つくろう、島の未来

2024年11月24日 日曜日

つくろう、島の未来

新型コロナウイルス感染症の蔓延から半年が過ぎ、日本の島々でも手探りの対策が進められるなか、宮古諸島と感染症の歴史について、元宮古毎日新聞記者でライターの宮国優子さんが振り返ります。101年前、コレラが流行した宮古諸島で「島ごとロックダウン」を行った池間島(いけまじま|沖縄県)の動きとは?

(文・宮国優子)

宮古諸島の歴史に学ぶ、島の守りかた

こんにちは、宮古島出身の宮国です。かねてより宮古島には「コレラが流行った時、池間島は1年あまりのロックダウンを行っていた」という噂がありました。

ここでは、新型コロナに怯える今、約100年前に宮古諸島でコレラが蔓延した時代について記された文献や、池間島出身の川上哲也さんから伺った話から、過去から現在につながる「島の守りかた」について考えたいと思います。

さて、我が宮古諸島には昨年、113万人を超える観光客が訪れ、過去最高を更新しました。2015年には宮古島〜伊良部島間で島民悲願の伊良部大橋(全長3,540m)が完成。宮古島〜池間島、宮古島〜来間島とあわせ、立派な橋が3つも架かる押しも押されもせぬリゾートの島になりました。

伊良部島から臨む伊良部大橋と宮古島の島影

橋から見えるコバルトブルー(個人的にはバスクリンにも見える)の海は大人気です。おかげで宮古島の家賃は都内並みにガン上がりし、「宮古バブル」と呼ばれております。今年は新型コロナで旅行者も少ないと思いますが、今月もコテージ型のホテルがオープンするなど、観光の多様化も進んでいます。

そんな宮古島ですが、私が物心ついた1970年代は観光客も5万人(※)にも満たない殺風景な…….いや、静かで貧しい島だったことは記しておきたいと思います。

※1975年の入域観光客数44,336人(出典:沖縄県『平成30年版観光要覧』巻末統計資料より)

現在の宮古島市街地

101年前、池間島が選択した「島ごとロックダウン」

され、きらびやかなリゾートの風景からは想像もつかないと思いますが、宮古島には昔からハンセン病やマラリアという感染症にまつわる逸話が山ほど残っています。

1919年には宮古諸島一円でコレラが大流行しました。

そんな中、「1年余りの島をロックダウンした」ことで、島にコレラ罹患者を1人も出すことはなかった池間島の英断は、今も島の人の間で語り継がれています。

池間島出身で、元宮古島市教育長の川上哲也さんは、池間島の逸話を「明治23(1890)年生まれのおじさんから直接聞いた」とあって、生々しい話を教えてくれました。

宮古島北西部と池間島をつなぐ全長1,425メートルの池間大橋は1992年に開通。橋の先に見えるのが宮古島

池間島と宮古島は海を隔てて1,500メートルほどしか離れていません。

すぐそばに浮かぶ宮古島で起きた、コレラのパンデミック。海を隔てているとはいえ、コレラ以前にも度々、感染症に苦しめられていた島の人たちは恐怖にさらされたに違いありません。

川上さんは「池間では、コレラの情報が入ったその夜に、漁協の人らが提灯をもって集まったと聞いています」と語ってくれました。

そこで開かれた会議で、数人の男性メンバーが選抜され、翌朝、彼らは船で宮古島に渡りました。そうです。目的は食料品や日用品のまとめ買い!

川上さん曰く、「船に積めるだけ積んだ」そうです。

この話のすごいところは、その男性たちが宮古島へ渡っている間、池間島に残った他の人が隔離小屋を作っていたこと。

宮古島から帰ってきた男性陣は他の島民と接触しないよう、しばらくその小屋で暮らしたそうです。

墓地のなかった島に墓地ができるほどの死者

1919年当時、宮古諸島、八重山諸島のコレラ罹患者は2,290人にのぼり、うち973人が死亡。死亡率は42%(!)でした。

特筆すべきなのは、伊良部島の佐良浜(さらはま)地区で543人が罹患し、251人もの人が死亡していたこと。「この年を境に、佐良浜でも墓地ができたと聞いています」と川上さんはおっしゃっていました。

この時の記録を宮古島市史『みやこの歴史』(宮古島市教育委員会)で探ると、
「池間島では、字会と漁業組合が一体となって他島と連絡を絶ち、生活必需品は沖縄本島に出向き調達するなど、一年余に亘りコレラ対策に当たった、と伝えられている」と記載されていました。

そうなんです。宮古島でコレラが噂された直後、池間島の人々が宮古島に渡ったのは一度きりで、その後、足りなくなった食料品や日用品などは、沖縄本島まで船で調達に行っていたのです。

池間島から沖縄本島までの距離は300キロメートル! 宮古島への距離は1,500メートルですから、単位が違います……。

それでも島にコレラが蔓延するよりはマシだったのでしょう。

現在、池間島には約550人が暮らしている

日本最大級の「宮古海峡」という最大のトラップ

宮古島と沖縄本島の間には「宮古海峡」というトラップがあります。歴史上でも遭難沈没が多発している恐ろしい場所です。「海で死ぬか」「コレラで死ぬか」の2択にはキツいものがあります…….。

『みやこの歴史』の巻末にある、宮古島の一番古い人口動態表を見てみると、1920年(大正9年)の人口は49,401人なので、4.4%が罹患して、1.7%が命を落としたということらしいです。

罹患率は意外と少ない気もしますが、当時でも宮古島には医療従事者が数十名しかいなかったはず。宮古諸島では、太古の昔から近年まで「病気したら死に直結」の「命の問題」だったのでしょう。

医療従事者についての記録を探ると、『みやこの歴史』には「1909年に12人の開業西洋医がいた」と記されていました。

島の医療従事者には島出身者もいたようですが、当時の島の暮らしを考えると、勉学費用だけで現在の貨幣価値で1億円レベルの金額がかかっていたと思います。

宮古諸島では今でも「島出身の若者を育てる」という気概は大きく、「島のデキチャー(頭の良い人)を島外で、皆でお金を出して勉強させる」という意識があります。今も島出身の医者は、地元に戻って開業するということが非常に多いです。

宮古島市合併時に活躍された伊志嶺亮元宮古島市長もそうですし、宮古初の衆議院議員・盛島明長(もりしまめいちょう)は医師業を続けながら議員になりました。

1909年から現在までの医者の増え方を考えると、コレラのような感染病は、良くも悪くも島に医者を増やすきっかけになったのかもしれません。

島の清潔さを表す方言

唐突ですが「島のお年寄りはきれい好きだなぁ」と思うことがよくあります。うちの母もいつも掃除しています。ですが、単なるきれい好きとは違い、今のコロナ禍で行われる殺菌に近い印象です。

島には「するするーてぃ(身も心も新鮮な様子)」「きさばき(きちんと塵ひとつない雰囲気)」「すだーすき(涼しげの強い表現)」という方言があります。

人間に対しても環境に対しても使われる言葉で、水浴びしたあとの涼しげな様子といえばいいでしょうか。「身も心もフレッシュ」まるで洗いたてのようなイメージです。

住居だと水拭きして、風がサーッと吹き抜けるような心地良さ。整理整頓でも、瀟洒(しょうしゃ)な部屋風でもなく、ひたすらに清浄に励むのが、島のお年寄りなのです。

このように清潔さを保つことを優先させる理由があるとしたら「離島ならではの感染症と医療の歴史」が関係しているのではないか? と資料を紐解きながら思いを馳せました。

ひたすらに清潔さを求める「するするーてぃ」「きさばき」「すだーすき」は、実は島的な「命を守ること」への表現のひとつかもしれません。

隣の島にはあまり行かない島人

宮古島のまわりには、池間島、大神島、伊良部島、下地島、来間島があり、宮古島から約67kmほど東にいくと、多良間島があり、その北の海向こう8kmに水納島があります。

島の人は隣の島に行く習慣がほとんどありません。実は私も多良間島や水納島には行ったことはありません。ですが、島人にとっては意外と普通のことだと思っています。

その理由には「感染病を避ける慎重さ」と「人頭税(※)による歴史的背景」もあるのだろうと、私は推察しています。

※1637年、薩摩藩から支配され重税をかけられた琉球王朝は財政に困窮し、宮古、八重山地方の人々に厳しい税金を課した。1629年から行われたと言われており274年続いた

後編では、コレラが流行した水納島、島医療の変遷、知る人ぞ知る池間民族に焦点をあて、宮古諸島の時代背景とともに島の守り方を考えたいと思います!


宮国優子(みやぐに ゆうこ)
ミャークピトゥ(宮古人)ライター、プランナー。米国統治から本土復帰の前年である1971年(昭和46年)に旧平良市に生まれる。東京在住。宮古毎日新聞東京支社の記者として取材をしたり、宮古島のことを聞かれたりするうちに、島についての知識のなさに愕然。2002年に島とつながる友人たちと『読めば宮古!』(ボーダーインク刊)を出版。

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