気仙沼大島の小松武さんは、漁業歴100年を超える漁師の家系に生まれた。関東の大学へ進学、会社員生活を経て2004年にUターンし、先代の父と共に牡蠣の養殖業やウニ、アワビ漁などを営む。2011年に発生した東日本大震災を乗り越え、生業を存続させる道をつらぬいた小松さんの意志を支えたものとは。
壊滅的な被害を前に事業再開を悩む心
2011年3月、東北の三陸沖でマグニチュード 9.0の東北地方太平洋沖地震が発生。東北の沿岸部を襲った大津波により、気仙沼大島で牡蠣の養殖業を営んでいたヤマヨ水産は壊滅的な被害をうけた。海に浮かぶ養殖筏ごと商品の牡蠣は流され、陸上の作業場や家屋までが全壊。
前年にチリ地震(※)の津波による被害を受け、苦労して再建した筏だったが、再び海に流されてしまった。長年、高品質な牡蠣の生産に力を入れてきたが、東京電力福島第一原子力発電所の事故による、海への影響も懸念された。
※2010年(平成22年)2月27日15時34分頃(日本時間)、チリ中部沿岸でおきた地震。宮城県気仙沼港では最大1.2メートルの津波を観測
こつこつ重ねてきた努力が無に帰したような思いが、小松さん親子を打ちのめす。「すっかり気落ちしてしまった父からは、『妻子を養うためにサラリーマンに戻って働け』と言われました」と、小松さんは当時を振り返る。
牡蠣を海中から引き上げ生育状態をチェックする小松武さん
「島で事業を再開していいのか、それとも…….」。悩み続けて1年が経った頃、震災後に初めて仕込んだワカメから「放射性物質不検出」との検査結果を聞いた小松さんは、事業再建に向けて舵を切る。
それから十数年を経た現在、2025年で13期を迎えた「牡蠣のオーナー制度」がヤマヨ水産を支えている。巨大地震による被災というピンチから生まれた新規事業だ。
温かな応援と海の力、経験が支えた意志
小松さんは、震災からの復興支援を目的として2012年に「ヤマヨ水産 復興・オーナー制度(第一期)」を創設し、一口1万円で牡蠣のオーナーを募集。およそ1,400口の支援金と温かな応援メッセージが全国から寄せられた。津波で流された加工施設の再建費用は、およそ3,000万円。集まった支援金に自己資金を合わせ、事業再開へ向けた取り組みがスタートした。
小松さんが牡蠣の養殖筏を浮かべるのは、「大島瀬戸」と呼ばれる気仙沼湾の内湾。本土側の山林から流れ出るミネラル豊かな水流が気仙沼大島との間に注ぎ込み、牡蠣の生育に必要な栄養素に恵まれた海域だ。
「震災を機に、震災前に考えていたことを反映させながら、一から環境づくりをしました。チリ地震の後に漁場を立て直した経験があったので見通しが立ち、海が持っているポテンシャルを信じることができました」。
2013年2月、気仙沼市環境課による1回目の牡蠣の検査で「放射性物質不検出」。翌年3月、5回目となる検査をクリアし、地元で「桜の咲く頃身入りが良くなる」と言われる春牡蠣を、震災後初めて出荷することができた。
ミネラル豊かな海で健やかに育った、大粒でふくよかな牡蠣
海と暮らしてきた島人ならではのしなやかさで、震災を奇貨として生業を発展させた小松さんは、地元「大島瀬戸」の海同様に自らが育てる牡蠣にもポテンシャルを見出している。
潮の満ち引きにさらされる「潮間帯」を好んで生息する牡蠣は、他の貝や海草が生きられないような変化の激しい状況にも耐えることができる、タフな生物だ。小松さんはそんな牡蠣の生命力を活かし、牡蠣を湯につけて他の貝や海草を取り除く「温湯処理」を行い、健やかな牡蠣を育てている。
こうした努力を続ける小松さんを支えてきたのが、全国のオーナーから届く支援。オーナー制度を通じて顧客との関係づくりを深めてきた小松さんは、全国から届く「おいしかった」「粒が立派ですね」という反響を励みにしている。
住民が熱望した橋が完成。島に起きた嬉しい変化
2019年春、地域が待望していた気仙沼大島が架橋。医療へのアクセスや物流が改善され、島の暮らしに大きな安心がもたらされた。
本土から訪れる観光客のニーズに応え、漁業者らがブルーツーリズムの受け入れをスタートするなど、島外との交流の機会も増えた。観光客の受け入れでは、オーナー制度開始以来、希望する方に養殖場の見学を受け入れてきた経験が役に立ったという。
牡蠣料理の店「ヤマヨ食堂」も2020年にオープン
ほかにも嬉しい変化がある。島外への通勤も可能になり、島を出て本土の企業に勤めていた若者たちが地元に戻ってきたことだ。さらに、本土から小松さんの養殖場に通勤するスタッフも現れた。
「夜明け前から船に乗って作業をしていると、橋の上をたくさんの車が走るのが見えるんです」。日々変化する海と向き合いながら、人々の暮らしの変化も肌で感じている。
養殖筏の向こうに気仙沼大橋を望む、ヤマヨ水産の牡蠣養殖場
小さな希望の光が集まり、大きな灯火となる未来へ
本土との間に橋が架かり、変わった部分もあるが「ゆったりとした島の空気は変わらない」と小松さん。「海の仕事では、自然に逆らえば命の危険もある。島の人たちが、それを肌で感じているからなのかもしれません」。
2025年7月30日に発生したカムチャツカ半島沖地震による津波でも養殖筏が転覆するなどの被害が出た
漁業者の高齢化が進むなか、気仙沼大島でも後継者づくりが課題となっているが、島外から移住して漁業に従事する若者もいる。そんな今、「島にあるものに、何かを足す必要も引く必要もない」と、小松さん。牡蠣の養殖も自然なペースで続けていきたいという。
毎年募集している牡蠣オーナーは次回、2026年3月から受付開始予定。
島の一人ひとりが、意志を持ってできることをしていく。そんな小さな希望の光が集まり、暖かく大きな灯火となる未来を心に描いている。
カムチャッカ沖地震が残した爪痕は、若手漁業者の経験値を上げる貴重な機会にもなった
【関連サイト】
ヤマヨ水産