つくろう、島の未来

2021年05月15日 土曜日

ある日、「おばあちゃんの暮らす島に行きたい」と訴え、宮古島(みやこじま|沖縄県)の高校に留学した東京育ちの次女とのやりとりを綴るミャークピトゥ(宮古人)ライター・宮国優子さんのコラム。子育て中で、現在次女が故郷の宮古島に島留学中の宮国優子さんによる、子どもを島留学に送り出した親としての体験記。第4回は、子育てにまつわる島の諺(ことわざ)。(第1回はこちらから)

カナスフォヲバア ピットゥンツカアシの巻

今回も宮古のことわざからまいります。

「カナスフォヲバア ピットゥンツカアシ」

方言だと呪文めいていますが、内容は至極簡単。「かわいい子は他人に使わせ」。要は丁稚奉公みたいな感じでしょうか。「子は他人の飯を食って成長するものだ。子をかわいいと思うならば他人に使わせ」という意味です。

島の子どもたちのほとんどは高校を卒業すると、島外に出ます。だからこそ、島にいる間に「他人のために気持ちよく働くこと」の訓練を無意識にやっている家庭が多いと思います。それがよく表れていることわざです。

島を出ることを「旅」と呼んだ島の人たち

宮古島で育った私たちは、島を出ることや特に長期で島を出ることを「旅」と呼びます。久しぶりに会った年配の方から「優子は旅にいる?」と聞かれます。東京に住んでいる私の答えは、もちろん「YES」です。島に戻ることが前提の言葉に聞こえて、胸のあたりがホワッと温かくなる一言です。

昔は、沖縄本島へ行くのがウキュナータビ(沖縄旅)、本土へ行くのはヤマトゥタ ビ(大和旅)、中国へ行くのがトウタビ(唐旅)でした。

大勢の人が島を出るようになったのは、大正時代から戦前くらいまで。特に宮古からは多くの若者が出稼ぎで島を離れ、阪神、台湾方面で働きました。船員、工員、女中などは、まさに他人のなかで働く仕事でもありました。

「旅」に行くことは、もちろん「食うため」でした。ですが、島外の他人や社会の中でもまれた経験を持つ彼らが島に戻ってくるときには、ひとまわりもふたまわりも大きくなっていて、島を豊かにしてくれるのだと、昔の人は考えたのだと思います。

あまり知られてはいませんが宮古島のそばには「宮古海峡」という東シナ海と太平洋を隔てる日本最大級の海峡があります。当時はその海峡を無事に越えるだけでも大変な苦労があったのだと思います。

島に行ってから2回目の誕生日

娘が島に行ってから2回目の誕生日を迎えました。

あっという間の1年2カ月でした。娘が宮古に行く前は気づかなかったのですが、実は、娘が「ただそこにいて」目の端にいるだけで、私自身が安心していたのだと気づきました。

日常のなかに娘がいないことで、信頼はしていても、反抗期の娘から発せられる一言に余計なイライラを感じたり、過度な心配をしていました。ですが、東京にいた頃より、密な一対一のやりとりも増えているように思います。

今年の誕生日は、私の幼なじみが食事に連れて行ってくれたようです。とても喜んでいました。私は韓国アイドルが好きな彼女に、韓国で流行っている本と、彼女の携帯と、私が仕事で携わっている会社の商品を送りました(離島なので当日にはもちろん届かずでしたが)。

実は、あまりに反抗的なので数カ月前に東京に送り返してもらっていた携帯でした

最近の半年でやりとりしたあげく・・・

数カ月前のことについて、正直申しますと、電話をするたびにすったもんだで「東京に戻るか」or「携帯を返すか」の2択で「携帯を返すか」を選んでもらっていました。彼女は泣きながら携帯を梱包していたようです。コロナ禍のなかで、学校や塾の連絡に携帯がないのは困ったと思いますが、それも承知で戻してもらいました。

自分のお金ではなく、親が払っている携帯で、好き勝手して当たり前だとは思って欲しくなかったからです。学力よりも、人間としてどうなのか? という事柄の方が私にとっては大事だからだと話しました。

親がそばにいないからといって、悪いことをするとは思いませんが、小さな嘘を積み重ねることが日常になっていた娘のものぐささに、私は雷を落としたのでした。

誕生日の日のレストラン

先に書きましたが、彼女は誕生日の夕食を私の幼なじみとその娘にレストランでお祝いしてもらったと、娘と同居している祖母(私の母)から聞きました。

今までは当たり前のように東京の家にいたので、私がケーキを買い、好きな食事をつくり、お祝いするというような流れでした。

私自身が少し寂しい気持ちになりました。娘といる時は、めんどくさいなぁとまで思うこともあったのに(笑)。

私の幼なじみとその娘さんとの時間が、どれだけ楽しかったかは簡単に想像できます。偶然にも幼馴染みの娘さんが私の娘と同い年で仲良くなっていたことも、娘が島留学をすることになった大きなきっかけでした。彼女がいなければ、私も最後まで首を縦に振らなかったかも知れません。

最近の娘を穏やかに感じるのは、幼馴染みの優しい語り口や人情味のあるところの影響ではないかと思っています。彼女にとっては、きっと第二のお母さんなのだと思います。似た環境で育った幼馴染みですが、私とはまるで違う寛容さとほがらかさを持っています。娘が島に行ってからも、私は何度か泣きついて連絡をしました。そのたびに親身になってくれたのは有り難かったです。

お客様でいないこと

レストランでの様子はまだ聞いていませんが、私は娘に対してちょっと気になることがあります。それは彼女が東京にいた頃のように「お客様」になっていないかということです。

東京にいた頃は、他人のご家庭に食事にいっても、お客様然としているところがありました。私は口やかましく言う方ですが、おもてなしをしてくださる方も多いので「いいのよ、子どもは座ってて」というお母さんも多かったです。

私が子どもの頃は、子どもが真っ先に働かされました。人の家でお茶碗を洗うのも当然という風に過ごしたものです。親の庇護どころか、一人の仲間として仕事を任されたと自然に思っていました。なので、私自身、家事をすることを嫌だと思ったこともありませんでした。

実は、娘が祖母とぶつかったのは、この部分でした。祖母といえば、私の母ですが、母から見ると「この子(娘)は、自分の身の回りのことが何もできない。やりなさいといえば、反抗する。言う自分もストレスがたまる」とのことでした。

私は娘に「あなたは置いてもらっている立場なのだよ、自分から家事やおばあちゃんの助けをしなければおばあちゃんとは仲良くできない」と何度も言ったのですが、どこまで理解できているか、手応えはありませんでした。

小学生の頃、宮古の知り合いに乗せてもらった施策のエコタクシー

娘からのLINE

そんな風なので、私がいろいろ書くより、今回は彼女に言語化してもらおうと思い「たまには、宮古の感想でも書いてよ」とLINEすると、思いのほか、彼女はたくさん書いてきました。

”いい所はもちろん嫌なところも見えてくる。東京の学校では女子と男子に壁があり、男子は女子のことを苗字で呼ぶのが一般的だった。通っていた学校が少し堅めの学校だったかもしれないが、たいして仲良くない人には苗字にさん付けが普通だった。宮古島は初対面から下の名前で呼ぶ。最初は馴れ馴れしくて引いた部分もあったが1年経って壁を自然につくらない素晴らしい行為だと感じるようになった!!またみんなが暖かい心を持っていて何か困ってると話しかけてくれたり助けてくれる。これも壁がないからこその事なのだと思う。”

娘なりの青春時代なのでしょう。そんなことを発見しているのかと感じつつ、さらに「今の自分はどうなの?」と尋ねてみると、こんな文章が返ってきました。

“学校も部活も楽しい!!慣れてきて自分のできることできないことが分かってきたからこそ小さな目標を立てることができている感じがする。好きな教科は社会だけだったけど数学や化学にも興味を持つようになった!11月に入りやっと東京の秋のような天気が続いている。肌寒くて、セーラー服にしようか夏服のブラウスにしようか迷う日々が楽しい。1パターンしかないものを毎日ただ着るよりも2つの選択肢のある制服移行期間が楽しい。
高校生活は初めてのことばかり。毎日がたくさんの発見に溢れている!東京では普通と思っていたことが宮古では普通ではない。自分の常識が常識じゃなかったり自分的には絶対違うと思うことがみんなの普通だったり。毎日そのギャップに嫌な感情を抱いたり、嬉しさを感じたり感情が忙しい。”

とりあえずは、安心。来月は会いに行こうと思いました。

島留学という長距離走

娘を島留学に出すことについて、私は島で生まれ育った自分自身の過去を振り返りながら、どうしてもデメリットばかり考えてしまっていました。娘が「島の高校に行きたい」と言い出した時は、数多い選択ができる東京で生まれ育っているのに、なぜ選択が狭まる島に行くのか? と思いました。

でも今は「生きる方角を決める時間」を、彼女が島で過ごしたかったのかもしれない、と思うようになりました。私が、娘たちが幼い頃から口酸っぱく言っていたのは「自分で考えろ」でしたから。

もしかしたら、母が思っているよりも、娘は自分で考えるようになったのかもしれないなぁ、と原稿を書きながら独りごちています。

(了)

【読者の皆さまへ】
この連載を寄稿くださっていた宮国優子さんが11月22日に急逝されました。この原稿は、お亡くなりになる前に編集部が受け取り、ご家族の許可をえて公開いたしました。今回にて連載は終了となります。ふるさとである宮古島をこよなく愛し、島の歴史や文化、その価値を探り、伝えていくことに情熱を燃やし続けてこられた宮国さんのご功績は計り知れません。離島経済新聞社一同、心からご冥福をお祈り申し上げます。

離島経済新聞 目次

寄稿|宮国優子・ミャークピトゥライター

宮国優子(みやぐに・ゆうこ)
ミャークピトゥ(宮古人)ライター、プランナー。米国統治から本土復帰の前年である1971年(昭和46年)に旧平良市に生まれる。東京在住。宮古毎日新聞東京支社の記者として取材をしたり、宮古島のことを聞かれたりするうちに、島についての知識のなさに我ながら愕然。2002年に島とつながる友人たちと『読めば宮古!』(ボーダーインク刊)を出版。3人娘の次女が故郷の宮古島に島留学中。

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