つくろう、島の未来

2024年04月18日 木曜日

つくろう、島の未来

「国境離島」と呼ばれる島々に暮らしている人の想いを紹介。2017年4月、「有人国境離島法」が施行され、29市町村71島が特定有人国境離島地域として指定されました。「国境離島に生きる」では、内閣府総合海洋政策推進事務局による「日本の国境に行こう!!」プロジェクトの一環として実施された、71島の国境離島に生きる人々へのインタビューを、ウェブマガジン『another life.』とのタイアップにて公開します。

活気あふれる島にするために。
まずは「知ってもらう」一歩から。

竹内 功|島らっきょう生産者。鹿児島県宝島で、島らっきょうの生産、トビウオ漁、バナナの繊維を使った芭蕉布作りを行う。

トカラ列島の宝島(たからじま|鹿児島県)で、島らっきょう作りやトビウオ漁、バナナの繊維を使った芭蕉布の生産と、様々な挑戦をする竹内さん。島を活気づけるために、これから挑戦していきたいこととはどんなものでしょうか。お話を伺いました。

進学校から高卒就職の道へ

埼玉県三芳町で育ちました。興味のあることはすぐ挑戦する性格で、静かにじっとしていることは少なく、小学校の通知表にはいつも「落ち着きがない」と書かれていました。毎年夏休みには、知り合いを訪ねて、伊豆七島の式根島という島に行きました。2週間ほど滞在して、毎日ひたすら海で遊んでいましたね。

小学校卒業後は、中高一貫の進学校に進みました。文化祭に遊びに来た時、雰囲気がすごく楽しそうだったんですよね。

高校生の頃は、アルバイトばかりしていましたね。バブル真っ盛りの頃で、高校生でも容易にお金を稼ぐことができたんです。稼いだお金で友達と遊び歩いていました。

高校を卒業するときも、将来のことよりも目の前のお金を稼ぐことに意識が向いていました。進学校なので周りの人はみんな普通に大学受験をするんですが、僕は受験をしませんでした。勉強よりもお金を稼ぎたいと思って、就職したんです。

就職したのは貿易代理店です。単純な営業をしたり、請求書を作ったりするだけだったので、仕事は特にハードではなかったです。それよりも、上司と飲みに行くのがメインの仕事みたいになっていて、毎晩飲み歩いていました。

お酒を飲むのが好きだったんですよね。あと、料理をするのも好きで、自宅で飲む時は自分でおつまみを作って友達に出していました。

趣味ではスノボをやっていてました。ワンシーズン10回くらいは行きましたね。徐々に、スノボをもっと本格的にやりたくなって会社を辞めました。とにかくスノボがしたくて、もっと上手になりたいって気持ちが大きくて、北海道の山にこもることにしました。

留寿都村で働きながらスノボをする日々でした。雪質がとても良いので、滑っていてとても楽しいんですよ。

スノボの大会に出ましたし、プロになることも考えました。ただ、プロになるためにはハーフパイプなどのテクニックの練習をしなければならないんですよね。僕は難しい技を決めるよりも、まだ誰も滑っていないバックヤードを滑るのが好きだったんです。

また、プロになる程の実力はないと思っていました。職場の同僚で、ずっとスキーをやっていた子がスノボに転向した途端、すぐに抜かされてしまったことがあって。自分の実力はその程度なんだと分かりました。

奥さんとの出会いと就職、そして独立

夏は東京のバーで働き、冬は北海道にこもる生活を4年ほど続けました。とりあえず、日本の山はほとんど滑り尽くしてしまったので、次に挑戦するなら海外かなとか思ってましたね。

ただ、そんなお金はありませんし、プレイヤーとしての頭打ちは感じていたので、いつまでスノボに関わるんだろうとは思っていました。スノボに特化したポータルサイトを作ってみようとか、スノボ関係の雑誌を作っている会社で一緒に働こうとか、考えていはいたんですが、なんか違うんですよね。スノボに関わり続けることに限界を感じていたんです。

そんな時に彼女ができて、ちゃんと働こうと思いました。スノボ生活をやめて、就職しようと。ただ、それまでキャリアを積んでいないので、就職活動では大苦戦。最終的には、友達に誘われた建設関係の会社に入ることにしました。

ちょっとで良いから手伝ってくれないかって言われて。建設をやりたいとは思ってなかったんですが、とりあえず、そこで働かせてもらうことになりました。

やってみたら案外面白かったです。やればやるほどお給料も上がるし、何かを作るときに端から見てるだけじゃなくて、その技術を身につけることができるのが楽しかったんですよね。この仕事も良いなって思うようになりました。

10年くらい経つと、少しずつ自分で仕事を取ってこれるようになりました。その頃から、独立するのも良いかもしれないと思い始めました。

建設業界では、自分で仕事を取ってこれるなら、独立したほうが圧倒的に稼げるんです。友達と一緒に独立すれば良いんじゃないかって。

でも、友達もなかなか踏ん切りがつかず、独立するとはなりませんでした。でも、このままただ会社に勤めて同じようなルーティーンの仕事をし続けることになるので、それもどうかなって悩み始めました。

建設の仕事をする傍らで、連休の日は野外フェスで料理を売っていました。建設よりもそっちのほうが楽しいし、僕ひとりで独立するなら飲食店をやりたいなって思っていましたね。

仕事をやめて、宝島へ移住

ある日、妻が面白いサイトがあるといって、「日本仕事百貨」というサイトを見せてきました。その中の一つの記事に、鹿児島県のトカラ列島というところで、島おこしの求人募集が出ていたんです。求人というか、島おこしプロジェクトの募集みたいな感じで。

その募集記事の内容が面白かったんですよね。まず、どこにあるかも分からないですし、仕事の内容も全然イメージできなくて。でも、逆にそれがすごく面白そうだなって思ったんですよね。島での生活自体は、小さい頃に行ってたからイメージを持てたんですけど、あまりにもよくわからない場所だったのが面白くて。

妻は元々海外志向が強くて、いつか海外で暮らしたいなんて話はしてたんですけど、島で暮らすことも選択肢に入ってきたんです。それで、トカラ列島に関する本を買い漁って、調べてみることにしたんです。

トカラ列島は、8つの島から構成されていて、その中のひとつに「宝島」という島がありました。最南端の島です。名前を見た瞬間に、「宝島って名前を使えば、何か面白いことできるんじゃないか?」と思いましたね。夢がある名前じゃないですか。

先輩移住者もいるみたいで、宝島だったら住めそうだと思いましたね。それで、島おこしの企画書を作って、下見に来ることにしました。企画書には、古民家カフェや農業、島外ボランティアの受け入れや環境活動などをやると書きました。

初めて来た宝島は、自分の想像した通りの感じでした。天気がすごく良くて、それだけで楽しかったですね。

宝島に行くには、鹿児島港から13時間近く船に乗る必要があります。しかも、週に数便しか出ていないので、僕が来たときは滞在できたのは半日でした。住めそうな家の調査とか、必要そうな免許の確認で終わっちゃいました。もう住みたいって思ってて、下見で完全に住むって決めましたね。

宝島は、他の島に比べて移住対策もしっかりしていました。たとえば、移住して3年間は島からお給料がもらえるんです。地元の方も、人間関係があんまり複雑じゃないですし、移住してきた人を受け入れてくれるんですよね。だから移住することへの不安も全然なくて、もう今の仕事をやめて宝島に移ろうって決めました。

新しい場所で、挑戦の日々

島に移り住んでから、企画書に書いたものを実行しようと思いましたが、そう上手くはいきませんでした。まずは古民家カフェ。そもそも、島には人が少なすぎて、カフェや飲食店をやっても成り立たないんです。島に住んでる人は99人くらいで、観光客も来ない場所ですから。

観光業も難しいということで、まずは産業の方に手をつけていこうと考えて、農業をすることにしました。

作ったのは島らっきょうです。僕はお酒を飲むのも料理をするのも好きなので、島らっきょうは以前から好きでよく食べてたんですよ。島らっきょうはこの島でも作れると聞きましたし、病気も少なくて虫も食わない上に、台風の影響も受けづらい。初心者でも作りやすいと思って作り始めました。

農業をやりつつ、それだけでは食べていけないので、トビウオ漁船にも乗りました。トカラ列島で漁業をやろうと思うと、トビウオくらいしか量が取れないんですよね。昔は、トビウオの塩乾が特産品として有名だったみたいです。

さらに、バナナの繊維を使った「芭蕉布」の生産もやるようになりました。みんなで集まって飲んでる時に、先輩から「ここは昔、芭蕉布をやってたんだよ」って話を聞いて、面白そうだなって思ったんです。特産品として売り出せば、島おこしになるって思ったんです。

しかし、調べれば調べるほど、手間とコストがかかることが分かりました。しかも、沖縄には、人間国宝の職人さんもいるほどブランドが確立されていて、僕たちがやっても太刀打ちできないんですよね。

そこで、もっとリーズナブルで新しいものが作れないかなと思って、実芭蕉(一般的なバナナ)の茎の繊維と、この島に昔から自生してる糸芭蕉っていう小さい実しかならない芭蕉の繊維を組み合わせた紡績糸を使って、芭蕉布を作ることにしたんです。

これからも島で暮らし続ける

宝島に移住して、7年ほど経ちます。現在も、島らっきょうの生産を中心に、トビウオ漁や芭蕉布づくりなど、時期によって色々なことをしています。島らっきょうは9月に植え付け、2月に収穫です。歯ごたえが良いのに身がしまっていて、生で食べるのがおすすめです。

最近では、魚の直売所の手伝いもしています。元々、魚は加工して出荷していたので、加工場はあったんですけど、そこで島の人にも切り身を販売することにしたんです。島なので、魚はいっぱいあるだろうと思われるんですが、そうでもないんですよね。

例えば、学校の先生として赴任してきた人など、自分では取れませんし、漁師にもらってもさばくことができません。お年寄りも、一匹まるまるはいらなかったりするんです。こっちでさばいたものを、好きな分だけ買って食べてもらえるのて、大好評でみなさん買いに来ていただけます。

あと、今はボランティアさんの受入とかもやっています。年間で100名くらい、8泊9日程度宝島で過ごしてもらいます。時期によって、農業を手伝ってもらったり、魚の加工を手伝ってもらったり、バナナ繊維の紡績を手伝ったり、様々です。大学生を中心に色々な人が訪れてくれます。

島で暮らしはじめてから、今まで一回も島から出ていきたいと思ったことはないですね。あまりにも何もできあがっていない島なので、自分たち次第で、いろんな結果が出せるんです。その積み重ねで周りの人からも応援してもらえるようになって。そういうのが面白いですね。

これからは、宝島がもっと活気づいてきてくれたら良いなって思ってます。この島に最初に来た時に、印象はすごく良かったけど、やっぱり子どもが少なくて活気がない感じはありました。もともと、大人数でわいわいするのが好きなので、もっと人が集まる場を作っていきたいんです。

今は移住者が多くて、僕が来てからの数年で人口も増えました。人口は130人程度ですが、未就学児が20人ほどいて、若い人が増えています。Uターンで帰ってきてくれる人がもっと増えたら、さらに活気づくと思うんですよ。

でも、帰ってきてもやれる仕事が牛の生産か加工くらいしかないんですよ。仕事に多様性を持たせて、魅力的な仕事を増やさないと、帰ってくる人も少ないのかなと思っています。

これからやっていきたいと考えているのは、島に飲食店を作ることです。今も料理が好きで、ピザ窯でピザ焼いてみんなに食べてもらったりしてるんです。この島にはみんなが気軽に集まれるところがないので、飲食店じゃなくても、まずはコミュニティスペースみたいなものを作りたいです。

あとは、まずは外の人に宝島の存在を知ってもらうことですね。僕たちが作った商品を買ってもらう先で、宝島のことを知ってもらう。まず知ってもらうことが大事ですね。

離島経済新聞 目次

【国境離島に生きる】国境離島71島に暮らす人へのインタビュー

いわゆる「国境離島」と呼ばれる島々にはどんな人が暮らしているのか? 2017年4月に「有人国境離島法」が施行され、29市町村71島が特定有人国境離島地域として指定されました。「国境離島に生きる」では、内閣府総合海洋政策推進事務局による「日本の国境に行こう!!」プロジェクトの一環として実施された、71島の国境離島に生きる人々へのインタビューを、ウェブマガジン『another life.』とのタイアップにて公開します。

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