つくろう、島の未来

2019年02月18日 月曜日

「国境離島」と呼ばれる島々に暮らしている人の想いを紹介。2017年4月、「有人国境離島法」が施行され、29市町村71島が特定有人国境離島地域として指定されました。「国境離島に生きる」では、内閣府総合海洋政策推進事務局による「日本の国境に行こう!!」プロジェクトの一環として実施された、71島の国境離島に生きる人々へのインタビューを、ウェブマガジン『another life.』とのタイアップにて公開します。

15年越しで叶えた海の側でパン屋を開く夢。
可能性を模索し続けて、やっと見つけたもの。

五月女一敏(さおとめ・かずとし)|パン職人。種子島で、天然酵母をウリにしたオーガニックパン屋「SHARE」を経営する。

鹿児島県の種子島(たねがしま)にて、天然酵母を使ったパン屋を経営する五月女さん。幼い頃から複雑な家庭環境で悩む中で見つけた夢とは、どんなものだったのでしょうか。自分が苦労した経験から、子ども達には人生には様々な選択肢があることを知ってほしいと語る五月女さんにお話を伺いました。

人生の可能性を模索していた

東京で生まれ、茨城で育ちました。後で知りましたが、母はシングルマザーで、僕が3歳の時に父と結婚したそうです。一人っ子で兄弟はいませんでした。当時の家庭内の空気には、何となく違和感がありました。複雑な家庭環境だったからかもしれません。

子どものときって、父親と母親がすべてじゃないですか。だから、何か厳しいことを言われたりしても、「自分が悪い」って思っちゃうんですよね。たとえ家庭で変なことがあっても、他所の家のことがわからないから気づけません。中学生になって客観的な考え方ができるようになってからは、なんで俺や俺の家族はみんなと違うんだろうって葛藤するようになりました。

人と接するのが苦手で、小学生の頃は気性が荒くて学校でも問題ばかり起こしていましたね。先生の言うことを聞かないで帰っちゃうとか。中高と野球をやってチームプレーの難しさも感じていました。「自分が傷つきたくない」っていうのが一番にあったのかもしれませんが、他人に心を開けませんでしたし、人との付き合い方が、よくわからなかったです。

高校で進路指導を受けたとき、将来に対しては何の希望もなかったですね。大人と言えば親のイメージで、あまりいい印象はなくて。成功するためには大学に行けば良いのかもしれないけど、うちはそんなお金がない。自分は負け組だって思っていました。

とにかく、この場所から、この空気から、この環境から逃げ出したい。そういう気持ちが強くて、卒業して就職しました。

就職先は、飲料メーカーでした。仕事は楽しかったです。それまでは学校で部活とかに費やしていたのと同じ時間働くと、お金に変わるんですから。頑張った分だけ稼げることが面白かったですね。

あとは、会社の先輩たちが、色々教えてくれるんです。バイクとか車とか旅とか、自分の知らない扉をどんどん開けてくれたので、狭い世界で生きてた俺にとっては楽しい日々でした。

自分の理想を実現するための選択

でも、2年目くらいになってくると、組織っていうものに違和感を感じるようになったんです。会社って、体調悪くて休んでる人のことを悪く言うことがあるじゃないですか。この忙しい時に休むなよ、とか。そういうのがすごく嫌で。

あとは、女性社員が結婚して妊娠したとき、申し訳なさそうに会社を辞めたり、産休を撮ったりしていて。人は幸せになるために仕事を頑張っているはずなのに、結婚や出産ていう幸せな一大イベントを目前にして気まずそうしてるのを見て、なんか違うなと思ったんです。

でも組織にいることで守られていた自分もいます。問題を起こしても、会社っていう看板が、全部俺を守ってくれたんです。その代わり、自分が正しいと思う方針で全部をやらせてはくれないし、自由にはならないですよね。そういうのが、心の中でずっとひっかかってたんです。

全責任を自分で負うから、自分の好きにやりたい。そう思うようになって、いつか小さくても自分の店を持ちたい、という目標ができました。お店じゃなくて、会社でもよかったんですが、とにかく、自分の理想を自分で叶えたいと思いました。

それで、自分が何をやりたいか探すため、社会人4年目に会社を辞めて、いろいろな仕事をやりました。宅配、訪問販売、ガソリンスタンド、中古車販売、ショップ店員など、興味のあるものは全部やってみました。数年間、本当に自分のやりたいことを探していました。

その中で出会ったのが、パンでした。僕は当時東京に住む彼女と遠距離恋愛をしていて、彼女はうちに遊びに来るときに、いろいろな東京土産を持ってきてくれました。そのなかのひとつが、渋谷にある「ルヴァン」というお店の、天然酵母を使った硬いパンでした。

最初は、なんだこれって思ったんです。固くて、すごく美味しいとは思いませんでした。でも、何度か食べてるうちに、なんかまた食べたいなと思うようになってきたんです。コンビニでも、普通のパン屋さんでも買えない、他とはまったくちがうパン。なんだこの個性はって。

結局そのパンに惚れちゃって、次第に「あれ買ってきてよ」って彼女にねだるようになりました。上京してからから、店舗に初めて行ったんですが、そのときの衝撃は忘れられません。

店舗の作りはヨーロッパの田舎調。和と洋が混ざった雰囲気なんですけど、おしゃれに気取り過ぎていなくて。肩肘張っていない雰囲気にも惚れて、こういうお店で働けたらすごく素敵だなって思ったんです。ファッションと同じで、お店の雰囲気が、自分のツボにはまりました。こんな店を自分でやってみたいと思いましたね。

一回気にしちゃったら、恋愛みたいにどんどんのめり込んじゃって。告白するように「働かせてください」って言ったんですが、人手は足りているということでした。それで、他のパン屋さんで働きながら、空きを待つことにしました。

2年待ち、希望通り働かせてもらうことができました。ただ、パンを作れる人数は限られているので、そこに至るまでの人間関係では苦労しました。

その店での修行は、技術的なものだけじゃなくて、内面的な、人間的な成長を促す場でもありました。技術は動画でも見れば学べますが、人としてのあり方を学ぶことこそが修行なんだ。そんなことを遠まわしに言われたような気がしました。

種子島への移住を決意

3年ほど修行してた30歳のとき、腰を壊してしまいました。パンを作る工程の中で、中腰で動くのが多くて、やられちゃったんです。そのまま働き続けるのは体力的に難しくて、将来独立することなどを考えるようになりました。

元々、サーフィンをやるので、海のそばでパン屋を開きたいと考えていたんです。でも、東京はサーフィンができるような海がありません。俺としては湘南とか千葉でもよかったんですけど、妻がどうせなら暖かいところ、南の島ががいいって言いうんです。

俺の海沿いっていう希望と、妻の南国っていう希望を踏まえて、小笠原諸島や奄美群島、沖縄諸島、伊豆諸島に行って、住むところを探しました。移住先の条件は、自給率が高いことですね。何かあった時に食料を確保できるのは大事だと思ったんですよね。種子島は、土地がほぼ平坦で農業が盛んに行われているので、その気になれば自活できます。それが決め手でした。

あと、奄美よりも南になると、ハブがいるんですけど、種子島にはいません。子どもたちには「林の中で遊んじゃダメ」「生垣のところで遊んじゃダメ」と、制約をつけたくなかったんです。

ようやくオープンした自分のパン屋

30歳の時に妻と種子島に移住しました。種子島に来てからは、「とりあえずは島に慣れよう」と思って、いろいろな仕事をやらせてもらいました。大工さんとか、漁師さんのバイトとか、黒毛和牛の子牛のせり市場とか。

移住してすぐの頃は、パン屋をやるのはまだ無理だと思いましたね。島ではパン自体がそんなに流行っていなくて、天然酵母の硬いパンを食べたことない人が多かったんです。島で流行らせる自信もありませんでしたし、東京で流行っているものをいきなりはじめても受け入れられないと思いました。

「オーガニック」という言葉が知られてきたとはいえ、東京でも天然酵母のパンは、まだまだマニアックなパンでしたからね。島でやるのは、ハードルが高かったです。

まずは、趣味だった自転車のお店を始めました。それでもパン屋は夢だったので、「いつかやろう」っていう思いはありました。

それからかれこれ10年ほど、パンにはかかわらず生きてきたんですが、ある時、知り合いに天然酵母のパンを焼いていたっていう話をしたら、「うちのお店で焼いて出してみない?」と誘われました。その方は、ちょうどオーガニックカフェをオープンしたところだったんです。

それから月に1回か2回くらい、カフェでパンを焼いていると「店を出したら?」っていう話になりました。島で天然酵母の固いパンが受け入れられるか、不安はありました。それでも、それまではいなかった、趣旨を理解して応援してくれる人が出てきてくれたのはチャンスだし、「なんとかなるかもよ」って言ってもらえたので、やってみようと決意しました。

2016年の11月、ようやくパン屋をオープンしました。パン屋になると決めてから、かれこれ15年以上、修行を終えてから10年経って、やっと自分のお店を持つことができたんです。

一歩ずつ夢の完成を目指す毎日

現在は、天然酵母を提供する「SHARE」というパン屋をやっています。国産の小麦を使った、直培養酵母っていうのがコンセプトです。「人間の食」を扱っているので、小難しいことはせず、体にいいもの、そしておいしいものを提供するっていう、当たり前のことをやっていきたいなと思っています。

パン屋っていうのも夢の通過点であって、ベーカリーカフェとか、宿とか、そういうものを最終目的にしています。それは、叶っても叶わなくても追い続けたい夢ですね。

夢って、お金だけじゃ完成しないんですよね。家族とか友人、支えてくれる人がいて叶うものじゃないですか。自分だけでお店を開くことはできるかもしれないけど、それは完成形じゃなくて。いろんな人を巻き込んでいかなくちゃと思います。

自分の葬式のとき、少なくても、本当に涙を流してくれる人が一人でもいれば、「俺の人生よかった」って思えます。少ないかもしれないけど、信じて応援をしてくれる人がいて、はじめて俺の夢は完成するんです。完成するかわからないけど、一生追い続けたいですね。

種子島で事業を成功させたいとは思うんですけど、いまの俺にはちょっと無理かなと思っています。種子島にもう10年以上住んでいるので、自分の能力っていうのがわかってくるんです。大きな事業って、より多くの協力者、より多くの信用が必要になってきますよね。

多くの人を巻き込むほどのコミュニケーション能力は、今の俺にはありません。だから、まずは目の前にあるものを一生懸命片付けています。先ばかりを見ないで、目の前の階段を一歩ずつ上がっていく感じ。まずはパン屋さんで成功をしたいなと思ってます。

それと、僕には5人の子どもがいますから、子育てしている中で自分の子はもちろん、若い子達にはもっと夢を追ってほしいと思います。選択の自由があるっていうのを、もっと知ってほしいんです。

いろんなしらがみの中で「これしかない」って思ってる人はいっぱいいると思います。だけど、自分の選択次第で、何でもできるんですよね。俺は自分で選んでこの仕事をしているし、種子島に来ました。やろうと思えば店を潰すことだって、この土地を去ることだってできる。自由に選択できるんです。

すべては自分の選択でなんとでもなるから、もっと自分の選択や可能性を信じてほしい。それが、この島の活性化にもつながるような気がしています。

種子島は、自然の素晴らしさもあれば、やっぱり人間関係の難しさだってあります。大都会なら苦手な人とは会わなければいいですけど、この規模だとそうはいきません。コミュニケーションが苦手なので、うまくいかないことだってあります。

それでもこの生き方を選んだのは自分。反省はしても後悔はしたくない。だからこれからも夢を追い続けるため、目の前のことに一生懸命取り組んでいきます。

離島経済新聞 目次

【国境離島に生きる】国境離島71島に暮らす人へのインタビュー

いわゆる「国境離島」と呼ばれる島々にはどんな人が暮らしているのか? 2017年4月に「有人国境離島法」が施行され、29市町村71島が特定有人国境離島地域として指定されました。「国境離島に生きる」では、内閣府総合海洋政策推進事務局による「日本の国境に行こう!!」プロジェクトの一環として実施された、71島の国境離島に生きる人々へのインタビューを、ウェブマガジン『another life.』とのタイアップにて公開します。

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