つくろう、島の未来

2025年12月22日 月曜日

つくろう、島の未来

2025年3月8日に開催された「離島医療会議2025」のトークセッションより、離島における医療現場と住民の距離感や課題について多職種の視点で語るsession2「自治体/住民の想いを知る」のレポートをお届けします。記事前編です。

左から鯨本あつこ(認定NPOリトケイ)、医師の室原誉伶さん、離島の保健師として活動してきた青木さぎ里さん、濱見優子さん

島国・日本の離島医療を守る意義

鯨本

モデレータを務めます、離島経済新聞社の鯨本あつこです。今日は医療に直接関わりのない私も交え、皆さんと離島医療の特長や課題、未来の展望についてお話ししたいと思います。はじめに日本の離島について簡単に説明します。

日本は14,000もの島がある島国で、北海道、本州、四国、九州、沖縄本島以外の島が離島と呼ばれています。しかしながら世界ではオーストラリア大陸以下の面積の陸地は島と定義されるので、本州も含めて日本は全て島、ということになります。

日本には417の有人離島があり、そのうち本土と橋で繋がっていない島が306島あり「離島振興法」や「有人国境離島法」などの法律(※)による支援の対象となっています。

※島の暮らしや産業の基盤を整備・改善する「離島振興法」、奄美群島の振興開発を計画し自立的発展を支える「奄美群島振興開発特別措置法」、太平洋戦争における強制疎開からの復興と自立的発展を支える「小笠原特別措置法」、日本復帰以降の沖縄本島と38の沖縄離島を支える「沖縄振興特別措置法」、海洋国家の国境を守る島々を支える「有人国境離島地域の保全及び特定有人国境離島地域に係る地域社会の維持に関する特別措置法」、島の生命線・離島航路を維持改善する「離島航路整備法」など

日本には島が400もあるんだ!とびっくりされると思いますが、実はこれらの島々にはさまざまな価値があるんです。日本全体の人口に対し、島の人口は0.5パーセントほどと少ないですが、世界有数の広さを誇る日本の排他的経済水域(EEZ)を支えているのは有人離島の存在です。

日本は世界で6番目の広さの海をもっていますが、もし日本が本土だけだったとしたら、この面積は半分になってしまいます。離島地域は多様な文化や自然を保全している場所でもありますので、そこに文化的な営みがあることは非常に重要です。

鯨本

私たち離島経済新聞社は、離島地域を「生きる力が育つ場所」として注目しています。海士町のスローガン「ないものはない」のように、なくても必要なものは自ら創り出すクリエイティビティがあり、変化に対し他者と協力して乗り越える力を養える場所だと思っております。

しかしながら、離島にある価値は知られにくいのです。例えば、全国に417の有人離島がある中で「大島」と名のつく島は16島もあります。大島さんという名前の方もいたりするので、検索しても情報が調べにくい。そして小さくバラバラに点在しているため、つながりにくいのです。

そこで、私たちは有人離島の営みを集めたメディアをつくりました。手にとっていただきやすいよう親しみやすいデザインで、フリーペーパー『季刊ritokei』を年4回発行。全国の170島を含めた1,300カ所の公式設置ポイントで配布や閲覧を行っています。

私たちの活動を通して、知られにくい・つながりにくい離島の魅力や可能性を集め、「学び」を軸に人と島と社会をつなぎ、島に出会うべき人を島に近づけていくことに取り組んでいます。今日は、医療従事者の皆さまがどんどん島に近づいていただけるきっかけとできれば幸いです。

島の営みを継続させるために医者をやめてみた

鯨本

島々を取り巻く問題のほとんどが、島の営みを持続させるために欠かせない「交通・仕事・住まい・子育て教育・医療介護」と「人材・財源・情報・ノウハウ」の不足という課題の掛け合わせでできています。

今日は島の暮らしに欠かせない「医療介護」を中心に、人やお金、情報、ノウハウの解決について考えていければと思います。まずは皆さんの経験されてきた「離島医療」と医療と住民の距離について、考えていることを教えていただけないでしょうか。

室原

室原誉伶と申します。医者になり10年経ちますが、これまでに3カ所の離島を経験してきました。長崎県・上五島(中通島ほか)で初めて離島医療に携わり面白さを知り、島根県・西ノ島で修行させていただいた後、鹿児島県・下甑島に来て現在5年目になります。

島の人口規模はそれぞれ違っていて、上五島は2万人弱。西ノ島は約3,000人で、周囲も含めた医療圏は6,000人くらいの患者を抱えていました。下甑島は2,000人弱。人口規模によって、必要とされる医療は全く変わってきます。

上五島では内科全般を診察し、西ノ島では内科の他に外科、整形外科、皮膚科など幅広く診療する総合診療医として勤務。下甑島では総合診療をやりながら、地域のこともみる必要を感じるようになりました。現在は、1カ月のうち3週間下甑島で働き、1週間は熊本にある実家の病院で働く二拠点生活で医療に携わっています。

室原

下甑島で働くようになって、診察をして薬を出すだけでは地域の方々の暮らしを守れないことが分かってきました。僕が暮らす集落にはスーパーが1軒あるだけで、高齢者が出かける機会が少ない。外来で笑顔で話している人が、実は受診の時ぐらいしか家を出て人と話す機会がないことを教えてもらいました。

そこで、自分の後任が決まっていたこともあり、島で3年目を迎えた時にいちど医者をやめてみました。高齢者の家事代行をしてみたり、耕作放棄地を開墾して米をつくり、懐かしい風景を地域の人に見てもらったりと試行錯誤。さらに古民家を改修し、島外から来る医療者も泊まれる宿も整備しています。

住民と医療の間をつなぐ保健師の役割

青木

大学を卒業後、東京都の青ヶ島村で7年間ほど保健師をしていました。現在人口約160人という、日本で一番人口が少ない自治体です。医療は、診療所に医者と看護師が1人ずつの体制。それまで保健師がいなかったため、手探りで活動を始めました。

着任して早々、健康教育をすることになりました。テーマを検討するために「過去の健診データを分析したい」と役場に伝えると庁舎の倉庫に案内され、段ボールの中に膨大な量の紙の記録が入っているのを見せられたんです。

データの活用はあきらめて、全戸訪問をすることに。どういう人たちが暮らしていて何を大切にしているのかを聞いて周りました。インタビューの結果をまとめて、診療所の医師や看護師と相談し、高血圧をテーマに健康教育を実施することになりました。

医療と住民との距離感については、都市部にある大規模な病院と地域の診療所、それぞれを効果的に活用してもらうサポートをするのが保健師の役割だと思っています。

青木

青ヶ島では、診療所の医師は6カ月で交代する体制でした。住人の方は新しく来る先生の専門を聞いて、「足が痛いけどこの先生は専門じゃないから」と通院をやめてしまう方もいたんです。

そこで、住人の方には、診療所の医師は総合診療医として基本的になんでも診ていただけることや、島内で対応できない場合は必ず島外の医療機関につないでいただけることを伝え、医師には、ご自身の専門の前に総合診療医であることを言っていただけるよう依頼。安心して診療所を受診していただけるよう、双方に働きかけました。

精神疾患を持っているが病識がない方や、認知症の方。とても我慢強い方、医療を中断してしまった方など、医療が必要だけど利用していないハイリスクの方への支援も実施。医療にかかる手前の、生活習慣予防にも保健師として関わっていました。

住民と信頼関係で結ばれた医療が続いてほしい

濱見

海士町生まれ、海士町育ちの濱見です。私は、34年間海士町役場で保健師をしていました。1984年から鳥取大学医学部脳神経内科と、脳卒中等の研究事業を開始。この事業をきっかけに、九州大学や松江医療センターとの認知症の研究事業など、さまざまな形で島外と連携した活動が続いています。

海士診療所の協力もあり、認知症の実態調査ではMRI搭載車が隠岐汽船のフェリーに乗って3回海士町に来島し、65歳以上の全住人を対象に頭部MRI検査を3回にわたり実施できました。

1986年からは、糖尿病対策事業をスタート。全国から糖尿病内科、外科、神経内科の専門医や栄養士が海士町に集結し、町内の糖尿病患者や境界型の方を対象に糖尿病検診を実施。コロナ禍が始まるまで、30年間継続しました。合併症予防のために始めた眼科検診が、現在の海士診療所の眼科外来につながっています。

糖尿病対策事業では、1999年に「保健文化賞」も受賞しました。海士町のさまざまな医療福祉活動の中心には海士診療所があり、その存在無くしては活動が成り立ちません。私の退職後は1名の看護師と5名の保健師が活動を引き継いでいます。

濱見

住民の立場からもお話しします。11年前に、病気知らずだった夫がステージ4のがんを宣告されました。仕事や地域活動を続けながら治療をしたいと言う本人の希望を叶えてもらい、海士診療所で3週間ごとの抗がん剤治療を受けながら4年間の闘病生活を続け、自宅での看取りも支えていただきました。

子どもの頃から診療所に医師や看護師さんがいることを当たり前に思って暮らしてきましたが、離島でそれを実現できていたのは恵まれたことだったのだなぁと思います。

働くようになって、診療所の機能や設備が充実していくのを間近に見ながら、町民としても医療の恩恵を受けてきました。今後は海士町の医療体制も変わっていくだろうし、住民の意識や受診行動も変わっていかなければならないと感じています。

ただ、島に人が住み続ける限り、住民と信頼関係で結ばれた医療の在り方は続いて行ってほしいと願っていますし、医療のないところには、人は住めなくなると思っています。

離島地域で命と健康を支える仕事のやりがい

鯨本

室原さんは、海士町の医療環境についてどんな印象を持たれましたか?

室原

先ほど診療所も見せていただきましたが「すごいな」という言葉しかありません。

鯨本

海士町と同じく人口2,000人規模の島は国内にいくつかありますが、海士町ではここまで医療環境が充実していることに、私もおどろきました。

地域の医療はそこで働く人があってこそだと思いますが、離島で命と健康に関わるお仕事のやりがいについて、皆さんどう感じていますか。

室原

「見ず知らずの人ではない、「あなた」の困りごとを医療を使って助けてあげられる」ということが大きいです。3つの島で離島医療に携わる前に、浪人時代から初期研修が終わるまで合計10年間都内にいました。東京の病院でもさまざまな患者さんを診たけれど、その人の背景まで知ることはなかなかできませんでした。

離島医療の場合、普段から見知っていて日常生活で助けてもらうこともある人を、医療の力で支えることができる。そんな時「あぁ、この仕事して良かったなぁ」としみじみ思いますね。

青木

「平等」と「公平」という言葉がありますが、離島医療に携わるようになり、「公平な医療とはなんだろう?」と考えるようになりました。

例えば、青ヶ島から都内の病院へ救急搬送する場合、どんなに急いでも3時間以内に到着することは難しいです。脳卒中の方がいても悪天候でヘリを飛ばすことができず、3日待ったことがありました。

地理的条件から、本州と全く同じ水準の医療を受けることは、どうしても不可能なことがある。そのような地域でどうしたら公平な医療を実現させられるのかを、ずっと考えてきました。そこに挑戦できたのが一番のやりがいだったと思います。

濱見

同じ地域の住民でもある離島の保健師は、住民の方の生活の実態や背景を把握しやすいのが特長です。地域の実態に基づいて事業を計画し、実践したときの成果も大都市に比べて分かりやすい。住民との信頼関係が築けていれば、役に立っている手応えを感じられると思います。

海士町では、役場に反対されたり「予算がない」と却下されることもなく、さまざまな保健師活動に自由に挑戦することができました。ありがたいことだったなと思っております。

室原

断られることがないとはすごいですね。

鯨本

一言に離島医療といっても、人口規模も数人から数万人規模まであります。5万人いるような大きな島だと全ての住民を把握することはできませんが、2,000人くらいの島だと何となく島の人の顔がわかります。

お話しいただいた例のように、地域住民との顔の見える関係の中で解像度高く効果的な事業をつくれたり、誰のためになっているのかを実感できたりするのは、やりがいを感じられる場面かと思います。

鯨本

離島という医療資源の限られた地域で、人がよく生き、よく死ぬためには何が必要でしょうか。皆さんが思う理想と現実についてお聞かせください。

青木

医療資源が限られている地域では、往々にして介護資源も限られます。そうすると人が最期を迎える時や、大病をして大病院にかかる必要が生じた時に、いちど地域を離れる必要がでてきます。

その後は地域に戻ってこれるかどうかですが、青ケ島の場合は戻ってこない選択をする方が多かったです。島の中でも「こうなった場合にはもう戻ってこれないよね」という暗黙の了解がある。

それは思い込みではないのかな?と、私は時々思ったものですが、島の住民も診療所の医療スタッフも、島には戻れないと思っていたし、本土の大病院の先生方が一番強くそう思っていて、退院支援の際に「戻れないだろう」というバイアスがかかっていると感じることがありました。

島で最期を迎える選択肢があり得るかもしれないのに「医療資源の限られた島では大変だろう」という周囲の判断によって、持つことができてない。島にもよるかとは思うのですが、そんなこともあると感じています。

室原

地域によって文化的背景が違うのだろうなと感じます。僕は熊本と下甑島を行ったり来たりしながら働いていますが、熊本では経鼻胃管や胃ろうをつくって療養されている方もいますが、甑島ではそれを管理できる施設がないので、希望する場合は島外に移るか在宅でご家族がケアしなければいけなくなります。

そんな背景もあって、甑島では胃ろうをつくるのは一般的ではなかったし、必要とする文化もなかったりします。食べられなくなったら、その時はその時、と皆さん自然と納得されているところがあります。

鯨本

よく生きる、よく死ぬ、ということは「どう納得するか」ということでもあるんですね。地域によって背景が異なるというのもその通りで、例えば鹿児島県は離島人口が一番多い県で、数十人の島から5万人規模の島までいろんな環境があります。

地域の医療資源に違いも制限もある中で、住人自身がどう納得して暮らすかは大切だと思います。それでも、各地でお話を伺っていると「やっぱり最期は島で……」とおっしゃる方が多いんですよね。

濱見

私が保健師として働いていた10年前頃までの統計ですと、8割の方が島前管内で亡くなっており、30〜40パーセントの方はご自宅で最期を迎えていました。本土でなくなった場合でも、フェリーでご遺体を運んでご自宅で葬儀をするのが一般的でした。

コロナ以降は家族葬などが少しずつ増えてきて、本土で荼毘に伏してから島に帰ってくるケースもみられます。島の医療環境によって帰れないというよりも、ご家族や親類が島外にいる場合や、意識の変化が大きいかと思います。

鯨本

海士町では、島で最期を迎えたいという方が多いのでしょうか?

濱見

一昔前までは誰もがそうでしたが、最近は変わってきました。年代が変わり、島に子どもがいたり親戚がたくさんいる家庭も少なくなってきているので、「周りに迷惑をかけたくないから」と、本土での葬儀を希望する方も増えてきています。

必ずしも島が良くて本土がいけないという意識ではなく、本人とご家族の納得の上で判断するという感じです。

鯨本

時代の変化や価値観の変化に伴い、地域でもさまざまな意識の変化が起こっていることと思います。

島外で入院した後に島に戻ってこられるかという点では、戻ってきた後のケアも必要になってくると思いますが、どんな支援があったら良いと思いますか。

青木

その時になったらどうしたいかをあらかじめ考えておくと、いざという時にじっくり考えて判断ができると思います。ただ、元気な方に島の医療資源の状況を伝えることはなかなか難しい。

「悪い噂ほどよく回る」といいますが、それは他人から学び合う姿勢があるということでもあると思うのです。島の住民が島外に入院するような時は、みんなが自分ごととして捉えてもらう最大のチャンスです。

難しいと思われたケースでも、本人が島に戻ることを希望して、いろいろと工夫することで「戻ってこれたね」という最初の実例を上手につくることができれば、「戻ってこれない」という思い込みをだんだん外していけると思います。

室原

診療所に本土の病院から「終末期の患者に島で最期を迎えさせたい」という問い合わせを受けたり、そうした問い合わせもなく、島外で最期を迎えられた方の話を後で聞いたりすることがあります。

一度でも聞いてくれたなら、うちの診療所でできないことは殆どないんですよね。手術はできないけれど、外来も病棟もあって救急もやっているし、透析もできます。できることがいろいろとあるので、一度相談していただけたら。

そのために、ご家族から本土の先生に「島の診療所に一度相談してみてもらえませんか」と言っていただける関係性を地域の方とつくっていくことが大事だなと思います。

青木

本当にその通りで、島で受け入れができる診療所があることを、本土の大病院の先生が知っていてくださることで、うまくいくケースがたくさんあると思います。

介護面のサポートは、診療所から役場に相談していただけると良い方法を見つけられることもあるかと思います。そういう連携をできるようになると素敵ですね。

鯨本

人と人の支え合いがあるのが島の強みだと思います。お金を介さない支え合いが日頃のおしゃべりを通した情報交換の中で成り立っているので、島らしさをうまく活かしていけると良いなと思いました。

いざというとき頼れる・協力しあえる離島医療に

鯨本

離島医療や周辺の課題に対して「こんなことができたらいいな」「こんなふうに改善していきたい」ということがありましたら教えてください。

室原

最近、診療所で理学療法士を採用しまして、島に初めてセラピストが入りました。その彼にやりたいことを聞いたら、地域の人を集めて集団リハビリテーションをやりたいというんです。

赤字にならないよう経営を考える必要もあるのですが、行政サービスの末端を担っている立場として、健康づくりや孤立を防ぐ活動など、なかなか収益に結びつきにくい活動を担うことも、地域の診療所として価値があることだと思います。

個人的には、診療所をやらずに米づくりをしたいですね(笑)。いざというときに頼ってもらえる関係性づくりは、医療だけをしていては難しいので、医療者にも地域活動を業務として割り振っていかないと。

青木

行政保健師の立場からすると、住民同士がお互いを知っているような離島では、地域の課題というのはおおよそお互いに把握していて、改善のためのアイデアもわりと重なる部分が多いと思います。

先ほどの集団リハビリテーションのアイデアで言うと、社会福祉協議会も、地域の自主グループも、役場も同じようなことを考えていたりするので、放っておくと似たようなものが地域に乱立して非効率な状態になることも。

地域の中でぽつぽつとアイデアが湧き出てきた時に、役場の声がけで場を設けて、違った立場の人々が集まって話し合ったり協力しあえる体制をつくれると良いのではないかと思います。

鯨本

海士町でも、医療に限らずさまざまなクリエイティブなアイデアが生まれていますよね。

濱見

次々といろんなことを実践する町だなと、住んでいても感じます。

ドクターがいて普段の診療や急患に対応していただけて、内科だけでなく精神科、眼科など島内である程度の医療が受けられて、必要であれば島外の病院につないでいただけるのはありがたい。この体制が続いてくれると良いなと思います。

今後、オンライン診療の充実にも期待しています。住民の立場から「こうなったらいいな」を要望しだすとキリがないところもあり、それを実現するために医療者の負担が増えるようではいけないと思います。

離島医療に向いているのはどんな人?

鯨本

さて、会場より質問が来ております。「島生活に向いている人・向いていない人はいますか」オンラインで試聴してくださっている医療者の方の中には、島に住んだことのない方々もいらっしゃいますよね。そんな皆さんにメッセージをいただけないでしょうか。

室原

向いている・向いていないは無いと思っていて。島は人口規模もさまざまなので、人によって合うところがきっとあると思います。僕の場合、下甑島が3カ所目の離島でもう5年居るので、一番居心地がいいのかもしれないです。

一カ所の離島へき地に行っただけで合わないと判断せず、興味があるなら何カ所か行ってみてほしいなと思います。

鯨本

日本には400もの島があって、個性が全然違うんですよね。私たちが今いる海士町のお隣にも西ノ島や知夫里島がありますが、それぞれ島に降り立った瞬間から雰囲気が違います。

自分に合った性格の島にきっと出会えるので、先ずは気軽に遊びに行ってみるのも良いと思います。

続いて、奄美大島で歯科衛生士をされていた方より「地域内での情報共有のために工夫していることがあれば教えてほしい」とのご質問が来ています。何か良いヒントはありますか?

室原

これも島の規模によって違うかもしれませんが、コミュニケーションをとるために会いに行くとか、わからないことがあったら相談するとか。島だとお互いの家が近いから飲みに行くとか(笑)。

青木

例えば、市町村で重症化予防に力を入れているところだと、民間のクリニックなどで手が回らない保健指導のサポートをしていたりします。相談していただけると協力できることもあるので、医療関係者がもっと行政を頼っていただけると良いかもしれません。

鯨本

人口規模では約2万人の島から「日に日に医療が守れなくなってきているのを感じる」との声も届いています。移住者が危機感を持って活動しようとした時に、地元との温度差を感じることもあるそうですが、どんな工夫が必要でしょうか。

室原

この人に話を通した方が良さそうだな、という人に話をしに行く。僕の場合、島で御用聞きのサービスを始める前に、まず地域のことをよく分かっているケアマネージャーさんに相談しに行きました。親身になってくださり、事業の立ち上げの際もすごく応援してもらいました。

ここまでの話を振り返ってみると、さまざまな島があって、地域によって目指すべきゴールは全然違っていますよね。

地域の方、行政、医療・介護者が集まって地域の「医療のゴール」「介護のゴール」を話し合う場をつくっていくことが、先ほど話し合った「納得できる生き方・死に方」の実現につながるのかなと思います。

鯨本

ここでお時間となりました。皆さんありがとうございました。

>>記事後編に続く

登壇者プロフィール

青木さぎ里(自治医科大学看護学部 講師)

東京都出身。自治医科大学看護学部講師。NPO法人へき地保健師協会理事長。青ケ島で村の保健師として約7年活動した。離島で働く保健師が生き生きと仕事をして、島で暮らす人々の健康を実現することが夢。著書に『離島の保健師 -狭さとつながりをケアにする-』(青土社)。

室原誉伶(下甑手打診療所 所長/菊南病院 総合診療科)

熊本県出身。順天堂大学医学部を卒業後、河北総合病院で初期臨床研修を修了。その後、離島僻地で戦える医師を育てるプログラム「ゲネプロ」に参加し、長崎県上五島病院での研修やモンゴル・オルホン県地域診断治療センターでの教材作成支援を経験。隠岐島前病院での勤務を経て、現在は鹿児島県下甑島の手打診療所で地域医療に従事。途中、医師を辞めて生活支援や米作りに取り組んだ経験もあり、現在は熊本の菊南病院と2拠点で医療活動を行っている。

濱見優子(元・海士町役場健康福祉課長)

海士町出身。1981年広島県立広島看護専門学校卒業後、保健師として海士町役場に就職。2010年より健康福祉課長。10年前に退職するまでの34年間、島の保健福祉活動に従事。子育てや両親の看取り、抗がん剤治療を受けながら仕事を続けることを望んだ夫の4年間の闘病、自宅での最期を支えていただくなど、海士診療所は公私ともにとても身近で頼りになる存在。

モデレーター 鯨本あつこ(認定NPOリトケイ)

1982年生まれ。大分県日田市出身。地方誌編集者、経済誌の広告ディレクター等を経て2010年に離島経済新聞社を設立。「島の宝を未来につなぐ」ことを目的に、国内400島余りの有人離島地域の情報発信および地域振興事業を行う。2児の母。美ら島沖縄大使。趣味は人とお酒と考えごと。

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