つくろう、島の未来

2019年03月25日 月曜日

「国境離島」と呼ばれる島々に暮らしている人の想いを紹介。2017年4月、「有人国境離島法」が施行され、29市町村71島が特定有人国境離島地域として指定されました。「国境離島に生きる」では、内閣府総合海洋政策推進事務局による「日本の国境に行こう!!」プロジェクトの一環として実施された、71島の国境離島に生きる人々へのインタビューを、ウェブマガジン『another life.』とのタイアップにて公開します。

力を合わせて、安定した漁業経営を目指す。
漁と加工、どちらもやるから見えること。

松前幸廣|漁師、うにの加工

北海道の奥尻島(おくしりとう)にて漁師をしながら、水産加工場にて工場長を務める松前さん。漁師をしながら加工にも挑戦を始めた背景には、どのような危機感があったのでしょうか。お話を伺いました。

漁師の長男として育つ

北海道の離島、奥尻島で生まれました。漁師の家系の長男。家の目の前に浜があったので、暇さえあればいつも魚を釣っていましたね。割り箸に釣り糸をくっつけて、ひたすら魚を釣る毎日。食べるわけではなく、とにかく魚を取ることが楽しかったんです。

船にもよく乗せてもらいました。手伝いをするわけでもなく、遊び感覚です。船に乗っても、すぐに酔って寝ているだけでしたが、楽しかったんですね。漁に出てしまう父と祖父と一緒にいられるのが、船の上だけだったからかもしれません。

そんな環境で育ったので、将来漁師になることに何の疑いもありませんでした。本格的に漁の手伝いを始めたのは、中学生の時。祖父が船から降りたので、父の手伝いをするようになりました。

漁の時期は、毎週土曜日の午後に海に出ました。平日の夜も、手伝うことがあればやります。仕事を嫌だとは思いませんでした。責任感が出たからなのか、船酔いもしなくなりました。

そのまま漁師になるつもりだったので、高校に進学する気はありませんでした。しかし、父に高校進学を勧められました。地元の奥尻高校にはスキューバダイビングの授業があり、そこで潜りを学び、潜水士の資格を取るように言われたんです。これからの漁師には、潜水も求められると。それで、ひとまず高校に通うことにしました。

様々な種類の漁に挑戦

ダイビングの資格は高校1年の時に取りました。目的を達成したので中退しようかと思ったんですが、せっかく入学したなら卒業した方がいいという父の助言もあり、卒業まで待つことにしました。ただ、時間を無駄にしたくなかったので、高校生の間に漁師に必要なスキルをつけると決め、小型船舶免許や無線の資格を取りました。

父には大学進学も勧められましたが、私にはその気がありませんでした。漁師になることしか考えていなかったんです。会社に勤めれば、たとえ何もしなくても安定して給料が入ってくるかもしれません。だけど、漁師は魚が取れたらその分だけお金になります。いい漁師になってたくさん稼いで、いい車に乗りたい。そんなことを思い描いていました。

高校卒業後、漁師になってからは、新しいことを覚えるのに必死でしたね。奥尻では、時期によって色々な漁をして1年を過ごします。以前から父の船でやっていたイカやタコ漁は手伝いの延長線でしたが、その他の漁は初体験でした。

アワビ漁では、まずアワビがどこにいるか見つけるのが大変ですし、見つけても、取るのにさらに一苦労です。船の上から、タモ網を使ってアワビをひっくり返して収穫するんですが、失敗するとアワビが岩にベタッとくっついてしまい、取れなくなります。上手い人なら10年ほど経験を積めば取れるようになるのですが、私は全然上達しませんでした。アワビ漁は苦手だったんです。

ウニ漁は、自分で船を操舵してポイントを探し、船上から水中眼鏡で海の底を除き、タモ網を使って取ります。やり方自体はある程度分かっていましたが、実際に取るのは難しかったですね。ちゃんと取れるようになるまで、3年はかかりました。

新しいことに挑戦しながら、イカ漁も続けます。ある程度慣れてくると、父と一緒に乗る船の操舵を任されるようになりました。父の腕を超えたわけではありませんでしたが、「若いうちに失敗しながら経験を積まないと上達しない」という父の考えの元、任せてもらえたんです。

取るだけでなく、売ることも大切

何年も漁をしていると、魚の漁獲量がだんだん減っていることを肌で感じました。特に、イカやホッケなどの回遊魚は明らかに減りました。ナマコも減っていましたが、その分値段が高騰して、昔は誰もやっていなかったナマコ漁をみんながするようになりました。

同じ場所で漁をしていても、環境がどんどん変わるんです。漁獲高が安定しないことに対する不安はありました。二人目の子どもも生まれ、家族を食べさせていけるのか。やり方によっては問題ないんですが、現実として、漁がない時期は島外に出稼ぎにいく人もいました。

私は子ども時代に父とあまり一緒にいられなくて、寂しい思いをしたこともあり、島外には出たくないと思っていました。何か島の中でできることはないか。そんなことを、魚の加工場を経営している叔父に相談してみました。

すると、こちらが話し切らないうちに、「加工もやってみろ」と言われました。驚きましたが、願ってもない提案です。それで、漁師を続けながら、叔父の食品加工場で働くことにしました。

その工場で作っていたのは、うにの塩漬けです。奥尻では、一般の家庭でもうにを塩漬けするので、加工のやり方や流れ自体は分かっていたのですが、莫大な量のうにをどうやって加工していくかを知るのは初めてでした。

また、取った魚を、お客様にどうやって届けていくかという観点が身につきました。漁師だけをしていた時は、魚を取れば終わり。あとは漁協に持っていくだけで、どうやって売るかかなんて考えたことはなかったんです。加工会社では、作った製品をどこで売り、どのように流通させるかも大事。漁師にとっても、取った魚をいかに売るかが大事だと分かり、売り方に目が向くようになりました。

育てる漁業を

加工場で働き始めて1年経ち、やっとペースが掴めてきました。現在は、年間を通して加工の仕事をしつつ、空きの時間で漁に出ています。時期によって、イカやホッケ漁に出たり、うにを取ったり、潜水でナマコを取ったり、多岐に渡ります。潜水では、観光ツアーの補助をすることもあります。

取れる魚の量は減っているので、今後は「育てる漁業」をしっかりと根付かせていきたいですね。乱獲を防ぐために、現在は船ごとに取れる漁獲高を制限しています。結局、たくさん取れすぎても価格が下がってしまうので、資源を残しつつ、きちんと儲かる量に制限するのはいいことだと思います。

また、最近、漁師の青年部で始めたのが、岩ガキの養殖です。昔は、漁師同士ライバル意識を燃やしたり、外の人に漁場を取られないように必死でしたが、ここまで魚が減っている今、そうは言っていられない時代です。これからは、みんなで協力して継続する漁業をやっていけたらと考えています。

新規の漁業者の受け入れも始めたいとは考えています。奥尻の漁師の高齢化率は高まっていて、70歳以上の漁師が8割。このままでは数年後には漁師の数が格段に減り、奥尻の漁業全体として安定した魚の供給ができなくなります。以前は外の人を受け入れることに抵抗もありましたが、今は積極的に人を呼び込みたいと考えています。

あとは、漁師と加工業者、ふたつの立場で仕事をしているからこその視点を活かしたいですね。島なので、魚を取ってもその日の内に本土に出荷できるわけではありません。それなら奥尻で取れた魚に、しっかりとした付加価値を付けていかなければなりません。そういうことも、今後は考えていきたいですね。

儲からなくなってしまったら、漁師をやりたいと思う人はもっと減ってしまいます。ちゃんと儲け続ける仕組みを作り、自分たちの手で、安定した漁業経営ができるように力を入れていきたいです。

そうやって島で働ける場所を増やせば、島外に出た人たちが帰りやすくなるとも感じています。今は、人口が減っているので、観光の受け入れ体制をつくるのも難しい状況です。島を出たきり戻ってこない人も多いんですが、仕事があるなら戻りたいという人は多いはず。仕事と住む場所をしっかりと整えて、島の中の仕事だけで生活できる状態をつくりたいです。

離島経済新聞 目次

【国境離島に生きる】国境離島71島に暮らす人へのインタビュー

いわゆる「国境離島」と呼ばれる島々にはどんな人が暮らしているのか? 2017年4月に「有人国境離島法」が施行され、29市町村71島が特定有人国境離島地域として指定されました。「国境離島に生きる」では、内閣府総合海洋政策推進事務局による「日本の国境に行こう!!」プロジェクトの一環として実施された、71島の国境離島に生きる人々へのインタビューを、ウェブマガジン『another life.』とのタイアップにて公開します。

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