島を想い、支え、未来に関わる人は、島に住民票のある人だけに限らない。そして今、島に住んでいる人や、過去に住んでいた人、通い続ける人の中には、島出身の親や祖父母がいる地縁・血縁の「島ルーツ」がある人もいる(地域によっては、島のあとに二世、三世を付けて呼ばれる)。
島ルーツを持つ人々は、それぞれの島と家族の距離感や事情に配慮しながらも、自身が抱く島への想いをもって地域に関わる。ここでは、自らも島ルーツであるネルソン水嶋が聞き手となり、島ルーツの皆さんと島との関わりや未来に向けた自身の想いを語り合った。
聞き手・文 ネルソン水嶋
人口5人の佐合島を祖父から承継
梅本将輝(うめもと・しょうき)
東京在住。祖父が佐合島(山口県)出身。幼いころから祖父のいる島に通う。祖父から島の土地と家を相続することになり孫養子に。宇宙開発企業に勤めつつ、島への移住を見据えて、島に通いながら準備を進める
佐合島(さごうじま)
山口県熊毛郡平生町から南西へ約2kmにある島。昭和後期までは数十人の島民が住んでいたが、現在は5人(令和7年6月時点)
おばあちゃんが住む桂島が大好き
内海凜香(うつみ・りんか)
愛知在住。父が桂島(宮城県)出身。幼いころから夏休みは決まって島。小学校の卒業文集に「デザイナーになって祖母と島の人の笑顔を見たい」と書く。現在は大学院でデザインを学びながら、夢を実現中。
桂島(かつらじま)
宮城県塩竈市浦戸諸島にある島で、最も市内から近く人口も多い。 海苔や牡蠣の養殖業が盛ん。 人口は113人(令和7年6月時点)
宮古諸島のルーツをだんだん意識
多和田真也(たわた・しんや)
那覇出身で大分県在住。母が宮古島(沖縄県)出身で、祖母は伊良部島出身。2018年に親戚を訪ねて母と宮古島を訪問し、ルーツをより意識するように。離島経済新聞社の事務局長として、全国の離島と関わる。
宮古島(みやこじま)
沖縄県宮古諸島最大の島。サトウキビ栽培と観光業が盛んで、近年は移住者が増えている。人口は50,141人(令和7年6月時点)
自身も島ルーツの聞き手
ネルソン水嶋(ねるそん・みずしま)
母が沖永良部島(鹿児島県)出身。小学2年の夏休みを島で過ごしたことが原体験となり、2020年に移住。現在は島で暮らしながら、離島経済新聞社の副編集長を務め、島の文化や歴史を勉強中。
沖永良部島(おきのえらぶじま)
鹿児島県奄美群島の一つ。花やじゃがいもなどの農業が主産業。国内最大級の鍾乳洞が特徴。人口は11,181人(令和7年6月時点)
関わり方も時期も人それぞれ。島との思い出
奄美群島の沖永良部島。サンゴ礁が隆起したリーフが広がる
皆さんは、子どもの頃にどのように島と関わっていました?
私は桂島に祖母がひとりで住んでいたので、幼稚園の頃から2人の兄と行ってました。 小学生からはお盆などに家族で行って、私だけ島に残り祖母と過ごすようになりました。
冷蔵庫にはいつも魚などおいしいものがいっぱいで、祖母は近所の人たちとよくおすそ分けをし合っていて、“身近なものでとても豊かに暮らしている”という印象でした。当時、私は親に「あの島で私は”生き物”になれるんだよね」と話していたそうです。
桂島での潮干狩り風景
僕も子どもの頃から親に連れられて行って、海で泳いだり、探検したりして過ごしました。祖父が民宿をしていたので、夜は若い人たちが集まってどんちゃん騒ぎするのを横目に過ごしていた記憶があります。僕が子どもの頃は50人近かった島民も減り続けて今は5人に。子どもながらに人が減っていく寂しさは感じていました。
かつて海水浴客で賑わった佐合島の砂浜。今は人影がない
人口5人はおどろきですね。私は、大阪から沖永良部島までの旅費がかさむため、島に行ったのは数える程度でした。ただ、それだけに印象は深くて、小学2年の夏休みに台風の影響で滞在日数が2日に縮み、母が「可哀想だから」と私と兄を置いていきました。
その時に過ごした日々が、移住につながる原体験となっています。大学生の頃には、祖父が栽培していた花卉(かき)の収穫作業を手伝いに2度行きましたね。
農業が盛んな沖永良部島。畑の土作りを実演してみせるネルソンさんの祖母
僕は母方の祖母が伊良部島生まれ、母が宮古島で生まれ育っていて、父は沖縄本島北部のやんばる出身でした。父は終戦後、田舎では食べていけないと家族で那覇に移り住んで、後に宮古島から来た母と出会ったんです。
宮古もやんばるも言葉が通じないレベルの方言だから、家の中の共通語は沖縄なまりの日本語でしたね。父は11人兄弟、母も9人兄弟姉妹ですがどちらもほとんどの親戚と疎遠だったので、 宮古諸島にルーツがあると知っていても特に意識していませんでした。
親戚とのつながり方によっては、意識することがないまま過ごすこともありますよね。
ネルソンさんのルーツの集落にあるガジュマルの木
祖父への感謝と離島の可能性から、家を相続
梅本さんはおじいちゃんから相続を受けたと聞いておどろきました。
はい。今年、祖父から島の土地と家を相続することになりました。祖父の子どもは母を含めてみな嫁いでおり、祖父に「(男に) 家を継いでほしい」という考えがあったので、祖父の養子になる形で姓も梅本に変わりました。
祖父が島で一番の長老で、島を相続するようなものなので、島民の方に集まっていただき襲名式のような会を開きました。今は東京に住みながら、隔月くらいで島に通っています。
佐合島の関係者が集い、島を継ぐ意思を伝えた会
梅妻は島をとても気に入ってくれていて、それも大きかったです。
まずは島を知ることからと思い、風土記や歴史資料を読み解きながら、祖父の昔話をAIに文字起こしさせて、島の記録をつくり始めています。あと、将来の移住に向けて島で何ができるか探りながら、農業学校で農業や、ハンターさんからイノシシ猟を学んでいます。
ワクワクするような話ですね。しかし、人口5人の島の家督相続はそれなりに大きな判断ですよね。
人口5人となった佐合島では外壁が崩れた空き家も目立つ
祖父には昔からお世話になっていたので感謝の気持ちがありました。それに限られた資源でやりくりしていく島というフィールドがおもしろいと思ったからですね。佐合島に限らず離島のポテンシャルはすごく高いと感じています。
同僚や友人に「人口5人の島だよ」などと佐合島について話すと、みんながおもしろがる。離島を魅力に感じる人は想像以上に多いのではと思っています。
「好きにやったらいいんじゃないの、でも何がいいのかしら」と理解はされなかったですね(笑)。
佐合島の波止場で渡船を見送る梅本さんの祖父
卒業文集に書いた「ばあちゃんの笑顔」を現実に
桂島の畑で農作業に勤しむおばあちゃん
今もよく島に行っています。小学生の卒業文集には「デザイナーになって、ばあちゃんと島の人の笑顔を見たい」と書いたのですが、今、大学院でデザインを学びながら、その夢を少しずつ叶えています。島への関心を高めてもらうために、スタンプを島に置かせてもらったり、市役所からの依頼でポップを制作したりしています。
内海さんが手掛ける離島の魅力をスタンプで発信するプロジェクト 「ウミネコのおめかし」
すごい!卒業文集に書いた夢を実現しているんですね。その夢を書いた背景には何があったんですか?
小学3年の頃に東日本大震災が起きて、祖母の家は半壊して、海側の隣家は全壊でな
くなって景色が変わってしまったんです。人も減り、家もなくなった島が子どもながらに衝撃で、その頃から自分にできることはないかなと思い始めました。
大学進学で地元を離れてから、桂島と祖母の家はめちゃくちゃいい場所だったなと思い返すようになり、気づいたら、卒業文集に書いたことを本気で実現したいと思うようになっていました。
桂島の木を原料に和紙を制作したプロジェクトの風景
内海さんの活躍を見て、おばあちゃんはどんな反応ですか?
喜んでいると思います。浦戸諸島には桂島を含めて有人島が4つあって、大学生になってから1人で行くようになったんですが、そこで知ったことを話すと「よく知ってるね」と関心されたり、島の人から私がつくったものについて伝え聞いているそうです。
展望台で休むおばあちゃん。のんびりとした空気も桂島の魅力
孫の活躍はうれしいですよね。私も最近、島の歴史を学んだり、 郷土をテーマにしたグッズをつくったりしていて、祖母もとてもよろこんでいます。
子どもがルーツにふれたいと思ったときにつながる道を
多和田さんは大人になってから、ルーツとして宮古島を意識されたんですか?
母も宮古島にはもう親戚はいないと思っていたんですが、「叔母がまだ島にいるらしい」と知り、大好きだった自身の母の妹に会いたいと。それで母と、宮古島での記憶がほぼない一番下の弟と島に行って、施設にいたおばぁとそっくりの叔母と再会できました。それまでも仕事では宮古島に行ってたけれど、ルーツを意識できたのはその時が初めてでした。
宮古島から伊良部島を臨む風景。現在の宮古島は多和田さんの母が暮らした70年前と異なり近代化されている
母たちと宮古島の博物館に行った時、展示されていた昔の茅(かや)ぶきの家をみた母が「なつかしい」と言ったんです。台風がきたらバラバラに吹き飛ぶ貧相な家に住んでいたという母の記憶。知らなかった母の一面を見た気がしました。
宮古島の博物館で多和田さんの母が「なつかしい」 と話した茅葺住宅
正直、母にとって宮古島は辛い思い出ばかりだったから「帰りたくない」と言ってたんです。宮古島が悪いというよりは家族の問題で、本当に困窮していたので、家族で島を出て沖縄本島で生きていかなければいけなかった。だから、島にルーツがあるといっても母のように良い記憶がない人もいるんだと思います。
それはそうだと思います。特に昔は女性にとって生きづらい現実があったんだと思います。
多和田さんが子どもたちと訪れた伊良部島の 「ミャークヅツ」
本当にそうですよね。母の記憶も辛いものでしたし、うちは父方の親族ともあまり親交が深くなかったので、ルーツについては宙ぶらりんで生きてきたところがありました。でも、親になって思うのは、自分にも子どもたちにも宮古島の血が流れていること。沖縄で育っていない彼らがいつか自分のルーツを考えた時に安心してつながれるよう、関係人口や信頼人口となれる関係を築いておきたいです。
子どもたちのためにルーツをつなぎ直せることって本当に大事だと思います。
「ミャークヅツ」で島の人にルーツを打ち明けると「呑め」とミルク酒をふるまわれた
世代を越えて、島と関わり、未来をつくる
最後に、思い描く島との関わりなど、メッセージをお願いします。
早ければ5年後を目標に、佐合島に移住したいと思っています。ただ、今はまだ何もできないので、農業や狩猟など島の悩みごとを解決する技術を身につけたい。そして、周りで佐合島の話をおもしろがってくれる人も多く、都会だと田舎がない方も多くいるので、第二の故郷として佐合島と長く付き合ってくれる仲間を増やしたいです。
自らの足で歩き草を刈る97歳の梅本さんの祖父
私は最近、全国の島に目を向けるようになって、人口減少が桂島だけの課題じゃないと知りました。また、それぞれの島の個性は強くて、魅力がある。これからもデザインの技術を高めていって、これまで島に関心がなかった人を振り向かせるきっかけをつくっていきたいです。
リトケイでは、島に想いをもつ人の旗印となって、みんなが集える場所をつくりたいと考えてきました。ルーツとつながるきっかけが増えるよう、これからも今日のように語れる場をつくっていけたらなと思います。
多和田さんの祖母が生まれ育った伊良部島にて。「ミャークヅツ」で踊る島の人々
最近は特に、島にルーツがある人たちの移住などが増えているように感じています。沖永良部島にいても島にルーツがある方から連絡をもらうことが増えており、 故郷への回帰を肌で感じます。
私自身が島を学び続ける一方で、沖永良部島にルーツのある関わりたい人に門戸を開きたい。今回は、そんな思いが確信に変わる機会になりました。皆さん、ありがとうございました!
沖永良部島のお祭り風景。コロナ禍により一時は中止されていたが再開された