つくろう、島の未来

2019年06月16日 日曜日

「国境離島」と呼ばれる島々に暮らしている人の想いを紹介。2017年4月、「有人国境離島法」が施行され、29市町村71島が特定有人国境離島地域として指定されました。「国境離島に生きる」では、内閣府総合海洋政策推進事務局による「日本の国境に行こう!!」プロジェクトの一環として実施された、71島の国境離島に生きる人々へのインタビューを、ウェブマガジン『another life.』とのタイアップにて公開します。

くすぶる人たちへ、新しい一歩を。
「一人の力」を差し伸べられる人であるために。

岩井明人|島根県・隠岐の島でゲストハウス「KUSUBURU HOUSE」を運営。

島根県の隠岐の島(島後|どうご)でゲストハウスを運営する岩井さん。東南アジアでの放浪や、東日本大震災のボランティアを経て、隠岐の島での起業にたどり着きました。何かあったときに動ける人間でありたいという想い、「くすぶる人たち」に対して提供したいこととは。お話を伺いました。

大失恋から立ち直るために

神奈川県の横浜で生まれ育ちました。子どもの頃から活発で、体を動かすことが大好きでした。一番夢中になったのが、バスケットボールです。近所に住んでいたミニバスのコーチに誘われたのがきっかけで、小学1年生のときに始めました。

ポジションはポイントガードで、チームの司令塔として全体を把握するような役割でした。機転を利かせることで、アシストから得点に繋がるのが楽しくて仕方なかったですね。

中学まではプロ選手を目指していました。でも、2年生のときにケガをしてスタメンから外れてしまい、自分の限界を感じました。学年が上がるにつれて、選手のレベルも上がっていて、上には上がいるという現実を思い知ったんです。

高校でもバスケットは続けましたが、プロは目指しませんでした。その代わり、新しく見つけた夢が、パイロットになること。好きだった俳優がドラマでパイロットを演じるのを見て、純粋に「かっこいいな」と憧れたんです。

しかし、大学受験では航空系の学部は全て落ちてしまいました。ご縁がなかったということで潔く諦め、唯一合格した大学の国際関係学部に入学しました。

大学1年生のときに、小学生の頃から好きだった彼女にフラれました。小中高と同じ学校に通って、ずっと好きだった女の子です。高校2年生のときに、やっと付き合うことができたのですが、大学に入ってすぐフラれてしまったんです。かなり落ち込んで、近所のお寺で泣いたり、手当たり次第に友人に愚痴を聞いてもらったりしました。

そんなときに、バイト先の居酒屋のお客さんから、ベトナムの話を聞きました。社員旅行でベトナムに行ったら、可愛い女の子がたくさんいたと。海外には全く興味が無かったのですが、なんとなくベトナム行きを決めました。その日のうちに幼なじみを誘い、ベトナム旅行計画を夜な夜な話しました。

色んな人を知りたい

ベトナムに行ったのが初めての海外旅行でした。空港に着いた瞬間から、読めない文字が溢れてて、右も左もわからない。その状況が楽しかったですね。

怪しそうに見える人に面白がって着いていったりもしました。ベトナムは治安が良いので、幸いにも危険な目には遭いませんでした。全く知らない世界に飛び込むのを楽しんでいましたね。

サイゴンの町を歩いていると、ベトナム人のおじさんに声をかけられました。「一緒に飲もう」と誘われて、ベトナム名物の氷入りビールを飲むことになったんです。

おじさんが着ている服はかなり汚れていたので、どうせお金は持ってないだろうと思いました。僕の方がお金を持ってると思って、おじさんの分のビール代まで払おうとしました。そしたら、おじさんが「いいよ、俺が誘ったんだから、俺が払っとく」って言ったんです。

衝撃を受けましたね。人を見た目で判断していた自分が恥ずかしくなりました。日本でホームレスの人たちを見て、知らず知らずの内に、貧しい人は自分のことしか考えてないというイメージができ上がっていたんです。人を見た目で判断しちゃダメなんだと思いましたね。

また、どんな人にも感情や気持ちがあることに気づきました。自分とは育った環境も暮らしている場所も違うけど、どんな人にも、みんなと一緒にお酒を飲んで楽しみたいとか、人を喜ばせてあげたいとか、そういう気持ちがあるのかもしれないと思ったんです。それまでは、自分以外の人の気持ちを想像することがあまりなかったので、自分にとって大きな変化でした。

それから、もっと色んな人を知りたいと思うようになりました。大学でラウンジにいる外国人に積極的に話しかけたり、留学生にインタビューをする授業を取ったりしました。

さらに、東南アジアを回るようになりました。旅先で出会った人たちの話を聞くのが本当に面白かったんです。ブログを書きながら世界一周をしていたり、海外でビジネスをするために買い付けをしていたり、日本でプロダンサーだったひとが放浪していたり。今まで出会ったことがないようなタイプの人たちの話に、刺激を受けました。

また、日本でもそれまで行かなかったエスニック系のお店やライブに行くようになって、出会いが広がったんです。自分の感覚が変われば、海外に行かなくても自分の世界は変わっていくんだと思いましたね。

人は何かを抱えて生きている

もっといろんな経験をしたいと思い、大学3年の1年間は休学して、アメリカを横断すると決めました。行く直前の春休み、タイに旅行していたときに東日本大震災が起こりました。祖母の実家が宮城県だったこともあり、すぐに帰ろうと思ったのですが、日本行きのチケットは取れませんでした。

そのとき、タイの人たちにすごく優しくしてもらったんですよね。僕が日本人という理由だけで、レストランの食事代をタダにしてくれたり、「家族は無事だったか?」って気遣ってくれたり、大きな横断幕を用意して色んな国の人がメッセージを書いてくれたりしました。「少ししか用意できなかったけど、俺の貯金を日本に送ったよ」って言ってくれた人もいました。

色んな人の優しさに触れて、僕がもらうだけで終わってはいけないと思いました。タイでもらった心遣いを、ちゃんと還元したい。僕ができる恩返しとして、東北の被災地でボランティアをすることにしました。アメリカ縦断の計画を変更して、休学の1年間を使って被災地に行きました。

ボランティアに行って改めて感じたのは、一人ひとりの人生の重みです。特に印象的だったのは、各地から来たボランティアを指揮してくれる、現地のリーダーの男性でした。みんなの先頭に立ってくれる、すごく元気な人というイメージでした。

ところが、話を聞いてみると、その方の身内や親族、身近な方を震災で亡くしてしまっていたんです。言葉では言い表せないほど辛いはずなのに、どうしてこんなに元気に振る舞えるのか。僕にはわかりませんでした。話を聞いても、返す言葉が見つかりませんでした。

被災地で苦しむ人、乗り越える人を目の当たりにして、色んな人が色んな想いを持って生きているということを改めて感じました。初めてのベトナムで感じた「色んな人に、自分と同じように感情がある」という感覚が、より深く自分の中でに落とし込まれたんです。

この世界の主人公は自分だけじゃなくて、全ての人にストーリーと背景と感情がある。そう実感しました。

その感覚は、ボランティアを終えてからも自分の軸として残り続けました。街で暗い顔をした人とすれ違う時でも、「あの人が暗い顔をしているのは何かつらいことがあったからかもしれない」などと、人の感情の背景にあるものを想像するようになりました。

その感覚を知ってからは、色々な人の想いに触れてみたいと思いました。それまでは避けてきた人も含めて、どんな人にも関わってみたいと思うようになりました。

何かあったときにすぐ動きたい

震災ボランティアを通して、食の大切さも感じました。被災地では、危ない場所でも住み続けようとする人がたくさんいると知りました。それは、そこでしか生活できないから。でも、自分で野菜と米を作れるようになれば、場所を選ばずどこでも暮らせるんじゃないか。そう思い、生きるベースを作るために、いつか農業をやりたいと思うようになりました。

1年間のボランティアを終えて大学に戻ってからは、環境学部に転部しました。原発事故による放射能の影響などを、きちんと勉強したいと思ったんです。ただ、被災地の状況が気になって、勉強には身が入りませんでした。結局、単位がひとつだけ足りず、卒業できませんでした。並行して始めたバイトでは、表参道で有機野菜を使ったフードスタンドでキッチンを担当しました。そこなら、関心のあった食に関われると思ったんです。

また、週末は山梨に行き、知り合いの農家を手伝うようになりました。1単位を取得して卒業した後は、山梨に移住し、農園に就職しようと思っていました。ところが、経営が行き詰って給料を払えなくなったと言われ、農園を辞めざるをえなくなってしまったのです。

農園を辞めたその日に、山梨に出張に来ていた地元の友人から、偶然連絡が来ました。飲みに行くことになり、彼がその席で、島根県の隠岐の島に住んでいた友人を紹介してくれました。ことの経緯を説明すると、隠岐の島への移住を勧められました。隠岐の島なら米も野菜も作れると教えてくれたのです。

これも何かの縁の巡り合わせだと感じて、その場で移住を決意しました。隠岐の島を紹介してくれた彼が、すぐに何人か島の人を紹介してくれたので、とんとん拍子で話が進みました。

準備を済ませ、大学を卒業した一月後に隠岐へ移住しました。住む場所も仕事も決まってなかったのですが、不思議と不安はありませんでした。

初めて隠岐の島に来た日は、天気も良くて暖かいし、何より地元の人が親切にしてくれるので居心地がよかったです。まずはホテルで働きながら、受け入れてくれる農家を探しました。

移住して半年ほど経ったときに、「隠岐古典相撲」という行事に参加することになりました。興味本位で参加を決めたんですが、実際の練習があまりにも辛くて、参加したことを後悔しました。でも本番になってみると、島のみなさんが「見ない顔がいるぞ」ってことで注目してくれたんです。

そのイベントで顔を覚えてもらって、島の方から声をかけてもらうことも多くなり、だんだんと島での居場所ができていきました。島の人からの紹介で、ホテルのあとは林業、そのあとは農業のお手伝いをさせてもらうことになりました。

しかし、実際に手伝いをさせてもらったことで、農業は自分の職業にはできないということがわかりました。僕が身に付けたかった野菜づくりの技術は、自分一人や家族の必要な食料を自給自足するためのもので、利益を出すための農業ではなかったんです。

それよりも、自分の軸は、「何かが起こったとき、いつでも駆けつけられる身軽な状態でいたい」ということなんです。被災地にボランティアに行ったときに、一人の人間の力の大きさを思い知ったんですよね。例えば、僕は被災地で、6人一組で家の修繕を担当していたんですけど、この6人に一人加わるだけで、作業のペースって劇的に良くなるんですよ。

ほんの少ししか力になれないかもしれないけど、被災地ではそれが必要とされているってことを知りました。だからこそ、災害など何かが起こったとき、自分はいつでも動ける「一人」でありたいと思ったんです。

農業は、毎日やる作業があるので、あまり自由がありません。それなら、自分で時間をコントロールできる仕事を始める必要があると思いました。

くすぶるハートに火をつけろ

現在は、隠岐の島で「KUSUBURU HOUSE」というゲストハウスをやっています。地元の農家の人と提携して、農業体験をできるようなプログラムもやろうと思っています。

KUSUBURU HOUSEのコンセプトは、「くすぶるハートに火をつけろ」。僕もそうでしたが、農業に興味があっても、何から始めたらいいかわからないで、くすぶっている人ってたくさんいると思うんです。そういう人が、一次産業に挑戦するきっかけを提供したくて。また、実際に泊まることで島を知ってもらうことが、隠岐の島の農業や林業のPRになるとも思うんです。

ゲストハウスに来てほしいのは農業に興味を持っている人だけではありません。「何をしたいのかわからない」とくすぶっている人にも来てほしいと思っています。同じような状況のひとが何人か集まってれば、「自分だけじゃないんだ」と思ってもらえるし、誰かと一緒なら一歩踏み出せると思うんです。

今はまだくすぶっててもいいんだ、これから燃えるんだという意味で、「くすぶるハートに火をつけろ」というコンセプトなんです。

隠岐の島でKUSUBURU HOUSEをやりつつ、世界中でいろんなことをやりたいと考えています。先の目標だと、隠岐の米を外国に行って売りたいとも考えています。

例えば、物価の高い国でおにぎりを売って、その利益を使って途上国に米やおにぎりを無償で提供してあげたい。その国の子どもたちが興味を持ってくれたら、一緒におにぎりを売って回ったりもしてみたいですね。海外と隠岐を繋げられたら素敵だなと思います。

他にも、日本の調味料を世界に輸出したり、世界中のいいものを集めたセレクトショップを作ってみたい気持ちもあります。ここでできることは隠岐の島でやりつつ、できないことは世界中や地元の金沢文庫で挑戦したいです。

常に身軽な状態でいることで、どこかで何かが起きたときは、すぐに動けるような生き方をしていきます。

離島経済新聞 目次

【国境離島に生きる】国境離島71島に暮らす人へのインタビュー

いわゆる「国境離島」と呼ばれる島々にはどんな人が暮らしているのか? 2017年4月に「有人国境離島法」が施行され、29市町村71島が特定有人国境離島地域として指定されました。「国境離島に生きる」では、内閣府総合海洋政策推進事務局による「日本の国境に行こう!!」プロジェクトの一環として実施された、71島の国境離島に生きる人々へのインタビューを、ウェブマガジン『another life.』とのタイアップにて公開します。

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