堂」が出迎えてくれた。荒く切り出された石の質感のせいか、遠くから見た時よりも、どっしりとした重厚感を感じさせる。
「頭ヶ島天主堂」は国内でも珍しい石造りの教会で、国の重要文化財にも指定されている。建築設計したのは、明治から昭和半ばにかけて数多く教会建築を手がけた名工・鉄川与助氏。氏が13番目に完成させた教会建築で、氏唯一の石造教会でもある。
施主は頭ヶ島を追われ、再び移り住んだ信者たち。教会建築費用を抑えるため、鉄川与助氏は地元で取れる砂岩を建材とする石造りの教会を提案。信者たちが自ら砂岩を切り出し、資金難で幾度も工事を中断しながらも、10年の歳月をかけて1919年に「頭ヶ島天主堂」が完成した。明治政府による1873年のキリシタン禁制の高札撤去から46年が経っていた。
長崎県を中心に、九州各地でさまざまな教会建設に携わった鉄川与助氏は、どの教会が気に入っているかと尋ねられ、「頭ヶ島天主堂には少し特別な思いがある」と語ったと伝わっている。
明るく可愛らしい「花のみ堂」
「頭ヶ島天主堂」外観(五島列島・頭ヶ島)※内部は撮影不可
お堂の中に入ると、ステンドグラスから柔らかく光が差し込む空間に花をモチーフとした装飾があふれ、明るく可愛らしい雰囲気に包まれる。
「ここは『花のみ堂』と呼ばれているんですよ」と入口さん。施された白い4弁の花と緑の葉のモチーフは五島列島に咲く椿とも言われ、4弁の花は十字架を表している。
舟底のような折上天井は、教会建築によくみられる荘厳な雰囲気のコウモリ天井(リブ・ヴォールト天井)に比べ、親しみやすい雰囲気がある。中世ヨーロッパの小さな教会や荘園の館などに見られる工法を模したものだという。
窓のステンドグラスは、白く塗られた木枠に三角形の赤・青・透明のガラスが交互にはめ込まれ、シンプルな幾何学模様を描く。「古いガラスを見分けるには、近付いてみると良いですよ」と入口さん。探してみると、一部に気泡の入ったガラスが見つかる。手づくりの板ガラスに、今のものにはない優しい味わいを感じた。
女性たちを見守ってきたマリア像
聖母マリア出現の聖地を模してつくられた「ルルド」
お堂を出て裏手に回ると、石のアーチに囲まれて聖母マリア像が佇んでいた。聖母マリアが出現し、いくつもの奇跡を起こしたといわれる南フランスの聖地「ルルドの洞窟」を模してつくられたもので、水を求める願いが込められ、島の女性たちの信仰対象であったという。
記念碑「キリシタン拷問五六石之塔」
マリア像の近くに、記念碑「キリシタン拷問五六石之塔」があった。捕らえられたキリシタンたちに棄教を迫るため行われた拷問の一つで、角材の上に正座させ太ももの上に石を乗せていく「算木(さんぎ)責め」という拷問の残酷さを今に伝えている。
優しく集落を見守るマリア像や「花のみ堂」から得た明るく可愛らしい印象と、拷問の凄惨さの落差に衝撃を受けた私は、しばらく言葉を失う。そして、「『だからこそ』なのかもしれない」と思い至った。
幾たびも中断する工事に伴走し続け、10年かけて教会を完成させた鉄川与助氏は、苦難の時代を乗り越えて前に進もうとする信者たちの思いに寄り添い、蹂躙された彼らの心を癒す場をつくろうと工夫を凝らしたのではないか。
竣工から200年ほどが経ち、お堂の石壁や周囲の石垣は古びて苔がむしているが、石の並びは当時と変わらず端正な美しさを残している。石垣の上にそっと植えられた水仙の花からも、信者たちがこの場所を大切に継承してきたであろうことが伝わってきた。
(レポート記事3に続く)
-
-
頭ヶ島天主堂
(南松浦郡新上五島町友住郷頭ヶ島638)
「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」の一つで国指定重要文化財。全国でも珍しい石造教会で、内部は折上天井に花をモチーフとした装飾があしらわれ優しい雰囲気となっている。内部の撮影は不可。教会堂見学の際は事前連絡が必要。
長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産インフォメーションセンター
【関連サイト】
長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産
東京在住、2014年より『ritokei』編集・記事執筆。離島の酒とおいしいもの巡りがライフワーク。鹿児島県酒造組合 奄美支部が認定する「奄美黒糖焼酎語り部」第7号。著書に奄美群島の黒糖焼酎の本『あまみの甘み 奄美の香り』(共著・鯨本あつこ、西日本出版社)。ここ数年、徳之島で出会った巨石の線刻画と沖縄・奄美にかつてあった刺青「ハジチ」の文化が気になっている。