つくろう、島の未来

2024年04月23日 火曜日

つくろう、島の未来

奄美群島(あまみぐんとう|鹿児島県)の民謡であるシマ唄が、4月1日よりApple社のiTunesStoreでダウンロード配信されるようになりました。
販売元の奄美大島(あまみおおしま|鹿児島県)のセントラル楽器さんに、どんな思いでシマ唄と関わってきたのか、お話をうかがいに行ってきました。

th_6.2代目と3代目

60年間で100枚ものシマ唄アルバムを作成

現在社長の指宿俊彦さんは、
創業から3代目。
セントラル楽器は、
徳之島町出身の祖父・指宿良彦さんが
鹿児島市で自転車屋を営んだことから始まりました。

昭和22年、鹿児島市から
米軍占領下の奄美大島に引き揚げて店を構えます。

雑貨や楽器、
流行歌のレコードなどを販売するかたわら、
模型飛行機やオートバイなども扱っていたという祖父の良彦さん。
どうやら新しもの好きの趣味人だったようです。

「シマ唄も最初は
祖父の趣味だったんですよ。
祖父の祖母が『亀津朝花』という曲が好きで、
毎日歌っていてくれたそうなんです。
その唄を再現したくて、
シマ唄の録音を始めたんです。
祖父はシマの気持ちが入ってる人が好きで、
今でもシマ唄を聴いて
『この人はいい、この人はダメ』なんて言ってますよ(笑)」。

th_7.里歩寿

趣味で始めたとは言え、そこからのめり込み、
奄美大島だけでなく、徳之島、沖永良部島など、
奄美群島各地をかけまわり収録。
100人近くもの唄者のアルバムを
60年近くもこつこつ作り続けていく作業は
シマ唄への圧倒的な思い入れがあってこそ。

レコード・カセットテープ、
そしてCDへと変化し、
さらにインターネットでダウンロード配信という形で
伝えられていく奄美のシマ唄。

セントラル楽器も
初代から孫の3代目へと世代が交代していっている。

小さな頃から
実家がシマ唄の制作に深く携わっていた
3代目の俊彦さんにとって、
シマ唄はどういう存在だったのでしょうか?

きっかけはアメリカ留学

「自分は小さな頃からピアノをやっていたんですが、
シマ唄にはまったく興味はなかったですね(笑)。
中学卒業後は、
島を出て鹿児島の高校に行ってたんです。
卒業して洋服屋で働いてて、
英語がしゃべれたらカッコいいな〜(笑)と思って、
アメリカのオレゴン州に6年留学してました。
そこで日本や生まれた奄美大島について聞かれるんですけど、
説明があまりできなくて悔しくて。

現地でたまたま
沖縄のエイサー太鼓をやってる人がいて、
沖縄に負けてたまるか!
自分は奄美のPRをするぞ!と。

そういえば自分の家は
シマ唄のCDを作ってたよな〜と思い出して(笑)、
CDを送ってもらったんです。
そこから勉強したのが
島やシマ唄について興味を持ったキッカケですね。
アメリカで日本人がやってるラジオ番組で
坪山豊さんのシマ唄を流してもらった時は嬉しかったですね」。

th_小物

自分たちで街を盛り上げる『街プロジェクト』

奄美という自分のシマに目覚めたアメリカ生活を経て、
実家の家業を継いで7年。
2年前からは社長という立場になり、
やりたいことも、いろいろと実現していっているよう。

「iTunesStoreで
シマ唄のダウンロード配信していくのもそうですけど、
どうにかして奄美を盛り上げていきたいんです」。

セントラル楽器がある商店街は、奄美大島で一番大きい街である
奄美市名瀬(人口約4万人)にあっても、
日本の地方の商店街と同じ問題を抱えています。

「年配の方々は商店街はダメだダメだとしか言わない。
でも、そうじゃなくて何かやってみようよと、
若いメンバーみんなで集まっているんです」。

できるだけ行政の力を借りずに
自分たちができることは自分たちでしていこうと、
『街プロジェクト』という団体で事務局を務め
商店街活性化に取り組んでいる。

6月には「奄コン」と題し、商店街の9店舗を使った
大規模な合コンも開催予定。

「いろいろな業種からの濃いメンバーが集まって
イベントなどを企画してます。
やっぱりみんな『まずは商店街が元気がなくっちゃ』と言ってくれるんですよ。

内地(本土)にいるシマッチュからは
『島にいる人たちは、もっとガンバレよ』と言われるけど、
島にいる若い人たちだって、ガンバってますよと言いたいですね」。

奄美シマ唄という文化を伝えるために、
iTunesStoreで配信していくという新しい試み。
そして、自分のシマ(商店街)を盛り上げたいという気持ち。

島の生活では、楽しいことは自分たちの手で
生み出していかなければ何も始まらない。

奄美では、さまざまな想いを持った人たちが
動きだしています。

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